[#表紙(表紙.jpg)] [#表紙(表紙2.jpg)] 松本清張 象徴の設計 新装版 [#改ページ]   象徴の設計      1 [#ここから2字下げ] 〔明治十一年四月十三日・東京日日〕愁雲惨憺トシテ妖気濛漠タリ、王師|吶喊木留《とつかんきどめ》ノ賊塁ニ肉薄シ、官兵叱咤、植木ノ敵壁ニ突進シ、砲響雷ノ如ク、剣尖電ノ如ク、伏尸壑《ふくしがく》ヲ埋メ、流血杵《りゆうけつしよ》ヲ漂《ひよう》シ、熊城《ゆうじよう》粮尽クルモ聯絡未ダ通ゼズ、賊軍ノ鋒挫クルモ猖獗《しようけつ》尚ホ熾《さかん》ナリ。其連戦勝敗ヲ互ニスルニ当リテヤ、朋友相殺シ、骨肉相戦ヒ、修羅ノ惨状ハ実ニ見ルニ忍ビザル者アリ、且ツ夫レ人心|恟々訛伝百出《きようきようかでんひやくしゆつ》、或ハ熊城ノ陥落ヲ唱ルモノアリ、或ハ王師ノ大敗ヲ説クモノアリテ、世人ヲシテ戦機ノ如何ナルヲ苦慮シ、前途ノ如何ヲ憂懼《ゆうく》セシメタルハ是レ昨年今月今日ノ景況ナリシニ非ズヤ。却テ今年今日ノ現況ヲ視ルニ、妖気全ク霽《は》レテ愁雲尽ク散ジ、愛日照サザル所ナク、仁風及バザル所ナク、四海歓ヲ合セ、六合祥《りくごうしよう》ヲ呈ス。況《いわん》ヤ時マタ春和ニ際シ、新雨|将《まさ》ニ霽レテ東風|徐《おもむろ》ニ吹キ、東台園中|踏青《とうせい》ノ人群ヲ成シ、墨陀堤上賞桜ノ客織ルガ如ク、或ハ画艇ヲ金波ニ棹シ、或ハ糸竹ヲ珠楼ニ奏シ、以テ昇平ノ楽ヲ序シ、以テ昭代ノ余沢ヲ楽ムノ候タルニ於テヲヤ。 [#ここで字下げ終わり]  改代町《かいだいちよう》は古着屋が多い。山手辺で改代町といえば、すぐに古着屋とうなずかれた。清田屋、田丸屋、遠州屋、丸木屋、伊勢屋、小泉屋、富田屋、松木屋などといった屋号を暖簾《のれん》に染めた店が、南|赤城坂下《あかぎざかした》から北|服部坂下《はつとりざかした》、古川橋に向って両側に十数軒、軒を連ねていた。中には田丸屋のように、土蔵造りの一構えを持って質屋を兼業したものもある。  そのなかで、小さな店だが藤川屋というのがあった。当主は津丸藤兵衛《つまるとうべえ》といって、三十二、三の、色の浅黒い、眼つきの精悍《せいかん》な男だった。言葉は商人らしく如才がないが、どことなく武張ったところがある。あれは上州辺の士族であろうと近所では噂していた。  藤川屋がこの古着屋の町と少し離れて紋描き屋の隣りに店を構えたのは、二年前だった。店はさして繁昌しているというほどではないが、それでも表から中にかけて暗くなるほど着物が掛けられてある。亭主は一日中店に坐っていることもあり、また、二十七、八くらいの痩せた女房が代りをしていることもある。  津丸藤兵衛は、実は警視庁の元巡査で今は諜者《ちようじや》をつとめていた。その素姓は近所の誰も知らない。時折り、警視庁から客の姿を装って刑事巡査が訪れてくる。  明治十一年七月の或る日の夕方であった。  藤兵衛が表に水を撒《ま》いて一休みしていると、外出先から炎天の埃《ほこ》りを浴びた女房がくたびれきった顔で帰ってきた。彼女は、今日、|雑司ヶ谷村《ぞうしがやむら》の鬼子母神《きしもじん》に詣ったのである。手には土産物の手造り人形のついた笹の葉を持っていた。  藤兵衛の女房は、月に一回必ず鬼子母神にお詣りする。ここから雑司ヶ谷村まではわりと近いが、その辺の百姓家に女房の親戚があったので、どうしても一日がかりになる。  さて、女房は、その親戚先で聞いたという話を亭主の藤兵衛に言った。 「今日、従妹《いとこ》が言ってたんだけど、お前さん、また大きな戦争があるのかえ?」  女房がまたと言ったのは、西南戦争が済んでから一年を過ぎた頃だったからだ。この戦争には、つい近くに屯営のある近衛兵も全部出動した。 「そんなことはねえ。そうたびたび戦争があって堪《たま》るけえ」  藤兵衛は笑った。 「それでもね、従妹の友達の弟というのが竹橋《たけばし》の砲兵大隊の馭卒《ぎよそつ》だけど、この前の外出で帰って来て、姉さん、親父の看病を頼むよ、と言ったそうだよ。その親父さんというのは、二年越しに患いついた中風で、すぐに死ぬというようなことはないのだけど、その弟は妙に思い詰めた顔でそう言ったんだね」 「うむ」  藤兵衛は聞いていた。 「それで姉が、おや、お前、どうしてそんなことを今さらのように言うんだえ、と心配になって訊いたところ、弟の馭卒が言うには、自分の身はいつどうなるか分らないから、姉さんに頼んでおくのだと言ったそうだよ。その弟が兵営に帰ったあとで姉は、どうも不思議なことを弟は言ったものだ、親父さんの病気は二年越しで、この前九州へ戦争に行く前にも同じことを言ったが、一年前帰って来てからは、ついぞそんなことを口にしたことはない、どうも不思議なことがあるものだ、と友だちのわたしの従妹に話したんだね。それであたしはお前さんに、どこかにまた戦争でも起りそうなのかと訊いてみたんだよ」 「戦争なんかあるもんか」  と藤兵衛は吐月峰《はいふき》に煙管《きせる》を叩いて言った。 「敗けた薩摩の残党が御府内まで入り込んでいるという噂はあるが、なに、それもコソ泥と同じことで、他人《ひと》の眼を掠《かす》めて溝鼠《どぶねずみ》のように逃げ回っているだけだ。てんで勝負にはならねえ」 「そうでしょうね」  女房もそう思っていたらしく、納得して、あとはほかの話に移った。  しかし、藤兵衛は、いま女房から聞いた話があとになって、どうも気にかかりはじめた。  近頃は警視庁の探索も一段と厳しくなっている。それは、この年の五月に内務卿|大久保利通《おおくぼとしみち》が紀尾井坂《きおいざか》で暗殺され、下手人の石川県士族島田一郎、同長連豪などはその場で捕縛されたが、その余党の詮議が厳しい。これも西南戦争の煽《あお》りであった。島田一郎は懐《ふとこ》ろに斬奸状を持っていて大久保内務卿を刺し殺したのである。  また、ついこの間だが、千葉県に西郷の残党が入り込んだという情報で警視庁の巡査が大勢出動している。  大分、世の中が穏かでなかった。西南戦争が始まってから物価は騰《あが》りっ放しで、零細民は困っている。越中国伏木港では米価騰貴で千余人の人民が暴動を起した話も伝わってきている。  しかし、藤兵衛が砲兵大隊馭卒の話を聞いて首を傾《かし》げたのは、それを西郷の残党に結びつけたのではなかった。彼はほかからも、砲兵大隊の兵隊がひどく不平不満を持っていて、悪くすると一騒動起すかもしれないという情報を握っていたのである。  砲兵大隊の兵卒の不平というのは、西南戦争が済んで一年以上にもなるのに一向に恩賞の沙汰がない。上のほうばかりは早く論功行賞が行なわれていたが、自分たちはかえって給料が削減になったということが原因のようだった。在来の砲兵馭卒は、一等卒が一日十一銭二厘で、月平均三円四十三銭七厘であり、二等卒では月平均二円九十八銭一厘であった。  これを砲兵の一等卒八銭四厘、騎兵の一等卒七銭七厘、歩兵の一等卒七銭に比較すると、馭卒の給料はずっといい計算になる。また、竹橋にある砲兵大隊は近衛兵であるから、鎮台兵よりは高額を支給されていた。  ところが、近頃予算の削減が行なわれて、陸軍省でも伍長兵卒は二十分の一強を給料から減じた。そこで、馭卒は、一等卒が一日八銭、月平均二円四十三銭三厘。二等卒が一日七銭一厘、月平均二円十六銭になった。これでも一般鎮台兵よりはまだ差異をつけられていた。  しかし、近衛兵の多くは士族の子弟から採られている。彼らの誇りは、一般鎮台兵の百姓出とは違うという自負がある。体格も勝れているのだけを検査のときに採っていた。それで、鎮台兵並みに減給するのは怪しからぬというのだった。  不平の二つは、恩賞の遅れていることらしい。近衛砲兵隊は、最初、大山|巌《いわお》少将の第四旅団に属して西南戦争に出征した。次いで一部の小隊は別働第一旅団に転属して戦ったが、砲兵隊の少い薩軍には、この砲兵が大そうな威力を発揮した。特に植木、田原坂《たばるざか》の戦闘において官軍が賊軍を制圧したのは、火砲の威力からだった。  このようなことで、鎮台兵より一段と己れたちを高く考えている近衛砲兵が、給料が減額されて鎮台兵並みに近づいたことと、今また西南戦争の終了後一年以上も経つのになお恩賞が実施されないことから、不平の声が強まっているようだった。  そういった噂を藤兵衛は耳にしている。  しかし、まさかそれで兵隊が暴動を起すとは彼も思っていなかった。雑司ヶ谷村の馭卒の話は藤兵衛も当分心に貯えているほかはなかった。  それから二、三日、暑い日がつづく。  藤兵衛は、毎日行水ばかりもしていられないので、近くの銭湯に行った。誰も同じ考えとみえて、銭湯は案外混んでいた。この頃の銭湯は、男湯の入口から梯子段が付いていて、二階に行けるようにしてある。二階では白粉をつけた女が茶や菓子の接待をする。  藤兵衛は湯槽《ゆぶね》に入った。まだランプに灯が入らないので、昏《く》れかかったままの湯槽はうす暗くなっている。  藤兵衛が入ったとき、二、三人で話をしていた男がふいと彼の顔を見て、慌てて口を噤《つぐ》んだ。だが、身体に湯をかけていた藤兵衛には、その話の尻が耳に入っていた。砲兵大隊の馭卒がどうかしたという言葉だった。  藤兵衛は知らぬ振りをして彼らに顔を向けて湯に浸っていたが、話はそれっきりに止んだ。話題は寄席の女義太夫の品定めに変っている。藤兵衛は、自分が警戒されたと知ったが、この連中で自分の正体を知った者は一人もいない。多分、第三者があとから加わったので、内緒話を打切ったのであろうと思われた。  そういえば、湯槽に浸っているのはこの三人だけで、ほかの者は洗い場で忙しく身体をこすっている。  藤兵衛は眼をつぶっていい心持の顔つきをしながら、うす眼を開けて見ていた。すると、三人は揃って上り湯にかかり、つづいて板の間で着物を着はじめた。二人は浴衣《ゆかた》だったが、一人は入れ墨の身体の上に法被《はつぴ》をひっかけていた。円の中に「二番組」という消防の印半纏《しるしばんてん》だった。  三人は友達とみえて、豆絞りの手拭を頭に載せたり、肩に掛けたりして、銭湯の暖簾を潜って外に出た。藤兵衛も急いで風呂から上がった。 「おかみさん」  と番台の女に訊いた。 「いま出て行った、火消しの半纏を着た若い者は、どこの人だえ?」  番台の女は片方の女湯のほうに釣銭を数えて出しながら、藤兵衛のほうへ振り返った。 「あれは山吹町の茂さんですよ。鳶《とび》の若い者でさ」 「ほう。山吹町には風呂屋はねえのかい?」 「向うにも寿湯というのがありますが、こちらのほうが気持がいいと言って、少し道程《みちのり》があっても来て下さいます」 「ほかの連れは、その茂さんの友達かえ?」 「そうです。いつもいっしょですよ」  それだけを聞くと、藤兵衛は暖簾を肩で分けて暮れかけた町に出た。      2  この頃、東京の不穏は何となく世上に伝わっているらしい。六月の半ばに山県《やまがた》陸軍卿が大阪の旅宿についていたが、鎮台兵二十名がこれを警固した。朝野新聞は、 「○昨今東京表が穏かならぬ抔《など》と言ひ触らすものがある故、堂島の米相場は俄かに騰がり、俄かに下がり、変化常無し。今朝東京より暗号の電信が両三回も其筋へ着せし由、此に就きて又色々の説あれ共通常人民の人気は至て穏かにて、演劇寄席も相応に入りあり、白米一升上等にて、七銭八厘位なれ共、差して苦にする者無し。○此頃高知はどうじや、どうじやと云ふもの計りなれ共、確なる事を知る者稀れなり、西海、熊本、石川の三新聞は更に読むもの無かりしが、何故か去月の中旬より此三新聞に注目するもの多し」  と記載した。  また、つい二、三日前には、去年の夏から引きつづいて大審院で調べられていた高知県士族|大江卓《おおえたく》、林有造《はやしゆうぞう》の陰謀事件に判決が下った。彼らは西郷の挙兵に合わせて政府転覆を企て、外国商人に談じて小銃八百梃と弾薬を調達した罪を問われたのである。また、大江、林事件に連座した元老院幹事和歌山県士族|陸奥宗光《むつむねみつ》も、除籍の上禁獄五年を申し渡された。  このような具合だから、警視庁も取締りが厳重だった。津丸藤兵衛もその旨を受けて、絶えず町の風聞や出来事に眼を光らせていたのであった。  藤兵衛が山吹町の鳶職について宥《なだ》めたり、賺《すか》したり、果ては自分の身を明かしたりして威《おど》かした末に、ようやく聞き得たことは次のような事情であった。  彼らは神楽坂《かぐらざか》の待合に顧客《とくい》として出入りしていたが、ついこの間、そこの女中がこんなふうに言ったというのである。  四、五日前、竹橋の砲兵大隊の兵卒数名が近くの小料理屋で飲み食いをした。いつも、休日の外出には決って来る馭卒だったが、昨日だったか一人がその店に姿を現わし、この前から溜っていた借金を支払いに来たという。水商売屋の常で、そんなものは又でよろしゅうございます、と言うと、いや、今のうちに払っておかないと、いつ払えなくなるかも分らない、と勘定を言いつけて借金を済ませた。  めったにないことなので、小料理屋の女将《おかみ》が、どこか遠方にでも行くのですか、と馭卒に訊くと、いや、そうではない、近々、この辺で大騒動が起るかもしれない、そうなると自分たちも働かなければならないので、万一のことがあると、こちらに迷惑をかけそうだから払っておくのだ、と答えたという。それだけではなく、前々からここに置き忘れていた莨入《たばこいれ》や手拭などを、同僚の分も全部まとめて持ち去ったという話だった。 「その兵卒は、何という名前だえ」  藤兵衛が刺青《いれずみ》の鳶の若者に訊くと、 「なんでも、西村《にしむら》という名前だったそうです」  と口を割った。  津丸藤兵衛は考えた。この前からいろいろと不思議なことが耳に入る。雑司ヶ谷での一件といい、今の神楽坂の聞き込みといい、どうも聞き捨てのならない話ばかりだ。藤兵衛は鳶職の又聞きだけでは当てにならないので、それを確かめるために神楽坂へ向った。  神楽坂は、御一新前は善国寺前までは武家屋敷で、左の角だけに商家があった。右の角には辻番所があり、西の方に武家長屋がつづいていた。が、政変後は、坂の両側は商賈《しようこ》が並び、横丁には芸者屋、待合が出来て、いつの間にか狭斜《きようしや》の巷《ちまた》になっていた。  藤兵衛が訪ねて行ったのは、その待合の「ひさ川」の隣りで、狭い小料理屋だった。この辺に足を入れる素見客《ひやかしきやく》のためにわりと繁昌している。  藤兵衛は年増の女中を表に呼び出した。 「おめえは、山吹町の鳶で茂造《しげぞう》という男を知っているかえ?」  藤兵衛が諜者の身分を明かして威かしたので、女中は不安そうにうなずいた。 「その茂造から聞いて来たのだが、この前、おまえの所で、砲兵大隊の馭卒が気前よく借金を払ったそうだな?」 「はい」  女中の顔は少し蒼褪《あおざ》めた。 「そりゃ結構なことだ。なにもおめえの所に迷惑をかけようってわけじゃねえから、正直なところを言ってくれ。その客は、砲兵大隊の何という名前だえ?」 「はい、一等馭卒の西村|庄作《しようさく》さんです」  女中は素直に答えた。 「いつも連れと一緒におめえの所に飲みに来るのか?」 「はい」 「その西村という馭卒は、一体、どういうことを言って借金を払ったり、莨入を集めて帰ったのだ?」  女中は怯《おび》えてありのままを話したが、それは茂造の申し立てたことと大差なかった。ただ、あれ以来、その砲兵隊の馭卒は少しも姿を見せない、と付け加えた。 「その西村という馭卒は、どこの生れだえ?」 「わたしもよくは知りませんが、元は小普請組《こぶしんぐみ》だった方の息子さんとかです」 「うむ、やっぱり士族か」 「その西村さんに兄さんが一人いて、なんでも、内務省十等|属《さかん》だそうです。いつか、そんなことを話していました」 「なに、内務省十等属の西村というのか」  藤兵衛はここでびっくりした。  というのは、内務省十等属西村というのに心当りがあったからだ。それは多分西村|織兵衛《おりべえ》に違いない。この人なら、自分がかねてから目をかけられていたし、また、始終、その宅へも出入りをして厄介になっている。  藤兵衛はその小料理屋を出て、歩きながら思案した。どうも、これはただでは収まりそうにない。この際、上のほうに報告したほうがよさそうだ。しかし、いま聞いたところによると、西村織兵衛の弟がその連累者の中にいるらしい。西村織兵衛も、その父が四谷《よつや》あたりに住んでいた小普請組であるから、内務省十等属の身分といい、もはや、彼に間違いない。  元来なら、藤兵衛は警視庁に傭われた諜者だから、自分を直接に世話している警視庁に行って報告しなければならない。そうなると、西村織兵衛が弟の一件から出世に瑕《きず》がつきそうである。どうしたものかと、彼はさらに思案をつづけていた。今日も午《ひる》からは暑さがはげしくなり、そよとも風がない。  藤兵衛が思案の果てに行きついたのは、警視庁に報告するよりも、西村織兵衛に通告したほうがいいということだった。彼は巡査を辞めて今の古着屋の店を出すときも、かなりな資本《もとで》を織兵衛から借用に及んでいる。そういう恩義からしても、西村が弟のことから役所を御免になるようなことをさせたくない。直接彼に話したら、また何かと工夫がありそうに思えた。警視庁に知らせるのはそのあとでもいいと、彼は考えたのであった。  西村織兵衛の家は駕籠町《かごまち》にあった。彼は夜でないと役所から戻ってこない。藤兵衛は一旦家に戻って、その間に仮眠をとった。店の古着も暑さに茹《うだ》ったように重く下がって動かなかった。      3  内務省十等属西村織兵衛は、訪ねてきた藤兵衛の話を聞いて顔色を変えた。  隣りの垣根の境に蚊柱が立っている。縁にならべた鉢植の朝顔の花は萎《しぼ》んで、だらりとなっている。暑気払いだといって織兵衛の妻女が出した酒も、織兵衛は盃を空《から》にしたままだった。 「そう聞けば、自分にも心当りがないことはない」  と織兵衛は震えたような声で藤兵衛に言った。 「弟は砲兵隊の一等馭卒をしている。この前から自分の所に休みを利用して来ているが、その都度、不服を言っていた。やはり給料が削られたことと、恩賞がないことだ。弟はこうも言った。近衛兵は至尊を直接に護衛する兵であるから、各鎮台常備熟練兵のうち、強壮にして行状正しき者を各隊より兵種に応じて選抜編制している。従って給料も他よりは増されている。殊に自分たちは東京府士族であるから、近衛兵のなかでも中核をなすものと信じている。然るに、このたびの減給および恩賞の遅れていることは、何としても納得がいかない。自分のいる砲兵隊の同僚も上《かみ》の処置にいずれも不平不満を持っている。九州の戦争では、精悍なる薩軍を相手に死地に飛び込み、身命を擲《なげう》って働いたものだ。これは要するに上のほうの不公平であるから、自分たち同志が政府要路者に対して糺弾を考えている。まあ、こういったことを弟は酒に酔って口走ったことがある」  織兵衛は額に皺《しわ》を寄せて述懐した。 「自分はその不心得を諭《さと》して弟を帰らせたが、弟は自分と違い、いささか思慮に欠くるところがあって短気な性質《たち》だから、なるほど、お前の話を聞いて、左様なこともあるかもしれないとおれも合点するのだ。お前はよくぞおれのことを考えて、それを先に知らせてくれた」  織兵衛は、そう言って藤兵衛の機転を謝した。  さて、それからの処置が問題である。いくら弟を庇《かば》いたくても、西村織兵衛はその話を自分の胸の中に収めてしまうことも出来ない。さりとて上司に訴えれば、実弟が連累者にいるので、これまた自分の身に咎《とが》めがかかりそうである。  西村はそのことに困《こう》じ果てて藤兵衛に相談した。 「それには良いことがあります」  と藤兵衛はしばらく考えた末言った。 「なるほど、あなたさまがわたしの聞いたことをそのまま上役の方に言えば、お咎めもあるかもしれません。しかし、その話はわたしから聞いたことにしないで、あなたさまが直接に風聞を耳にしたように作ったらいかがでしょう」 「それはどういう意味だ?」 「つまり、わたしから聞いたといえば、自然と砲兵隊の馭卒から洩れたことが判ります。すると、弟さんの名前も出てきます。ですから、あなたさまがほかの人間から聞いた体《てい》にすれば、あなたさまに瑕がつかなくてよろしいかと思います」  藤兵衛が言うと、 「それは名案だが、具体的にどうしたらいいか?」  と織兵衛はさらに訊いた。 「つまり、あなたさまが役所の帰りに神田橋外の便所に入ったことにするのです。そして、この間、近衛兵が三人、その便所の片隅で立話をしていたことにします。それをあなたさまが厠《かわや》の中で聞いていて、兵卒の話では、近日、近衛兵が申し合わせて、偉い方々の参朝を擁し、斬り殺すような相談を遂げていた、それを耳にしたから、早速、報告に来たと、こう言えばよろしいかと思います。さすれば、たとえ弟さんがその一味の中にいるにしても、身分は馭卒ですから、さしたるお咎めもありますまい。つまり、弟さんはその策謀者の中に入っていないことにするのです。たとえ謀反の中に組していても、上官の命令で動いたと言えば、止むを得ないことだと、お上でも宥《ゆる》してくれると思います」  藤兵衛がそう言うと、織兵衛はひどく喜んだ。 「なるほど、お前の言う通りにしよう。それでは、おれは早速これから課長の所に報らせに行く。お前は、おれが課長の所で話が済んだ頃に、警視庁に報告してくれ」 「分りました」  二人の相談はまとまった。  西村織兵衛は、早速、女房を呼びつけて支度を手伝わせ、人力車を呼ばせると、課長の内務省権大書記官|武井守正《たけいもりまさ》の宅に急いだ。武井の宅は四谷|塩町《しおちよう》の裏にある。  武井は家にいて、息せき切って来た織兵衛の報告を聞いた。 「それは容易ならぬことだ。かねがね、砲兵隊の兵卒の不穏の噂は耳にしていたが、さほどまでに具体的に計画が出来ているとは知らなんだ」  と武井は言った。織兵衛は、藤兵衛の方策通り、自分は神田橋外の便所に入って兵卒の立話を聞いたことにしたのであった。 「それでは、早速、これから石井権中警視に報告に行く」  武井も慌《あわただ》しく人力車を呼ばせた。  権中警視石井|邦猷《くにのり》は武井の報告を聞いて、何か思い当るものがあるらしく、すぐに起ち上がって、至急に大警視|川路利良《かわじとしよし》の官宅に急行した。  川路はこれを陸軍省に告げ、陸軍省から近衛局へとそれぞれ通報され、命令が伝えられた。  このとき、川路が報告を聞いたのは八月二十三日午後八時ごろだったが、至急に各分署の警部、巡査を呼び集め、銃器弾薬を渡して、陸軍と打合わせの上、仮皇居の警備に就くことになった。  石井は、この武井報告を内務卿|伊藤博文《いとうひろぶみ》の許に齎《もたら》した。伊藤は、大久保の暗殺されたあとを受けて、内務卿になったばかりであった。  伊藤は愕《おどろ》いて、すぐその場でランプの下で陸軍卿|山県有朋《やまがたありとも》に手紙を書いた。このとき、伊藤は浴衣がけに寛《くつろ》いでいたが、寒さを覚えたように浴衣の衿を合わせて筆を執った。  その内容は次のような意味の字句だった。 「今日午後内務判任官が退出の節、神田橋外便所に入っていたところ、この間に、近衛兵隊の者が三人、右便所前の片隅に立寄って密談していたのを、右判任官が厠の内にいて聞き取ったが、それによると、今晩一時ごろに近衛鎮台兵が申し合わせて皇城に火を放ち、諸官員の参朝を待ち受けて、残らず斬り殺す協議が出来たことを談じていた。その談話中に一人の者が言うには、事がかく火急になったことはどういう訳か、また、応ずる者がほかにあるかないかを訊ねたところ、答える者は、中尉以下は間違いなく応ずるであろう、且つ山王社内に集会のときには大ていのことが判るであろう、と言っていた。また、西郷(従)、伊藤を生捕りにするなどいろいろ話をした末に立去った。そのあとで判任官は容易ならざる事件と思い、すぐに内務書記官武井宅に駆けつけ、武井より警視石井へ報じ、早速、警備用意に取りかかったことを石井が来て報じた。即ち、御承知とは思うが、容易ならざる企てにつき捨て置き難く、急報に及んだ。至急、条公(三条太政大臣)へ御来臨あるよう計られたし。   八月二十三日夜八時 [#地付き]博 文     山県殿 [#地付き]」  山県有朋が伊藤の手紙を受取ったのは、午後九時前であった。それを持参したのは石井だった。山県の邸は富士見町にあった。  有朋は、そのとき、次女の松子《まつこ》の顔を産室に見に行っていた。松子は十日前に生れたばかりである。夫人の友子《ともこ》は松子の傍に寝ていた。この子は山県が西南戦争から東京に凱旋した直後に友子の腹に入ったのだった。  有朋にはもう一人女の子がいる。長女|稔子《としこ》で、明治九年十月に生れた。それから四カ月経って有朋は征討参軍として熊本に出張したのであった。つまり、有朋にとっては、二人の子は西南戦争を境にして前後に儲《もう》けたのであった。  有朋は産室から出て、座敷に石井を迎えた。石井は伊藤の手紙を出す。ランプの影でいよいよ窪んで見える有朋の眼が巻紙の文字を追った。 「伊藤はどうしているか?」  読み終って有朋は石井に訊いた。小さな眼は光っていた。 「すぐ参内《さんだい》の用意にかかられておられます」  有朋は手紙を音立てて巻き納めた。 「よし分った。伊藤には心配せんでええと言うてくれ」  このとき、その様子から、石井は山県がこの報告をほかからも受けていることを推察した。果して彼は言った。 「いま、大山に警備のことを頼んどる。近衛局のほうには、野津《のづ》に警備するよう先ほど使いを出しちょる」  大山は巌のこと、当時陸軍中将で、のちの軍務局長にあたる第一局長の任にあった。野津は道貫《みちつら》で大佐、近衛参謀長心得であった。  山県はそう言ったあと、 「近衛兵が不穏な計画をしちょるちゅうても、どねえなことをやるんか分らん。また、ほんまにやるんかどうかも分らんけんのう。おれのほうにもほかからそねえな話が来ちょらんでもないが、お前が聞いたのは、この伊藤の手紙の通りか?」  と訊ねた。  石井が、左様です、と言うと、山県は、武井はどこでそれを聞き込んで来たのだ、と出所を訊いた。  石井は、武井の話が部下の西村から報告のあった次第を述べた。  有朋はそれを聞くと、顴骨《ほおぼね》の出た痩せた顔を少し傾けた。 「それはちいとおかしいのう。その西村という判任官が厠の中で近衛兵の立話を聞いたちゅうが、そねえな所に三人の兵卒が申し合わせたように集ったのも、おかしいぞ。厠の片隅で彼らが人に聞えるような声で相談をしたちゅうことが、合点がいかんわい」  石井はそう言われると、なるほど、その通りだと思った。気づいてみると、武井の報告にも何か作りごとめいたものを感じる。また、厠の中でその密事を立聞きしたというのも、どこか芝居めいていた。 「その点については、早速、武井を調べてみます」  と答えた。 「いや、武井がどうしたというんじゃない。ただ、本当はどの辺からそんな話が伝わって来たか、それを調べてみい」  有朋は起ちながらそう言った。軍服に着替えに奥に入った。      4  大山中将は、午後七時半ごろ騎馬で近衛局へ駆けつけた。近衛参謀長心得野津大佐は、すぐに仮皇居へ行って警備の手配をした。当時、皇居は明治六年に全焼していたので、赤坂離宮が仮皇居となっていた。西寛二郎《にしかんじろう》少佐は、竹橋内の近衛砲兵の挙動を窺《うかが》うために、すぐに兵営に赴いた。  その時すでに砲兵大隊長|宇都宮茂敏《うつのみやしげとし》少佐は、野津大佐の警報を聞いて、愕《おどろ》いて竹橋内の営門へ急いで駆けつけていた。様子を窺うと、いかにも隊中が物騒がしい。兵卒はいずれも黒チョッキを着て白いゲートルに草鞋《わらじ》を穿いている。これは西南戦争に出征した当時のままの扮装だった。宇都宮少佐は、兵隊がこの扮装で敵味方を見分ける用意までしていることを知って、ことが意外に進んでいるのに愕いた。事実、兵舎内は今にも爆発するような気配がみえる。  少佐は兵営内に入り、下士官を呼んで鎮撫方を命じたが、兵卒は容易に聞き入れない。騒ぎはますます大きくなってゆく。十一時ごろになると、一同は銃器を携えて営外に奔《はし》り出て早くも隊伍を組んでいる。少佐は兵舎の二階の大隊長室にいたが、自ら兵舎の外に出てしきりと制止の号令をかけた。しかし、兵卒の騒ぎ声が大きいので命令が徹底しない。少佐はすぐに引返して、風紀衛兵に命じて急に非常ラッパを吹き立てさせた。  騒いでいる砲兵はこれを聞いて、自分たちが殺されるものと思い、こうなれば大隊長をまず殺せ、と呼ばわりながら、銃剣を揮《ふる》って少佐に殺到した。宇都宮少佐も帯剣を抜いて防禦したが、遂に兵の銃剣に突き伏せられて絶命した。  兵はすでに大砲を引きずり出している。このときは警戒の態勢も出来ていて、非常ラッパを聞くと営門前に整列していた近衛歩兵第一、第二連隊は、士官の命令で砲兵隊内に向けて小銃を射撃した。砲兵隊では二発の大砲を撃った上、さらに小銃を執《と》って応戦する。週番士官の深沢巳吉《ふかざわみきち》大尉は叛乱兵の群がっている中に躍り込んで、静まれ、静まれ、と命令したが、その声が終らないうちに忽《たちま》ち砲兵卒の銃剣に刺されて死んだ。  上官の血を見た砲兵隊の兵卒はいよいよ猛り狂った。彼らは厩《うまや》に馳せつけ、積み重ねた秣《まぐさ》に火を点《つ》けて焼き立てた。一手は土堤に上がって、すぐ下にある雉子橋《きじばし》門内の参議大蔵卿|大隈重信《おおくましげのぶ》の邸内に向けて発射した。大隈邸前を警衛していた東京鎮台兵は畳数十畳を持出して小銃の乱射を防いだ。大隈邸を射撃したのは給料削減の恨みからである。  そのうち砲兵は二門の山砲を引いて来て、近衛歩兵営門の前に据えつけ、弾籠《たまご》めをはじめた。  これを見て、近衛の武庫を守った番兵がうしろから小銃を射ちかけた。砲兵はその場に砲を棄てて退き、なおも小銃で抵抗する。しかし、弾薬が続かず、追々に詰ってきて、十二時を過ぎるころには全く敗走した。その場に撃ち殺された者六名、捕縛された者七十余名、そのほか百余名は代官町《だいかんちよう》から半蔵門を目指して遁《に》げた。  池田綱平《いけだつなへい》少尉は砲兵の週番宿直だったが、この変を皇居へ注進しようと表門まで走り出たときに、門を護っていた叛乱兵に傷つけられ、止むなく引返して、竹橋の石垣から濠の中に飛び込み、そのまま仮皇居へ走った。  磯林《いそばやし》中尉は近衛局に宿直していたが、俄かに野津大佐から、各隊を巡視して不審の挙動あらば報告せよとの命を受け、ただ一騎、皇居を出て西ノ丸下にかかり大手前にさしかかると、忽ち竹橋内の砲声を聞いた。そこで、馬を飛ばして歩兵の営門へ乗りつけると、すでに叛乱兵は宇都宮少佐と深沢大尉を仆《たお》して近衛歩兵と接戦の最中であった。  そこで、中尉はその辺を乗り回し、戦闘の模様を探るうちに、叛乱兵は潰走して代官町を南へ流れはじめた。磯林中尉は詳報を本局へ届けようと、再び馬を走らせ半蔵門を出たとき、星明りの中に官賊の見分けはつかないが、百人余りの兵士が麹町《こうじまち》のほうへ行くのが見られた。  中尉は馬を停めてしばらくその様子を窺った。向うの兵士も彼の姿を見咎めて、そこにいるのは士官らしいが、早く射ち殺せ、と叫びながら七、八人が駆け寄る。磯林中尉は、悪い所へ来たと思ったが、今さら退くことも出来ず、諭してみようと思い、暴徒が傍へ近づくのを待受けて、お前たちは何だ、と問うと、われわれは砲兵だと答えた。  砲兵が今ごろ何の用があってこの辺を行軍するかと訊くと、嘆願の筋があって皇居へ参るところだと答えた。大隊長は誰かと訊くと、大隊長は宇都宮少佐だが、今討ち果してきたばかりだと答えた。  この辺の問答は両方とも殺気を帯びている。  それなら、ここから兵営へ立戻って連隊長|野崎《のざき》中佐に面会して願いの筋を述べよ、将校の手を経ずして皇居へ直参するのは不都合である、と説諭すると、暴徒は二つに分れ、百余名のうち三十名余りはそこより兵舎へ立戻ったが、九十三名は仮皇居の表門へ押寄せて門前へ整列した。  そこで、さらに叛乱兵が動けばどんな事態になるか分らないので、非常号砲を五発射ち鳴らした。当時の規定では、東京に非常事態が勃発すれば号砲を五発発射することになっていた。  号砲を聞いて、東京の市民は沸返るような騒ぎとなった。西南戦争直後のことで、人心はまだ安定していない。また戦争か、と竹橋あたりはさながら戦場騒ぎで、気の早い住民は家財道具を背負い、逃げ惑う有様であった。この号砲で鎮台・近衛各兵営はすぐに警備についた。  仮皇居内に詰合せていた将校は、叛乱兵が門前まで押寄せたと聞いて、この上は致し方がない、もし敵対せば、忽ち射ち払うことに評議が一決した。  西少佐は磯林中尉といっしょに門前から出て、暴徒の主だった者を呼び出すと、隊中より一人の軍曹が前に進んで数歩にして立停った。少佐はその軍曹に向って、今夜の近衛砲兵の挙動はまことに非常識である、大隊長宇都宮少佐を殺し、深沢大尉をも殺害したことであるから、お前たちはもはや逆賊の名を逃れることが出来ない、さあ、兵器をこちらに引渡せよ、と言うと、軍曹は頗《すこぶ》る不平の顔色で、今にも抜刀して西少佐に斬りかかろうとする勢いを示した。しかし、少佐の護衛兵が進み出たので、その勢いに怖れたのか、一言もなく兵器を引渡した。少佐はまた軍曹に向って、隊士に令を伝えて悉《ことごと》く兵器を差出すようにと命じた。軍曹はこれに応えて、もし、部下が令に従わなかったら、どのように取計らったらよろしいかと訊いたので、少佐は、命に従わない者があればこちらにて処分すると言い捨て、門内から近衛歩兵一中隊を率いてきた。  それを見て、叛乱兵の中の大久保某という者は、罪が逃れられないと悟ってか、銃を腹に押当てて、自ら引金を引いて爆死した。これを見たほかの叛乱兵は勢いが挫けて、異議なく兵器を渡し、それぞれ縛についた。  この騒動の首魁《しゆかい》は、近衛歩兵第二連隊第一大隊第二中隊兵卒三添卯之助、同砲兵大隊第二小隊馭卒長島竹四郎、同小島万助。そのほか馭卒、砲卒約五十三名で、あとで死刑の宣告を受けた。実行部隊の中には将校も下士官もいなかった。  しかし、責任者として処罰された将校たちは、「登営緩慢、鎮圧ノ方略ヲ尽サザル科《とが》ニヨリ」閉門、停職の処分を受けたが、その中で東京鎮台予備砲兵第一大隊長陸軍少佐|岡本柳之助《おかもとりゆうのすけ》も逮捕されて、のちに奪官の判決を受けている。この岡本は、かねてから近衛兵などの暴動の企てがあるのを部下から聞いて知っていたが、それについての対策を軽忽《けいこつ》に付していただけでなく、当夜の行動が極めて奇怪だった。  岡本柳之助は、暴動の夜に隊兵を率いて府下王子村に行軍したのであった。その夜、岡本の宅へ兵が走り込んで来て、大隊長殿、大変です、隊では今夜暴動を起す計画があります、と言うと、岡本は軍服に着替えるや直ちに馬に乗って兵営に駆けつけ、不時呼集して全体を整列させ、駆け足で王子村神社の森に到着した。彼が叛乱の報告を受けながら、なぜ、突如として王子村に行動を起させたかは不明であるが、岡本は王子村の料亭「海老屋」の前に到着すると全体に向って、今夜、お前たちをここまで連れて来たのは、お前たちに国賊の名を負わせたくないからだ、と言ったという。岡本が大隊長という職に在りながら鎮撫をせずに、かえって郊外に兵を連れて一時的な脱出をしたのは理由がある。この叛乱の事実上の首魁が岡本少佐であったからである。少佐は当夜になって変心した。  この暴動に加わった近衛砲兵隊の兵卒は二百十五名で、参加しなかった者は僅かに六名であった。相互の連絡方法は、折からの酷暑のため、各隊がみな午後から練兵を休業し、毎日、営外散歩を許可せられていた。その機会を利用して、計画相談が持たれたものと思われた。前年までは、午後の営外散歩は下士官によって兵卒を引連れ、適宜の地に散歩させることになっていたが、その年に限って兵卒も自由に散歩を許されていたので、横の連絡がこの間に出来たのであった。  この暴動に際しては、在京軍隊の動静が最初不明であったため、幼年学校、士官学校の生徒をもって仮皇居の警衛に任じさせた。東京鎮台では、砲兵本廠に将校以下三十五名、青山火薬庫に一中隊ほか二十一名、泉新田火薬庫一中隊、赤羽火薬庫に将校以下五十名、竹橋外に一中隊、旧本丸内一中隊、半蔵門外一中隊というような配備をして警戒を布いた。また前橋連隊からも二個中隊出動したが、これは途中で騒動が鎮圧されたと聞いて引返した。  叛乱は一夜にしておさまったのである。      5  二十四日、陸軍卿山県有朋は各府県へ通達して、 「昨二十三日午後十一時近衛砲兵隊卒ノ内、徒党ヲ組ミ、兵営ヲ毀《こぼ》チ、聊《いささ》カ発砲等致シ候ニ付、直《ただち》ニ討留《うちとめ》、脱走ノ者ハ大抵捕縛鎮定ニ及候条、為[#二]心得[#一]此旨相達候事」  の文書を示したが、この日早朝、有朋は内務大書記官|品川弥二郎《しながわやじろう》から手紙を受取った。 「意外の事意外に候付、御同慶此事奉[#レ]存候。打死と極めて、ながらゆるほど世に楽しきおもしろきものは無[#二]御座[#一]候。尤御引受の事なれば、一しほ御苦慮は御尤なれ共、余り御案じは実に御無用なり。普国の親兵ベルリンの宮殿前に戦ひし時などは、弾丸の小々大蔵卿の邸楼に当りし位ひの事にては無[#レ]之事と奉[#レ]存候。どの様なる文明国にても不《まぬ》[#レ]免《かれざる》事なり。穴賢々々。 [#地付き]や じ    山県様  貴酬 [#地付き]」  山県は品川弥二郎の手紙を貰ったけれども、弥二郎のように喜んではいられなかった。四十一歳の彼は、晴れた日には富士山の見える奧座敷に沈思することになる。  有朋は武井を呼んで、彼の報告がどのような筋から掴まされたかを訊いた。武井は、内務省十等属判任官西村織兵衛について糺問し、遂に彼の口から警視庁の密偵を働いている者の手から洩れた次第を告げた。  有朋はそれを黙って聞いていたが、その話にひどく心を動かしたことは、その一瞬の顔色が何かを望んだときのような表情になったことでも読み取れた。  有朋の机上には分厚い草稿が置かれてある。彼自身の筆で表紙に「軍人訓誡」と書かれてあったが、中の文章には、やはり彼の筆で縦横に朱が入れられてあった。  有朋の心は、武井の話と、この机上の草稿との二つの間を揺れ動いているようであった。 「……然ルニ陸軍法制規則ハ漸ク緒ニ就キタリト雖《いえど》モ、唯是外形ニ関ハル事ノミニシテ、内部ノ精神ニ至リテハ発達猶未タシキ事許多ナリ。是|畢竟《ひつきよう》維新以来僅カニ一紀ノ星霜ヲ経テ百事猶創設ニ属スルヲ以テノ故ナリ。就中《なかんずく》三軍ノ精神ニ至リテハ未タ其萌芽タモ見ルニ到ラス。意《おも》フニ此事ハ国家士ヲ養フ百年ノ久シキヲ歴ルニ非レハ、遽《にわ》カニ之ヲ一朝一夕ニ求ムルモ亦|得可《うべか》ラサル所ナレハ、今ニ及ンテ之ヲ忽《ゆるや》カニセハ、将《は》タ何レノ時ヲ待タンヤ。蓋《けだ》シ百事ノ成立ハ猶人身ノ成立ノ如シ。幼稚ノ時ニ方《あた》リテハ、唯乳養ニ務メテ幹躯ノ健剛生長ヲ求ムルノミナレトモ、其稍長スルニ及テハ精神ヲ培養シ、方向ヲ知ラシムルコト少カル可ラサル事ニ属ス。今我カ陸軍ハ方《まさ》ニ長スル少年ノ如シ。外形ノ強壮既ニ緒ニ就クモ、内部ノ精神未タ充実ヲ見サルナリ。古ヘニ曰《い》ハク、智慧アリト雖モ勢ニ乗スルニ如《し》カス、|※[#「金+茲」、unicode93a1]基《じき》アリト雖モ時ヲ待ツニ如カスト。蓋シ今日コソ所謂《いわゆる》唯此時ヲ然リトスル機ニシテ、内部精神ノ事ニ注意セサル可ラサルナリ。夫レ外部ノ成形ト内部ノ精神トハ必ス相待テ偏廃ス可キモノニ非ス。如《も》シ之ヲ偏廃セハ、猶片翼ノ鳥飛フ能ハス、片輪ノ車|行《めぐ》ル可ラサルカ如シ。又|諸《これ》ヲ白兵ニ譬フルニ銅鍮鉛錫モ其外形ヲ摸ス可ラサルニ非レトモ、鋼鉄ノ質アルニ非レハ其用ヲ為ササルカ如シ。今規則操法ハ外躯骨肉ナリ、精神ハ此外躯ヲ活用スル脳髄神経ナリ。故ニ軍人ノ精神ハ六師ノ根本タレハ、苟《いやしく》モ精神ニシテ振ハサル時ハ規則其密ヲ極メ、操法其精ヲ尽ストモ徒《いたず》ラニ活動ノ難キヲ見ンノミ。然リ而テ軍人ノ精神ハ何ヲ以テ之ヲ維持スト言ハヽ、忠実、勇敢、服従ノ三約束ニ過キス。軍人ノ精神ヲ維持スル三大元行ナリ。……」  山県は、窪んだ眼窩《がんか》の奧から細い眼を光らせながら読み進んでゆく。粗末な机の上に右手を載せ、五本の指が無意識に同じ所を敲《たた》いていた。  草稿の文句は、すでに印刷に付す直前になっていた。山県はこれを年内いっぱいに軍隊に頒布《はんぷ》するつもりにしていたのだが、竹橋の一件で急に繰上げることに決心したのである。  この四、五日来、竹橋の近衛砲兵連隊の騒動で、その善後策に多忙であった。役所から帰って来るのが夜の十二時近くなった。しかし、どんなに遅くても朝の六時にはきちんと起きた。起きると、必ず汗が出るくらい槍を振った。  ひと汗流してから風呂につかり、衣服を着替えて机の前に坐るのだったが、表地は木綿でも裏地には絹を用いているので、肌ざわりはいい。山県は、このような着物に袖を通す感触を愉しんでいた。  それに、近ごろ目白台椿山に二千円で買取った土地の庭造りをさせている。元旗本の下屋敷など近隣を合わせ約一万八千坪ある。旧幕時代は細川越中守の抱え用地だったという。この工事を見に行くことも騒動以来中止になっている。  彼は、その分の日課だけ「軍人訓誡」の草稿の仕上げを急いでいるのだった。  山県は、頬の殺《そ》げた顔を気難しげに俯《うつむ》かせながら草稿を読む。 「……一、軍人タル者 聖上ノ御事ニ於テハ縦《たと》ヒ御容貌ノ瑣事タリトモ一言是ニ及フヲ得ス。サレハ衛兵其他ノ事ニテ接近ヲ得ルモ、終始恭敬ノ意ヲ懈《おこた》ル可ラス。  一、軍人ノ言葉ハ寡簡ヲ貴ヒ、容儀ハ粛静ヲ貴ヒ、動作ハ沈着ヲ貴ヒ、応対ハ詳実ヲ貴ヒ、飲食財貨ノ事ハ廉潔ヲ貴ヒ、武器兵仗ノ取扱ハ鄭重ヲ貴フヲ主トスヘシ。是皆忠実ノ一端ナリ。  一、軍人タル者服従ヲ守ルノ義務ハ嘗《かつ》テ間断アル可ラス。部下トシテハ其長官ノ命スル所、不条理ナリト思フ事モ決シテ之ニ対シテ恭敬奉戴ノ節ヲ失フ可ラス。況《いわん》ヤ公務上ニ於ケル事ナルヲヤ。之カ為ニ聊《いささ》カモ憤怒ノ色ヲ露《あら》ハシ誹議スルコトヲ得サレ、然レトモ其事|何如《いか》ニモ不条理ナリト思フコト有ラハ、一度ヒ其事ニ服従シ耐忍ヲ遂ケタル後ニ、其苦情ヲ訴フルハ許サレタル所ナリ。然レトモ是ハ唯其仕向ノ非理ナリト思フ事ニ限ル、固《もと》ヨリ其ノ事柄ノ利害得失ヲ目的トスル訴ヘニ非ス。……」  山県は、ところどころ朱筆を入れてゆく。この文章になるまで、どれだけ彼の朱筆が入ったことであろう。文章は石州津和野藩の西周《にしあまね》が草した。西周は、文久二年、オランダに渡って、ライデン大学でフィセリングについて法学を学んだが、このとき、彼は陸軍省四等出仕を経て宮内省御用掛であった。  山県は周を呼んで自分の腹案を告げ、その表現について熱心に語った。  山県は言った。  元来、日本の兵士は武士の出身でなければ役に立たないという盲信が維新の頃から行なわれていた。西郷も百姓兵では役に立たぬと言うていた。しかし自分は、曾《かつ》て馬関戦争のとき、百姓・町人から募《つの》った奇兵隊員がどのように勇敢であったかを知っている。むしろあのときは士分のほうが怯懦《きようだ》であった。このことは、去年の西南の役において、剽悍《ひようかん》の名を持つ薩摩兵に対して百姓出の兵隊が一歩も譲らなかったことで十分に証明済みである。  しかし、軍隊は出来たが、未だ精神面において彼らを倚《よ》らしめるものがない。わが国軍隊の唯一の欠点である。西南の役でも、戦闘が劣勢になったとき守備陣地を棄てて潰走した部隊もあったくらいだ。要するに、兵士に確乎たる団結の精神が作られていないからだと思う。  西南の役後の今も、鎮台兵のなかには不平が瀰漫《びまん》している。自分はこのことを非常に心配している。今に一改革行なわなければなるまいと思っている。それにつけても、この際、兵士の精神を一般人民思想から隔離したところに置かなければならぬ。  また、先年、薩・土の兵が中央から引揚げたのも、未だ藩兵意識から脱け切れないからだ。すでに廃藩置県を行なって七年有余も経っている今、早急に軍隊は国家のものであるという観念を確立せねばならぬ。  自分は明治二年に欧州を廻った。当時、仏蘭西は拿破崙《ナポレオン》三世の治世であったが、すでに衰亡の兆が見えていた。巴里の道路といい、公園といい、整然と完備し、その繁華は欧州文化の中心であるかのごとき観があったし、その動物園には世界の珍禽奇獣を網羅してその珍しきことは今でも自分の眼底に残っているくらいだ。しかし、巴里には政府に反対する過激なる人民一派があって、国家の前途はどのようなことになるか知れぬと思った。自分は英吉利に渡って竜動《ロンドン》に滞在した。世界各国とも合衆政を望んでいるようだが、その行届いた英国の政体すら、今では王位が地に墜ちぬまでも昔日の威信はない。これをわが国情に照らして痛心に堪えない。それから自分は独逸国に行ったが、当時は連邦統一は出来ていず、普国は北独逸同盟連邦の一国にすぎなかった。然るに、その国境に入るや尚武の気性旺盛なるを見て、他日、その侮《あなど》るべからざるを看取した。普仏戦争の報らせを聞いたのは米大陸横断中の列車の中だったが、自分はひそかに普国の勝利を予断した。驕慢《きようまん》なる仏国は或いは失敗するであろうと、同行の者に言ったことがある。  日本の軍隊教練は幕府以来仏蘭西式を採用し、さきの兵部《ひようぶ》大輔《たゆう》大村益次郎《おおむらますじろう》によって引継がれたが、自分はこれを漸次独逸式に変更している。その故は、仏国は永年の驕慢に馴《な》れているに反し、普国は新興の意気に燃え、国民が尚武の気に燃えているからであり、殊に普国に敗れた仏国は、過激なる人民党(パリ・コンミューン党)が革命を起し、王室を倒すに当って政府の軍隊が暴動に荷担したという。まことに他山の石として寒心にたえない。  これを畢竟するに、いよいよ軍隊は世間の思想・政治から独立させ、真に君国に忠義を尽すの心を養わねばならぬ。今、西南戦争は終ったが、土佐には再び愛国社運動が起り、全国に遊説《ゆうぜい》せんとしている。さきに巴里の実情を見てきた眼には、このまま放置せんか、わが皇室も仏国の轍を踏まぬやも限らぬ。されば軍隊は民間の急進思想から守り、およそ軍人たる者は国体を論ぜず、政治に関わらず、忠実、勇敢、服従の三大元行をもって軍人精神の維持に当りたい。自分は日夜、その確立に苦慮している。  然るに、その精神たるや未だに絶対的なものがない。もし、この信念をさきの三大元行の脊髄とすることが出来れば甚だ結構だが、それをいかにすべきか、未だに昏迷の途中にある。──  山県がこれを語るときは、われを忘れて無意識に右手の二本指を机の端にかけ、順々に左側に口舌とともに移行させるのであった。しかし、彼は決して能弁ではなく、話は下手であった。下手だったから指を動かす癖がついたのかもしれない。彼が話すとき反歯がむき出た。口は横に大きかった。      6  武井の帰ったあと、陸軍士官学校長少将|蘇我祐準《そがすけのり》が来て、竹橋騒動後における各部隊の諭告文を山県に見せた。 「過る二十三日、近衛砲隊の下士兵卒、突然暴発|騒擾《そうじよう》するに当り、我隊は上下一同、確乎其方向を一にし、直に衛戍《えいじゆ》本部の命を奉じ、半蔵御門外を警備し、其鎮定に従事せるを以て、翌日に至り、至尊辱くも勅使を賜り、其尽力を満足に思召され、尋《つい》で我鎮台長官陸軍少将野津|鎮雄《しずお》閣下は、書面を以て隊中一同を賞誉し、且つ将来の方向を誤らざる事迄をも、慇懃《いんぎん》に教諭せらるゝに至る。我隊の光栄、実に大なりと言はざるを得んや。然りと雖も、細かに其事由を熟思するに、近衛砲隊なるもの、抑《そもそ》も何等の心底にて、非常の変を発起せしや。千思万考するも、決して其理由を領得する能はず。夫々一時の誤謬より、此の大事を生ずるとせん歟《か》、其の事業たる、一日二日の協議を以て、容易に発するものに非ざるが如し。企謀熟図、其日の久しきを俟《まつ》て、然る後に発するものとせん歟、其期望たる何を目的とするものぞ。其所業や乱暴にして、其心術や迷惑せりと評せざるを得ず」  山県は各隊に兵士の動揺がなかったことを喜び、さらに蘇我が騒動の夜適切な処置をとり、士官学校生徒をして仮皇居を警備せしめたのを賞した。  蘇我は当日山県に呼ばれて、今夜近衛砲兵に暴動が起ることを告げられ、消灯後の士官学校の塀を越えて山県の命令を伝達したのである。  山県は蘇我に向っても、とかく兵士が上より奪うものは奪ってしまおうというような風潮があるのを、今のうちに何とか抑止しなければならないと言い、ちょうど、机の上に載っていた「軍人訓誡」の草稿を見せて、彼の意見を聞いたりした。  午後、山県は陸軍省で、少将|黒川通《くろかわみちのり》から、折から進行している竹橋騒動の連累者の裁判について聞いた。黒川は裁判長であった。この裁判は、騒動の翌日の二十四日午前八時から陸軍裁判所において行なわれていたものである。  黒川は、暴徒の近衛砲兵大隊第二小隊馭卒長島竹四郎、同小島万助などの供述を伝えた。それによると、暴徒の事を起したのは、給料の減額されたこと及び恩賞の遅れていること以外には原因のなかったことを話した。 「そういう考えが兵士の間にあるのは困る」  と山県は気むずかしげに言った。 「給料のことや恩賞のことで兵隊がとやかく言うのは、軍隊維持の上で病根となる惧《おそ》れがある。これからは軍紀を厳にして強力な軍隊に仕立てねばならぬ。このたびの裁判には貴官以下裁判官は峻厳なる態度で臨み、判決もなるべく速かに下すように」  と注文を付けた。  山県が再三再四兵士の「奪わずんばあらざるの風習」を非難したのは、あくまでも自由民権の思想が軍隊内に侵入するのを怖れたからだった。この事件でも彼が懸念したのは、軍隊が恰《あたか》も一揆のごとく、給料の削減を不満に考えて暴動を起したことである。彼はその心情を憎悪した。  先月末、九州肥前国高島では石炭坑夫が暴動を起した。彼らは賃銀値上げの要求をして島中の二、三個所の納屋に放火した。巡査六十余人が上陸してようやくこれを鎮定した。山県の眼から見れば、給料値下りを不満とする兵士のこのたびの暴動も、不逞無頼《ふていぶらい》の炭坑夫と同じに映ったのであった。  兵士の給料が下げられたのは、明治十年八月末に陸軍省定額のうち一万八千円が削られ、つづいて十二月の閣議で各省の予算定額の五分の一が削られた。これは西南戦争後における緊縮財政のためであった。山県は陸軍卿としてこの五分の一減にはあえて反対はしないが、一律に五分の一減というようなことは国家財政の根本を誤るものであるから、官省諸用途節減のことは、よろしく広くこれを衆官の公議に付すべし、と論じたのであった。しかし、これは実質的には陸軍費の縮減に反対意見を表わしたものであった。山県は、省内の経費の節減が各隊の被服、調度に及び、陸軍部内が大いに苦しんでいるのを痛感していた。小さい例で言うと、その頃、陸軍では文書の往復に普通一枚の美濃|罫紙《けいし》を使用していたが、用向きによっては半紙の紙で事足りるというので、全部を半紙に改めてしまったり、また、役人に茶を給する必要がないというので、その頃、兵士一日の茶代が六銭六厘であったのを六銭に削減するといった具合だった。  山県は、竹橋騒動後における諸部隊の動向に関しての報告を次々に聞き、その夜八時に家に戻った。  帰宅すると、来訪して待っていた大警視川路利良から民間人心の動揺如何についての報告を聴いた。  ここで山県は、川路に軍隊と官憲の緊密なることの必要を説いて、朱の入った「軍人訓誡」の一部を見せた。 「……一、警視ノ官ハ尋常ノ非違ヲ監察スル職分ニシテ、公務上ニ於テモ往《さき》ニ陸軍ヨリ援助ヲ仮スコトアルハ、衛戍ノ諸例中ニモ見ユル如ク、同シク兇暴ヲ禁スルノ備ヘタレハナリ。唯事軽重ニ由テ職分ノ別アリト雖トモ、畢竟同勢相応スヘキ者ニテ、公務以外ト雖トモ警視官ノ及ハサル所アレハ、軍官ニテ援助保護ヲ仮スヘキ義アリ。是ヲ以テ平常ヨリ和諧《かかい》スレハ、両力相合シテ国中ノ静謐《せいひつ》ヲ護シ人民ノ安全ヲ保ツ為ニ大利益アリトス。……」  兵卒と警察官とは互いに疎隔し、対立していた。徴兵令が発布されたのは明治六年一月十日だが、その四月に第一回の徴兵が入営した。  それまでの近衛兵は薩長土三藩の兵から成っていて、各鎮台兵も各藩の藩兵の志願兵であった。つまり、そのほとんどが士分出身だったのである。それで、あとから徴兵として入ってきた百姓や商人の子弟に優越感を持っていた。徴兵もまた士分の者に見倣《みなら》って同じような優越感を持つようになった。  ところが、巡査もまた士分出身が多かったので、この農村や商業出の子弟に対して軽蔑感を持っていた。このことが原因して兵卒と警官との間にはたびたび紛争が起っている。それは、ときには兵士が百数十人で巡査を袋叩きしたりするような暴行であった。  明治七年に、東京警視庁の一巡査が本郷で鎮台兵を放尿の故で引致しようとすると、近衛兵二十名ばかりが現われて兵士を奪還しようとした。巡査も増援してこれを防いだところ、さらに兵卒の数もふえ、百五十人ばかりが巡査側を殴打暴行した。  また、愛宕下《あたごした》でも二百名の兵卒が巡査屯所を襲い、投石して窓を破ったり、銃剣を抜いて巡査数名を傷つけたりした。  明治八年には、上野の山内で巡査二、三十名と兵士百数十名とが乱闘した。  このような事件は、大阪でも青森でも起っていたのであった。  山県が「軍人訓誡」で特に軍隊と警察との提携を強調したのは、このような騒動を抑止する意味だけではなかった。いま人民の間に熱病のように起っている自由民権運動の取締りは、どうしても警察官の手で撲滅せねばならない。それには軍隊は警察の後楯となり、警察で手に負えなくなったときは軍隊の出動で鎮圧するという心組みが山県にあったのである。「軍人訓誡」に特に軍警一体を入れたのは、そのためである。  川路は九時過ぎに引取った。  山県は、それから別室に寝ている妻の友子を見舞った。友子は松子を産んだまま、まだ床に就いていた。  山県は嬰児をのぞいた。山県に似て長い顔だった。頭が余計に長く見える。しかし、元気に泣いていた。  山県は明治七年に長男を儲けたが、すぐ死亡し、その後も、次男を喪《うしな》っている。 「気分はどうだな?」  山県は妻の横になった顔に言った。 「気分は至極よろしゅうございます」  妻は静かに答えた。 「乳の出はいいのか?」 「心配ございません」 「よく泣きよるのう」  山県はしばらく松子の顔を見ていた。 「近ごろ、お帰りが遅うございますが、役所のほうに何ぞ変ったことがございましたか?」  寝ている妻には竹橋の一件は話してなかった。 「うむ、別段、変ったことはない。しかし、近ごろ、ひどく忙しくなった」 「それならよろしゅうございます。わたくしは、去年の戦争のあとでございますから、余計な取越苦労をいたしておりました」 「おぬしの父親《てておや》から、この前手紙が来ちょる。末の男の子を然るべき会社に世話をしてくれちゅうことだったが、あれは東京に出て来るつもりかな?」  友子は、長州豊浦郡吉田村|石川良平《いしかわりようへい》の女《むすめ》であった。慶応三年に挙式しているが、このときは、薩長連合のために京都で運動して、郷里に帰藩していたときであった。岳父石川良平は、山県の世話で三井銀行に入っていた。 「あの子ももう大きゅうございますから、然るべきところがあったらお願いします。それから目白台のほうは進んでおりますか?」  友子は山県に伴《つ》れられてその地を見ているが、松子が腹に入ってからは、めったにのぞいていない。 「うむ、秋には入れるじゃろう。庭のほうもわしの思うように進んじょる」  山県は妻の枕許に坐って、しばらくそんな雑談をした。居間に引揚げたのが十一時近くだった。  十一時を過ぎて品川弥二郎が来た。  弥二郎は内務大書記官であった。彼は明治三年に渡欧して普仏戦争を視察し、九年、帰朝までプロイセンに在って地方制度・農政・協同組合の研究に努めていた。大書記官の地位はその故である。  弥二郎は、竹橋騒動のとき、逸早《いちはや》く山県の命を受けて三条太政大臣の許に走り、至急参内を求めて三条を助け、急いで衣服を着替えさせた男である。  弥二郎の邸は山県のつい近くで、同じく富士見町にあった。それで夜遅くとも彼はときどきふらりと着流しで現われた。 「おぬしの来るのを待っちょった」  と山県は言った。 「どうじゃ、土佐のほうが大分活溌になっちょるちゅうが、おぬしの耳には詳しいことは入らんかの?」 「今日、こちらに川路大警視が伺ったそうですが」  品川はそれを知っていた。 「来たことは来たが、ひと通りの報告だけを聞いた。川路は薩藩の人間じゃけんのう、あんまり気持を許して訊けんところがある。おぬしはいろいろの情報に詳しいから、知っちょることがあったら聞かしてくれんか」  品川は、そこで、再建された土佐の愛国社をはじめ、熊本、筑前、三河、福島などの自由民権運動の地方各地の動きを伝えた。山県は黙って聞いていた。一体、彼は自分でしゃべるよりも聞き上手であった。 「わしが心配しちょるのは、そういう思想が兵卒に行《ゆ》き亘《わた》ることじゃ。今度『軍人訓誡』というものを書いちょるが、その点を大いに盛り込んどいた」  山県はそう言って次のようにつづけた。  政治を是非し、法を私議し、官省などの布告諸規を云々するは軍人の本分と馳背《ちはい》することで、一人が左様なことをすれば、衆が皆これに倣い、遂には上官を軽蔑する風を生じ、その弊害は測り知らざるものがある。軍人といえども朝政の利害において真に見るところがあれば、穏当な方法でその意を達することも出来ないではない。然るに、喋々論弁を逞《たくま》しゅうして、ややもすれば時事に慷慨《こうがい》し、民権など唱えて、本分に悖《もと》ることをもって自らを任じ、武官にして書生と同じ狂態をなすものがある。これは論外のことだが、また、軍の秩序を経ずして建言をなすも許されない。所管でない官憲に対し建言をなすなどはもってのほかである。また、新聞・雑誌に匿名で投書したり、時事を論ずるなども本分に背く。畢竟、軍人は軍籍に列するとき、朝廷に忠ならんことを誓ったものであるから、この初心にいささかも愧《は》じることがないようにしなければならぬ。  山県がその「軍人訓誡」に盛ったという民権思想|防遏《ぼうあつ》の精神は、このような言葉であった。弥二郎、聴いて悉《ことごと》く感服した。      7  山県は、ようやく休みを得るようになった。  彼は毎朝、槍を振うことに変りはなかったが、遠乗りは休日以外には出来ない。竹橋騒動後の諸部隊の動向もさしたることもなかった。彼は、進捗《しんちよく》している目白台の築庭を見に行くのが再び愉しみになった。もともと、この場所を見つけたのは遠乗りの途中であった。  山県は、造園には格別な才能を持っていた。殊にこの台地は、前面は早稲田《わせだ》村一帯の平地をみはるかす斜面に立っていて、下は江戸川が流れている。彼は、自分に金があったら、早稲田一帯の土地を買込んで、これを悉く水中に沈めて池を造ってみたいなどと空想した。斜面は起伏に富んでいるので、その地形を分割して谿《たに》を造り、池を掘り、滝を流し、橋を架けた。山県は、のちにこれを竹裏渓、雲錦池、聴秋瀑、延年橋などと名づけて十勝と命名した。  山県は、その長身を一万八千坪の斜面に運んだり、佇《たたず》んだりしながら、工事人を指図していた。とんと穏かになった陽射しは秋の気配を動かしている。  曠地《こうち》に集って働く人夫の群を丘の上に立って眺めている山県の心中には、すでに参謀本部設置の構想がこの庭造りのように固まりつつあった。  参謀本部の新組織計画は、ドイツから帰朝した桂太郎《かつらたろう》の立案に基くもので、それまでは参謀局が陸軍省に隷属《れいぞく》して作戦事務を総括していたが、西南戦争の結果、作戦の独立の必要を感じたのだった。  桂はこう考える。──  陸軍の機能は、大体、大きく分けて二つになるだろう。政令と軍令である。政令は本省が管掌しているが、軍令は本省内の参謀局が専任となっている。まず、参謀局長の任は、日本総陸軍の定制節度を審議し、兵略を明らかにし、機密に参画する。平時では地理政誌を審《つまびら》かにし、戦時では図を案じ、部署を定め、略程を測り、戦略を企画するなどのことがある。しかし、本省の仕事は、近年、政令諸規定の急増から、創設当時からみると甚しく煩瑣《はんさ》になっている。また軍令を掌《つかさど》る参謀局も、以上の諸般の情勢で他の進歩の度合に沿わなければならない。欧州一、二の文明国の参謀本部を見ると、その規模は宏大であって、その長の権力はほとんど陸軍卿と同格である。その任とするところは、戦時はもちろん、平時でも、いやしくも軍令にかかわるものは悉く局長の与《あずか》り知らざるものはなく、内に機密の企画をなし、外には遠大の謀略が行なわれている。今、わが参謀局の規模をもってしては、現今の陸軍政令の進歩に対しても、また欧州陸軍参謀局の体裁に照らしても、甚しく権衡を失している。そこで、早急に参謀本部の設置を必要とする。このようにして陸軍の基礎が出来るというものである。  しかし、山県がこの桂の改革案に同意しても、まだこの段階では軍隊の兵卒にどのような精神的な支柱を与えるかはまるきり見当がついていなかった。陸軍の上層建築は着々と進んでいるけれども、これを支える中心精神が見当らない。現に、竹橋騒動でみるような給料値下げの不平による暴動は慮外至極のことであった。  今度の「軍人訓誡」でも山県はひたすら「服従」を説いた。これは多数の壮丁を擁している軍隊内では必然的に感情の違和が起り、下級者の上級者に対する不信から下剋上の風が起る可能性がある。ただ、服従の精神だけで軍隊内の矛盾が抑えられ得べきかどうか。これは山県にとっても自信がなかった。  往時の武士の忠義といえば藩主に向ってであった。明治初年以来藩兵がややもすると中央の動向から離れたのは、中央政府の恩義を感ぜず、昔ながらの藩主への忠義心が根を持っているからである。今は天皇が兵卒の主君である。しかしながら、現在の天皇が直ちに藩兵における藩主の恩義の地位になり得るだろうか。  そもそも武士の忠義心は何だろうか、と山県は考える。藩主に対する忠義心には、藩公より祖先伝来の経済的な支給がその根底となっていることである。即ち、先祖が勲功を立て秩禄を藩主から賜われば、代々の子孫は座してその食禄を支給される。これが「君恩」である。されば、その武士の家庭においては常に主君の恩を子弟に説き聞かせ、忠義心を伝承させてきた。藩主の位置が不変な限り、家来の経済生活も数百年に亘って安定していたのである。であるから、ひとたび藩自体に異変が起らんか、この君主の恩恵に対する恩返しは同時に家来自体の経済生活を防衛するの一律上の働きとなって、戦闘には異常な強さを発揮する。行賞は悉く藩公自らの手でなされる。これがまた二重の加恩となって家来の忠義心を深める。  しかるに、現今の軍隊は陸軍省という中央政府に隷属している。だから、兵卒は直接には天皇の「恩恵」を感得しない。恰《あたか》も封建時代における天子と同じく、天子の存在は知っても主は藩公あるのみの思想と変りがない。兵卒の給料も政府という機関から支給される。それも、旧幕時代のように子孫代々が座してその恩恵を蒙るということはない。即ち、天子に対しては恩義を感じないのである。言うなれば、兵卒もまた一般官員のごとく単なる俸給生活者でしかない。そのことは、今の軍隊の中核部を構成している士族の心情をみれば分る。彼らの気持の中には天皇への忠義心はうすく、未だに旧藩主への思慕が残されている。  軍隊内でいかに服従を説いても、兵卒に忠義の心なくしてはそれは行なわれるものではない。  なるほど、「軍人訓誡」には忠義の心を説いた。 「夫《そ》レ苟《いやしく》モ忠実ナラスンハ何ヲ以テ我カ大元帥タル皇上ニ対シ奉リ国家ニ報スル所アラン。苟モ勇敢ナラスンハ何ヲ以テ戦闘ニ臨ミ危険ヲ冒シテ功名ヲ成サン。苟モ服従ヲ主トセサレハ何ヲ以テ軍隊ヲ維持シ、三軍ヲシテ一身ノ如クナラシムルヲ得ン」  この精神は「一、軍人タル者 聖上ノ御事ニ於テハ縦ヒ御容貌ノ瑣事タリトモ一言是ニ及フヲ得ス」の宣言に連なる。  しかし、「皇上に対し奉り国家に報ずるところの精神」は、以上の理由をもって兵卒に実感として与えられない。  山県の眼には、この名文の上を、いま一万八千坪の斜面を撫でて過ぎる初秋の風にも似た空疎さが流れて映るのだった。      8  十一月十五日の朝、山県は少佐|大島久直《おおしまひさなお》の訪問を受け、竹橋部隊叛乱連累者の判決と、その処分とを聞いた。大島は公判中参座として糺問の席に在った男である。  大島は、まず、判決文を見せて次のような報告をした。 「近衛歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊兵卒三添卯之助 其方儀|妄《みだ》リニ不平ヲ抱キ、徒党強願ノ企ヲ発意シ、近衛砲兵大隊第二小隊馭卒小島万助、長島竹四郎等ヲ慫慂《しようよう》シ、遂ニ該隊暴動ヲ為スニ至ルノ科《とが》ニ依リ、死刑申付ル。近衛砲兵大隊第二小隊馭卒長島竹四郎 其方儀近衛歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊兵卒三添卯之助ノ発意ニ同シ、同隊馭卒小島万助ト共ニ首唱、隊中並ニ近衛鎮台各隊ヲ慫慂シ、徒党ヲ結ヒ、去ル八月二十三日夜暴動ニ及フ科ニ依リ同断。同小島万助 其方儀近衛歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊兵卒三添卯之助ノ発意ニ同シ、同隊馭卒長島竹四郎ト共ニ首唱、隊中並ニ近衛鎮台各隊ヲ慫慂シ、徒党ヲ結ヒ、去ル八月二十三日夜暴動ニ及フ科ニ依リ同断」  死刑を受けた者五十三名。そのほか禁錮の罪に問われた者は、赤坂の陸軍徒刑場に入れられた以外には、京都、秋田、青森、岐阜、岡山、兵庫、山梨というふうに各県へ護送された。  五十三名の死刑判決者は、十五日午前三時三十分、愛宕下《あたごした》の仮囚獄から越中島刑場へ護送された。銃殺は午前五時から始まって九時に終った。  この日の死刑執行官は、中佐|山川浩《やまかわひろし》であった。籠《かご》から引出された兵士たちは、顔色のわりにはみんな元気だった。中には詩を吟ずる者があり、都々逸《どどいつ》を唸る者さえあった。言渡しが済むと、十五人がずらりと十字架に括りつけられた。首領株の小島万助は、最初の一発が耳許を掠めたきりなので、銃を構えた兵士たちに向って、「あとは見事に射て」と叫んだ。しかし、言いも終らぬうちに二発目が眉間を貫いた。全部の執行が終ったのは午前九時で、死体は桶に入れられて青山陸軍埋葬地へ送られた。  小島万助の最期を聞いたときは口の端を曲げて黙っていた山県も、処刑者の中に広瀬喜一郎という馭卒がいて、辞世を一つ詠ましてほしいと願い、かねて作っておいたものらしい歌を詠み上げたという報告を耳に入れると、 「莫迦《ばか》めが」  と初めて苦々しそうに吐いた。 「処刑者の事後処置は、判決後に用意したのか?」  大島はその問いに答えた。 「判決の結果は、大体、予想出来ましたので、その前から準備をしました。何分、処刑者は多勢のこと故、死骸の取扱人も多くなくては差支えると存じ、前夜から警視監獄所へ依頼しておきました。同所では、かねて千住《せんじゆ》北組から死骸取扱を心得ていた者五人ほど呼び出し、その他の者も申付けたところ、その夜のうちに三十人ほども傭い入れたので、幸いにして間に合いました」  処刑の準備は判決前からなされていたのであった。山県は横を向いたまま何も言わなかった。  午後から山県は役所に出たが、ここでは今朝未明の死刑執行について話がもちきりであった。市中もしきりと取沙汰をしている。  山県が書類を見ていると、蘇我祐準が入ってきた。 「今朝、無事に処刑が終って、まずは何よりでした」  蘇我はそのことを祝し、 「ついては、今後の各部隊の情勢ですが」  と声を低めて言った。 「今後、二度とこのような不祥事を起さないためには、兵士の動静を探る必要があると思います。ついては、軍隊の中に彼らの動きを内偵する者を忍び込ませる必要があると思われますが。さすれば、この度のような騒動も未然に防ぐことが出来たと思います。われわれは近衛部隊で不平分子が動いているとは分っておりましたが、まさか暴動まで起すとは考えなかったのです。こちらの見方が狂っていたわけです」  山県はそれを聞いていたが、 「それでは何かい、兵隊の中に、密偵を入れるちゅうのか?」  と訊き返した。 「左様な方法をとったほうが安全かと思います」  蘇我は、山県が一議に及ばず同意するかと思うと、山県は落窪んだ眼窩の奧から眼を光らせて、ひとかたならぬ気色《けしき》を示した。 「それは以ての外じゃ。もし、軍隊にそんな密偵が入ったと分ったら、兵卒同士に猜疑心《さいぎしん》が起って統率もとれなくなる。兵は絶対服従を建前としなければならん。おぬしの説のように密偵が仲間に入っていると分ると、相互不信の念から服従の規律が乱れてくる」  山県はそう言ったあと、 「だが、おぬしの考えももっともなところがある。それで、今後は各部隊の隊長が下士官兵に兵卒の身上調査その他を行なわせ、各兵の性格言行を観察熟知させ、兵の一人一人を隊長が十分に掌握するように計らえば、まず心配はあるまい」  山県は反対したが、密偵のことは彼の心の中に疾《と》うから動いていた。むろん、それは軍隊の中ではない。      9  改代町の津丸藤兵衛は、内務省権大書記官武井守正の手から大警視川路利良の名前を書いた褒賞を貰った。金一封の中身は金三円也であった。  藤兵衛は近所にこのことを堅く秘している。女房も亭主に口止めされていて誰にもしゃべらなかった。夫婦は相変らず不景気な古着屋商売をつづけていた。三円というと、ちょっとした額だが、藤兵衛はそれを費《つか》って人目に立つようなことはしない。夫婦でうまいものを食いに行くとかいう贅沢もしなかった。  竹橋近衛砲兵隊の騒動一件は、近所では噂でもちきりだった。新聞にもしきりと書き立てられている。騒動余聞といったものが、しばらくは記事の上であとを絶たなかった。  たとえば、この騒動最中に徹夜の警戒をしている文部省の小使部屋へ、何者とも知れない一人の男が真裸で躍りこんで来た。何事かと部屋に居合わせた者が愕いていると、表のほうから兵士数名が追跡して来た。曲者はずうずうしくも小使部屋に入って小使の衣類をつけたが、遂に捕縛となった。これは、逃れて濠の中に身を潜めていた砲兵隊の馭卒だった。  また別の脱走兵の中には、裸で濠から這《は》い出て水菓子屋の縁の下に潜んでいたのを、追出されて縛についたものもある。  また、一ツ橋通町の士族の後家は、近衛砲兵隊馭卒の一人が酒に酔って暴動のことを口走っていたのを、そのときはその場の雑談と思って聞流していたのが、のちになって事実と判ってもその筋に訴え出なかったため違式罪に問われ、懲役二十日、収贖金《しゆうちよくきん》五十銭を申付けられた、などといった記事が長い間つづいた。  新聞だけではない。この改代町は竹橋に近いため、当夜の騒動の模様を見た者もあり、新聞に載らなかった事実を目撃した者もあったりして、余計に評判が高かった。  津丸藤兵衛はこんな話を聞いても、何でも珍しそうな顔をして耳を傾けた。愕いたり、感心したり、いかにも何も知らなかった人間のような風体《ふうてい》を装う。しかし、藤兵衛は肚《はら》の中では嗤《わら》っている。この騒動の情報を早くから耳に入れて、そのため官の措置を敏捷にさせたのはおれだが、それを誰も知らないと思うと、おかしいような気もした。といって、自分の功名を誰かにこっそりと知ってもらいたいというような告げ口心臓の持主でもなかった。ましてや金三円也の不時収入もひた匿《かく》しにして、古着一枚に一厘の値引も渋る吝《けち》な商売をつづけた。  騒動の連累者が越中島で悉く処刑されてから間もない晩だった。  津丸藤兵衛は武井に呼び出されて、下谷数寄屋町《したやすきやまち》の小ぢんまりした料理屋の二階で彼と会っていた。小料理屋は吹抜亭という色もの席の裏に当るので、始終、三味線や、太鼓や、柝《き》の音がきこえてくる。  武井は地味な和服に着替えているので、まさか警視局の官員とは誰も気がつかない。藤兵衛も職人のような風采で出て来ていた。  二人の間に二、三本の銚子がならぶと、武井は酌をしていた女中を部屋から追い出した。 「さて、藤兵衛。今日はちっとばかり頼みがある。ほかでもないが、おぬし、しばらく大阪に行ってくれないか」 「大阪ですって?」  藤兵衛は盃を置いた。 「そりゃまた、ちっとばかり遠うござんすね」 「うむ」  武井はうなずいて、 「実は、この度のおぬしの働きは、上のほうでは大そう感心をしておられる」 「恐れ入ります」 「それで、大警視からも破格の褒美が出たわけだが、この次は、それに縒《より》をかけた腕を振ってほしい。どうだ、二つ返辞で引受けてくれぬか。おぬしが承知をしてくれたら、こちらの頼みの筋を明かしたい」 「左様でございますね」  藤兵衛は言った。 「今度はまた過分な御恩賞にあずかったので、手前も骨身を惜しまずお役に立ちたいと思っております。しかし、何分、東京の内ならともかくも、大阪とは遠うござんすね。それも、短い日ではございませんでしょう?」 「さすがは、おぬしだ。よくその辺を見破ったな。いかにも、今度大阪に行ってもらうことになれば、まず一年か二年ということになろう。どうだ、おぬしも古着屋をやっていることだし、女房もいるので、無理にとは言いかねるところもある。だが、上のほうでは、ぜひおぬしに肌を脱いでもらいたいと言うのだ。実は、わしはそれを引受けてきたのだ。藤兵衛、いろいろ事情もあろうが、引受けてきたわしの手前、何とか聞いてくれぬか」 「手前も若い者ではございませんから、女房と二、三年ぐらい別れていたって平気でございます。それに、古着屋の商売は女房のほうが目が利いていますので、わたくしがいなくても十分にあれでやってゆけます」 「それでは引受けてくれるか?」 「旦那、今度は御用向きのことを打ち明けていただけるでしょうね?」  武井が打ち明けたのは、今度、愛国社が大阪で大会を開く。これには各地から自由民権論者が集って来る。  すでに今年の四月には、立志社員が「愛国社再興趣意書」を携えて、それぞれ各地に遊説した。これらの輩《やから》が危険なことは、大久保内務卿を刺殺した島田一郎の斬奸状によくそれが現われている。  斬奸状の第一には、「公議を杜絶し、民権を抑圧し、政事を私する」とあるように、今後の彼らの運動も決して眼を離すことが出来ない。四月に行なわれた立志社員の各地の勧誘は、陸奥宗光以下が西郷に通じたことが途中で露顕し入獄したことと、島田らの大久保内務卿暗殺のため当局の立志社員に対する追及逮捕が相次いでいるので、いささかその運動は効果を上げなかったようだ。だが、これに安心してはならない。この度の大阪での再興第一回の愛国社大会は、彼らの今後の運動発展を決定する重大な契機だと思う。  武井は、こんなむずかしい話をひと通り藤兵衛に説いて聞かせ、要するに、大阪に潜入して秘《ひそ》かに彼らの行動を探り、こちらに通報してほしいというのであった。      10  その年の秋、山県有朋は富士見町の宅から新築成った目白台椿山に移転した。参謀本部長となった彼は、毎朝、馬で役所に通勤した。  或る寒い日だった。江戸川橋を渡っていると、市中でしきりと人が走っている。山県が眼をやると、路地の奧のほうで群衆が一軒の家の前にかたまっている。巡査の姿も見かけられた。山県の視線に瞬間に映ったのは、その家に宿屋の看板のあることだった。  彼はそのまま馬を進めて行く。空は厚い雲が凍《い》てたように張っていた。  役所に着くと、山県は管東局長大佐|堀江芳介《ほりえよしすけ》と管西局長中佐桂太郎を呼び、二日後に創設される監軍本部の人事と予算関係についておそくまで話し合った。  管東局、管西局とは何か。  西南戦争が終った途端、山県の眼は外に向っている。管東局は、専ら第一軍管、第二軍管と北海道の地理政誌を詳かにすると職制で決めている。が、その中に「且つ兼ねては樺太、満州、堪察加《カムチヤツカ》、西伯里《シベリア》に及ぼし」という文字を挿入した。管西局でも「且つ兼ねては朝鮮より清国沿海に及ぼす」の一行を加えている。「ともに有事の日においてその参画の図略に備う」とした。  山県は、西南戦争で内乱の不安は一段落ついたと決定した。その視野は切り返すように北と西に隣接している他国の領土に向けたのだった。  明治六年四月に、初めて徴兵令による第一回の徴兵が東京鎮台に入営したが、この年改正された六軍管は、東京を第一軍管として東京、佐倉、新潟の営所を管理し、第二軍管は仙台に在って仙台と青森を、第三軍管は名古屋に在って名古屋と金沢を、第四軍管は大阪に在って大阪、大津、姫路を、第五軍管は広島に在って広島と丸亀を、第六軍管は熊本に在って熊本と小倉を営所としてそれぞれ管理した。つまり、鎮台六、営所十四であった。徴兵令は山県の最も主張したところである。  だが、この国内兵備配置は、どう考えても内乱に備える態勢であった。全国のどの地から暴動が起っても、この配置ならば、近くの鎮台が出動して一応押えることができる。暴動がつづけば、さらに隣接の鎮台の出動が可能である。さらにこれに呼応するような地方があれば、その地の鎮台は動かずして制圧することができる。各軍管の配置は、このような意味を含んでいた。すべてを通じての兵力一万五千三百人であった。  東京の宮城を固める近衛隊は約一万の兵力である。全国の兵数から比例して近衛隊に最も重点が置かれたのは、宮城の守護と、首都の治安維持の重視からである。だが、これは、西南戦争の直前に薩摩出身の兵隊がごっそりと脱けたことで軍部に衝撃を与えた。  だが、山県は考える。それは結果的にはかえって良かったのかもしれない。なぜなら、近衛隊の中核をなしていた薩摩出身兵は、まだ藩兵の意識が棄て切れなかった。いわば、これは自らの行動で軍隊内部の体質を淘汰したといえる。山県が監軍本部を創設して兵士の教育に重点を置いたのは、統一軍隊の基礎固めに手を着けたいからである。もっとも、これはフランス軍制のそれを参考にしている。  国内的な暴動は終ったと山県が考えた瞬間、その兵備配置も外向的にならざるをえない。だから山県は清国を仮想敵国として考える。その日の両局長との相談も、翌年清国に派遣を内定した駐在武官、語学研究生の人選にあった。駐在武官の長は桂太郎か小川又次《おがわまたじ》とすることに山県は肚を決めていた。  こういう矢先、山県が一ばん気にかけたのは竹橋騒動の余波である。  最も優遇している近衛隊から、給料減額のために暴動が起きたのが山県にはこたえた。この不平が鎮台兵に波及することを惧《おそ》れたため、竹橋騒動の発表は事件の性格評価を極端に低く押えたのだった。給料の点で不平の暴動を起すなら、近衛兵よりむしろ地方の鎮台兵のほうに要因がある。  品川弥二郎はその後山県のところに来て、彼がプロイセン滞在中に仕込んだ話を聞かせた。  それは、普国でもボヘミヤの兵士が薄給に不平を抱いて檄文《げきぶん》を飛ばし、ワルレンスタインを奉戴して普国王室に反逆した話だった。弥二郎が騒動鎮定の直後山県に書を送って「普国の親兵ベルリンの宮殿前に戦ひし時などは、弾丸の少々大蔵卿の邸楼に当りし位ひの事にては無[#レ]之事」と書いたのは、すぐにそれを連想したからだと言った。  山県はまたしても兵卒の「忠義」を考える。殊に徴兵となってからは、彼らを精神的に統御する目標物がないのが最も気にかかった。そのため彼はフランスの兵制史を繙《ひもと》き、一応、それに倣った兵士の「誓文」のようなものは作った。フランスでは兵士の精神的支柱は「神」であった。  一、平戦両時とも、国家の為、身命を擲《なげう》ち、忠勤を尽し申すべき事  一、長官並に上級より申付けられ候儀は、如何なる事と雖も誠実に相守り申すべき事  一、平時戦時共、脱走致し申すまじき事  一、父母の病気たりとも漫《みだ》りに帰省願出申すまじき事   右の条々に違背仕るまじく、若し之れに背き、御掟《ごじよう》を破り候節は、公けの御処置のみならず、神罰を蒙り申すべく、依て誓文|如件《くだんのごとし》  ここにいう「国家」とは何であろうか。明治五年にこれが制定された当時の士族の観念は、「国家」とは「藩」であった。彼らには天子はあっても、忠誠を尽すのは藩主以外ではなかった。それから六年経つ今日でも「国家」の観念は曖昧だ。農民から採った兵士の中では「国家」の意味さえ分っていない。曖昧な対象に忠誠が誓える道理がなかった。それは西南戦争のときにも鎮台兵の弱点となって遺憾なく現われている。  また、精神的主体に何を置いていいか分らないので、フランス兵制にいう「神の名において」を「神罰」と直訳した。しかし、キリスト教の「神」と、「神罰」に現わされている日本古来の「神」とは、根本的に観念が違う。どう考えても、これでは日本人の強い精神の集中的対象とはならないのである。 「国家」といい、「神」といい、兵士の精神に与えるにはあまりに漠然としすぎていた。山県は兵制改革当時から、これに代るべき強力なものの発見に苦悩している。  その日昏れてから自宅に帰った山県は、朝、馬で通りがかりに見た情景を思い出して下婢《かひ》に訊いてみた。江戸川は自邸のある目白のすぐ下であり、もしかすると下婢があの騒ぎを聞いているかもしれないと思ったのだ。  やはり下婢はそれを知っていた。 「あれは、鎮台さんが兵舎を逃げて来たそうでございます」  婢は主人が軍人なので言いにくそうに答えた。 「あすこの宿に隠れていたのを、警視庁巡査が取押えに行ったんだそうでございます」  山県は苦い顔をした。  脱走兵は相変らず多い。徴兵になってからも、わざと自分の身体を不具にして兵卒に採られるのを忌避する者もいる。また、兵士でしきりと休暇を願い出る者があとを絶たなかった。  山県は翌日役所に出ると、早速、警視庁の者に来てもらって、その話を確かめた。すると、その人は次のように答えた。  江戸川橋の近くに備前屋という宿屋がある。そこの主人が近くの交番に、泊り客の中に不審な若者がいるから、と密訴してきた。内偵すると、なるほど妙な挙動がある。たまたま宇都宮の連隊から脱走兵のあったことが手配されていたので、人相書に照し合せてみると、まさにその男である。そこで取押えに行ったのだが、抵抗したので近所を騒がせた。  よく調べてみると、その男は野州烏山在の農民の子だが、兵舎を脱走して土佐に赴こうとする途中であったと自供した。そのために旅費の工面をしなければならないので、当分、江戸川橋畔の宿に潜伏して、しかるべき方法で旅費の入手を考えていたのだ、と自供した。  さらにそれを追及すると、旅費には強盗を働くつもりであったと述べた。土佐に行く理由は、板垣退助《いたがきたいすけ》の愛国社を頼って自由民権運動に投ずるつもりであったとの自供である。  山県は訊いた。 「その男は、誰か仲間がいたのか?」 「左様な者はいないようであります」 「なぜ、民権思想にかぶれたのだ?」 「本人が申しますには、家庭が水呑百姓で、ひどく貧困だそうであります。元は一町二反歩の田畑を所有していたそうでありますが、地租の改正で支えきれなくなり、田畑は手放し、小作になっているということであります。自由民権運動に投じると、この家の苦労がとり除かれると浅墓《あさはか》に考えたようであります」  山県はあとを質問しなかった。  西周の草した「社会党論ノ説」を、彼はこの数日間読み耽《ふけ》っていたのである。      11  地租改正条例は、明治六年七月に公布された。江戸時代には各藩各領で区々《まちまち》であった物納貢租を、全国一律の金納地租に統一したのが、この税制改革である。それは、明治四年の田畑勝手作の許可、翌年の土地永代売買解禁並びに地券交付などの措置の上に立っている。封建時代には、土地の売買も、田畑の作替えも許されなかったし、各藩によって貢租の率が違っていたが、この改革で、一律に地租を徴収することによって、全国の統一を図ったのである。この地租から上がる金で、明治政府の財政的基礎を整備させた。  ところが、この地租は一律に地価の百分の三と決められたが、これは収穫高の三四パーセントに相当した。その重い負担のために、自作農民のかなりの部分が私的所有地として確認された土地を喪失した。彼らは再び小作農となって地主的土地所有の支配下に転落した。殊に地租を金納しなければならないところに収穫高の価格変動による不均衡を齎《もたら》した。このため地租税率の引下げ運動がしばしば行なわれ、それは諸所に農民の暴動となって現われた。  はじめ、明治政府の主要財源をどのような租税によって賄うかということでは、むろん、地租ということに要路者の意見が一致した。租税といえば、誰も地租を主と考えるほかはなかったのだ。永遠に地上に存在する土地に対して、租税を課すということは昔からの慣例で、幕藩時代からつづけられていることなのである。ただし、徳川時代の田制は、検地・石盛《こくもり》ともにその実を失って、租税の不公平を来している。租税を収穫高に応じて徴するのは、未定の歳入をもって必要の歳出をはかることになって、不安定である。そこで、一定の地価を決め、これに適当な率の課税を考えたのであった。  この急激な課税法の改正は農村の困惑となって、しばしば引下げ運動が行なわれた。一般農民の不平は、維新以来政令が発布されるごとに加わり、徴兵令に対する太政官告論や地租改正によってさらにその度合を強めたのであった。  土佐の自由民権運動が全国の農村に向って主として拡がったのは、このような農民不平の素地があったからである。これに家禄を失った旧士族の不平分子が合流するが、その素因は農民の場合とは少し違っている。政府はたびたび秩禄公債を発行して士族の転落を防いだが、永い間家禄を守るのに汲々として気力を失ってきた士族階級は世の変革について行けず、せっかく貰った公債も金に換えたり、狡《ずる》い商人の餌食になったり、馴れぬ商法に手を出して失敗したりして、旗本の娘が街頭に媚びを売るようなことも珍しくはなかった。  山県が一ばん惧《おそ》れていたのは、軍隊の中にこの自由民権運動が滲透してくることだった。地租の改正によって農民が暴動を起したことと、つい半年ほど前に起った竹橋騒動のように兵卒が給料の不平で叛乱を起したこととの間には、いくらの差異もなかった。もし、現今にみるような民権運動の進展が全国的に拡がり、それが軍隊内に波及すると、兵制の破綻《はたん》はもとより、軍隊そのものの内部崩壊も起らないとは限らないのである。  これには早急に兵士の頂上に立つ精神的な象徴を作らなければならない。下級者は上級者の命令に服従せよと言っても、その極限を最上限まで求めれば、そこには誰もいなくなっている。命令系統の極限が空白なのである。  山県はヨーロッパから帰った若い連中の話をいろいろ聞いて、結局、外国では「国家」と「神」がその首座であることを知った。一応、それを兵士の「誓文」に直接移植はしているが、どうも日本人の感情には逼《せま》ってこない。  山県は、先年ヨーロッパを視察したが、そのとき、フランス革命のことを現地で聞き、その耳学問が頭に恐怖となって沁み込んでいる。パリ・コンミューンの騒動も伝え聞いている。フランス革命は農民が重税と封建的諸負担に苦しんでのことだった。革命の先頭に立った貴族は絶対王政の改革を目指したのだが、これには国家財政難のために特権身分にも課税しようとしたことに端を発している。フランス革命の背景が現下の情勢と似ているところに山県の不安があった。もとより自由民権運動家たちはフランス革命を教程としているのだ。いま民権運動が発展し、農民出身の脱走兵が土佐に走ろうという現象を眼のあたりに見ると、革命に遭遇した仏王室の運命が山県にも暗い連想を起すのであった。  ところで、人民が何故にこのように国会開設を要求し、政治に参与する権利を得ようとするのであろうか。山県はそれを、人民の地租の納入が政府費用の基礎となっていることへの意識からだと解釈する。また政府役人も軍人も、悉く人民の租税の上納によって賄われているという人民の権利意識に危険な由来があると解釈する。  もし、この考えを推し進めるならば、皇室の維持費もまた人民の徴税から賄われていることで、皇室に対する人民の批判が将来起らないとも限らない。  そこで、山県は、今のうちに精神的には皇室の尊厳さと、物質的には皇室財産の確立を急がねばならないと思うに至る。  山県のこの考えには、右大臣|岩倉具視《いわくらともみ》、伊藤博文、井上馨《いのうえかおる》も同じ意見であることを発見した。それは宮内卿|徳大寺実則《とくだいじさねのり》が、皇室の基礎財産としての領地問題を山県に相談して分明となったのだ。  徳大寺は岩倉の意見としてこのように伝えた。  憲法を将来制定しようとすれば、まず、皇室の財政的基礎を鞏固《きようこ》にしなければならない。民権論が次第に激昂して、天子といえども国会に左右せられるようになれば、皇位があれどもなきが如き大権の失墜ともなる事態がこないとは断言できない。そのためには官林を一括して皇室の財産とし、皇室費をこれから支出するとすれば、人民の租税によって皇室経費を維持するという観念が人民の頭からなくなるであろう。それには、まず、木曾の官林三十五万町歩をはじめ、長野、岐阜、愛知、三重、山梨、静岡、神奈川の美林地帯を総合すると、百五十万町歩くらいは大まかに見積られると思う。これだけあれば、一旦大変革が起った場合でも皇室財政には備え得られる。  このことは、のちに岩倉具視が皇室財産に関して閣議に提出した意見書に盛られている。  「即ち今の機会よろしく大いに皇室の基礎と政府の組織とを鞏固にし、よってもって大権の鈞石を和せざるべからず。しかるに憲法なるものは一法律にして文なり華なり。いやしくも皇室の基礎たる実質にして鞏固ならず、いずくんぞその文と華とを永遠に保つことを得んや。これ仏人の徒らに法律文華に整備を求めてその実質の鞏固に務めず、遂にしばしば国命を革《あらた》め、また如何とも能わざりしゆえんにあらずや。皇室の財産を定むるに、その率土《そつと》の浜《ひん》王土にあらざることなきはわが建国の体なり。しかるに明治五年人民に土地所有の権を与えられてより人民各自その土地を私有し、政府を維持するにその租税を納《い》るることをもってす。ここにおいて人民参政権の進取を論ずる者輩出し、従って憲法建定の期を促せり。激進の民権論は常にその適当の程度を超過するが故に、非政府の論議はますますその勢力を得べく、しかして人民自治を務めずして自由を求め、官民|乖離《かいり》の情況は今日の府県会議をもってこれを推察するに足るべし。かくの如くにしてのちに国会においていかなる過激論の起ることありとも、また国庫の経費を議定せざることありとも、これを鎮撫し、これを和順せしむるにおいて何かあらん。故に大権の鈞石を失わざらんと欲せば、国民の財産と皇室の財産とをして大差等なからしむるにあり。今それ調査済官林の数四百八十一万八千町の如きも、これを民有地の四百八十一万八千三百五十町余に比較すれば大差等あることなし。しかしてこれに北海道未調の官林を合せば、その額民有に超過すべし。即ち今の官有地を一括して皇室の財産とし、ひとたび宮内省に引上げ、さらに内務省に致し、皇室領としてこれを管轄せしめば、上下所有の権衡その平均を得るに至ることを望むべし。英国政治家の語に曰く�政権は財産に比例す�と。これ実に政理に通ずるの言なり。よろしく今日人民未だ官有地のことに論議を挿まざるのときにおいて、即ち宮内省或いは太政官中に皇室財産取調局を設け、その事務を憲法建定の前に整頓すべし」  この時はまだ人民も官有林には気がついていなかった。彼らの眼がそこに向わない今のうちに、早いとこ官有地を割いて皇室財産の基礎にしようというのである。山県は徳大寺の言葉に全く感服して、岩公の趣旨は甚だ結構だと賛同した。      12  その日は長男|余一《よいち》の祥月命日であった。山県は護国寺から僧侶を呼んだ。  山県にはどういうものか子供が育たない。長男余一は明治七年二月に生れたが、その月に早世した。翌年一月次男春一が生れたが、三月に死亡した。九年の十月長女|稔子《としこ》が生れたが、十三年三月に歿した。去年の八月に次女松子が生れたが、これも弱い。  この頃は山県の多忙な時期だった。参謀本部の開設と監軍本部の創設とで仕事が山積している。長男の法要に顔を出したのも、無理をして午前中の出仕を午後に延ばしたのだった。  仏事が終ると、山県は僧を別間に導いて茶を喫した。前面には完成したばかりの庭園がひろがっている。地形を利用して丘の起伏がなだらかな斜面をつくって江戸川へ落ちている。 「結構なお庭でございますな」  護国寺の僧は賞めた。早稲田あたりの低地にうすい霞が立っている。  僧侶と話しているうちに山県の耳を捉えた茶話が出た。  それは、越前の大谷派真宗僧侶で南条文雄《なんじようぶんゆう》という者が法主《ほつす》の命令でいまイギリスに留学して、オックスフォード大学のマックス・ミューラーという学者に梵語《ぼんご》の仏教経典を学んでいるという。その若い僧からの消息として、次のようなことを知らせた。  或る日、文雄が、新しい日本の代表宗教は何に決めたらいいか、とミューラーに相談すると、博士が答えるには、なるほど、神道《しんとう》でも、仏教でも、日本の国教にするには具合が悪いだろう、キリスト教はなおさら日本には合うまい。しかし、日本は天皇の伝統が久しいので、国民が尊心を抱いているようだ。つまり、皇室の尊崇を宗教に代えたらどうだろう、と暗示したというのである。 「もう一度、そのお坊さんの名前を聞かしてくれ」  と山県は言った。 「南条文雄という男です」  護国寺の僧侶は答えた。 「非常に頭脳の明晢《めいせき》な男です。美濃大垣の真宗の寺に生れましたが、たしか慶応二年には大垣藩の僧兵隊に選抜されたこともあったようです。京都に行って学寮で勉強していましたが、越前の寺の養子となったのです。梵文仏典の研究に熱中しているということです」  山県が東本願寺宗務局に宛て、至急に手紙を書いたのはそのあとである。  返事は数日にして到着した。 「南条文雄は、嘉永二年に美濃大垣の真宗大谷派誓運寺に生れた。前名は恪順。父は英順といい、兄は良順という。明治四年に越前憶念寺の養子となった。明治九年に法主の命でイギリスに留学して、いまオックスフォード大学のマックス・ミューラーについて梵文仏教経典を学んでいる。最近、彼からの手紙によると、同教授の指導で『大明三蔵聖教目録』を英訳して刊行すると言っている。文雄は新時代の学僧として当寺では大きな期待をかけている」  山県にはそれだけの返事で満足だった。  彼には、南条文雄がマックス・ミューラーから聞いたという助言が、大きな暗示となってひろがった。これまで彼の脳裡に閉ざしていた黒い厚い雲が、その片言で俄かに晴れてゆくような心地がした。  これは内側からでなく、外から眺められた眼のほうが確かだと分ったのである。  なるほど、兵士に教えた「誓文」が「神」ではうまく納得されるはずはなかった。キリスト教は西洋の人間には千何百年かつづいた伝統である。日本にも神道と仏教はある。しかし、キリスト教ほどには信仰が密着していない。それはほとんど宗教と呼べないくらいのものである。「神の御名において」としたフランスの兵典がこの国に合わないのは当然なのだ。  マックス・ミューラーとはどういう学者か知らないが、日本人の気持をぴたりと言い当てている。もっとも、幕府時代は天子の存在はうすく、将軍と藩主があるだけだった。だが、幕末の尊王攘夷運動が皇室を担ぎ出したことで、庶民の間にも皇室尊崇の念が刻まれている。キリスト教も千数百年の伝統を持っているなら、わが皇室の存在も二千年に及んでいる。  山県は軍隊の信仰を天皇に置いたら、と考える。  ただ、この場合、まださまざまな落差がある。それは前にも考えた通り、未だ兵卒の天皇に対する気持が武士階級の主君に対する密着感に遥かに及ばないということだ。封建時代の主君への忠誠とは、主君から受けたる「恩」への報酬である。「恩」は即ち主君から受ける家禄にほかならない。「恩」の関係は、主従の経済的直接従属のかたちで表現することができる。  しかし、軍隊の兵卒には封建時代のような従属関係がない。  天皇を兵卒の忠義信仰の対象とするなら、この関係を直接的な結びにしなければならない。そこにおいて初めて中間の「政府」が消失して「天皇」に対する「恩」の観念が生れるのである。  山県は前に「軍人訓誡」を頒布した。しかし、自分の思いついた新しい考えからそれが次第に遠のいてゆくのを覚えた。なるほど、「軍人訓誡」には忠義をしきりと説いた。だが、それはまだ天皇に対する絶対忠節にはなっていない。  直接的な従属関係を形成するには、天皇を軍隊の直接上官のかたちにしなければならない。要するに、封建時代の君主と家来の単純明快な関係に戻すことだ。山県は眼から鱗が落ちたような心地がした。  もし、天皇を軍隊の最極限に置くとすれば、天皇が宗教的な性格にならなければ弱くなる。キリスト教の「神」が、ここにおいてそのまま日本的な神格化に置替えられるのである。天皇の人格を神にまで形成させることである。  山県は、また西周を至急に呼び出した。  この少し前、西は山県のために、西洋の自由民権党派の事情を「社会党論ノ説」にして、その稿を脱したばかりであった。山県はそれを、先日来くりかえし読んでいる。 「西洋ニハ諸種ノ党派有リ、率子皆各自ノ本旨ヲ奉シ互ニ相争論ス、即国家ノ制度上ニ就テハ、専制党《デスポチツク》アリ王家党《ロワヤリスト》アリ共産党《レピユブリケン》アリ政体党《コンスチチユシヨナリスト》アリ豪族党《アリストカラチズム》アリ、是皆政体ノ建設方法ノ根源ニ就テ論旨ヲ立ツル者ナリ、又政略上ノ四党ト云フ者アリ、即|漸進党《リベラル》、急進党《ラジカル》、保守党《コンセルワチウ》、彼岸党《ウルタラモンタン》ノ四党是也、総テ此等ノ諸党ハ各国共ニ是有ル所ニシテ、国々ニテ名号ハ異ナリト雖ヘトモ皆此等ノ類ニテ、譬ヘハ亜墨利勧《アメリカ》聯邦ノ如キモ亦|共和党《レピユブリケン》ト民権党《デモガラチツク》ト両党有テ政事上ニ於テ始終其争論ノ絶エサルカ如シ。  然ルニ今社会党論ト云フハ此等ノ党論ト異ナリテ、一層根源ノ処ニ眼目ヲ立テ、一層大イナル改革即顛覆ニ志ヲ置ク者ニシテ、前ニ称スル如キ党派ハ何如ニ過激ナルトモ、今ノ地球上ノ社会ノ有様ノ中ニ就テ南北ヲ別チタルカ如キ者ナレハ、今ノ社会ヲ改革顛覆スルニハ至ラサレトモ、社会党論ト云フ者ニ至テハ総テ往古ヨリ西モ東モ有リ来リタル人間社会ヲ其目的ニ従テ変革セント欲スル者ニテ、是今時|日耳曼《ゲルマン》ニ起リタル公共党《ソシアリスト》〔社会党〕、魯西亜《ロシア》ニ起リタル烏有党《ニヒリスト》〔虚無党〕ノ如キ是也。  凡ソ社会ノ有様ヲ根源ヨリシテ変革セント欲スル党派モ、大率《おおむね》ハ今現在流行ノ党派ト合セテ四通ナリト見ユ、今現在流行ノ党派ト云フハ即|経済学《エコノミスト》ノ党論ニシテ、西洋ニテハ千六七百年代ヨリシテ殆ト現今ノ社会ノ定論ト成リタル経済ノ旨趣ニテ、此論旨ニ従ヘハ今ノ西洋ハ勿論、其余焔|嚮動《きようどう》カ支那日本ニ及フトモ又全地球上ニ及フトモ別ニ指シタル変動有ルニ非ス、何トナレハ今ノ世界ノ倫理其外ノ振合マテ、大率国々ノ其古代ヨリ漸次ニ自然ニ此ニ帰着シタル者ナレハ也、然レトモ他ノ党論ニ従ヘハ孰《いず》レニテモ一変革有ルニ非レハ難キ事ナリ。  而テ今四通リノ党派ト云フハ、第一|通有党《コミユニスト》、第二|経済学派《エコノミスト》、第三|公共党《ソシアリスト》、第四即|烏有党《ニヒリスト》是ナリ、此内ニテ経済学派ハ現今行ハルヽ所ノ者ニシテ、通有党ハ古昔ノ考ナリシトシ、公共党ト烏有党ノ二ツハ通有党ヨリ一変シテ今世ニ発現シタル者ナレトモ、二ツノ中ニテ公共党ハ既ニ千七百年代ノ末ヨリ漸次ニ其根ヲ欧洲ニ下シタルナリ、今此四党論ノ本旨主義ノ相水火スル所ヲ挙ケンニ、  通有党ノ本旨ハ生民皆同一権利均分ノ|産ヲ受クヘシ《ヽヽヽヽヽヽ》ト視タル者ナリ、是|希臘《ギリシヤ》ノ伯羅多《プラトー》ノ共和政《レピユブリツク》ト云フ書中ニ説ケル説ノ由ニテ、世界ノ開花登リ極ル時ニ至レハ所謂黄金世界ニ成リ、万民皆同一権利ニ均分ノ生産ヲ受ケテ生息スヘシト云フ理論也。……」  半紙に墨で叮嚀《ていねい》に書かれたこの草稿は二つの綴りで出来ていて、それぞれ十枚ずつだった。山県はこれを大事に蔵《しま》っている。西に会ったのは、それを読んでから今日が最初だった。 「この前は大へんな手数をかけたな」  と山県は言った。 「あれはよう出来ちょる。西洋の民権論がどねえなものか、わしにもよう分った」  山県はその礼を述べたあと、早速、「軍人訓誡」の改訂の用件にかかった。      13  山県有朋は、西周と茶を喫んだあとで言った。 「そうそう、この前は若い者にええ話をしてくれてありがとう。前にも礼を言ったが、今度、新聞を読んで改めて感服した」  有朋は萱《かや》のような細い眼に潤んだ光を湛《たた》えていた。  五十歳の西周は、有朋からみると、ずっと肥っている。太い髭はとみに白くなったが、血色はたるんだ頬に万遍なく行き渡っていた。彼は有朋の熱っぽい瞳に遇うと、やや恥かしそうな表情をつくって視線をはずした。  広い庭は黄色く枯れている。起伏が多いので影の部分は柔らかい暗緑色になっている。茶色の杉木立の上に鴉《からす》が集っていた。  有朋が若い者にええ話をしてくれたと感謝したのは、西周が偕行社《かいこうしや》内の燕喜会で青年将校たちを相手にした連続講演のことで、演題は「兵賦論」であった。もう一つは、その前に四回に亘って「兵家徳行」を講演している。それが陸軍省の機関紙である「内外兵事新聞」に連載されはじめたのを言っているのだった。 「兵賦論」は西が周到に準備をし、彼が独自の思索と研究によって学問的な議論を展開したもので、山県の意をうけて行なったのであるが、西としては自分の意欲を傾けた講演だった。  ──それには、彼がオランダ留学以来強く影響を受けていたカントの「永久平和論」から説き起し、世界史の大勢を論じたあと、究極には戦争が起きざるを得ない理由を述べた。広汎な知識と論理とを駆使した一流の戦争哲学であった。  西周は、その論文を自ら要約して言う。兵備というものはとうてい廃すべからざるもので、この地球上万国が最後に四海共和、無疆《むきよう》治休の域に達する方便は、この戦争というものよりほかに良方便がない。つまり、永久平和の状態に到着するまでの段階として戦争は不可避というのである。自分たちはカントの言う「永久平和」の途中に生れ合わせたものであるから、今後われわれの子孫三十代(約千年と見積る)の間は、否でも応でも戦争をせざるを得ない運命になっている。これはこの太陽系の衛星世界の中で、他の世界は知らず、この地球世界は人類に戦争をもって業《ごう》と定めたものの如くである。すべて人類世界は、その方法こそ違うが、戦争以外に運命はないようであると説いて、その結論として兵備の必要に論及した。  また「兵家徳行」は、こういう兵備必要論の上に立って兵家の道徳を説き、それに関連して軍人社会の特殊性と一般市民社会との区別を論じ、また軍人の徳目を説いた論である。  彼はその講演で述べている。  近代兵制の著しい特色はメカニズムということである。このメカニズムは単に兵器の機械化だけでなく、兵卒も機械のごとく用いるので、この点もまた一騎討ちの戦争と違う。これを「節制」と呼ぶ。次に、この節制とならんで軍の統帥上重要なものは、軍に将たる者の徳行である。それについては、兵家法則の大意はいわゆるオベケヤンス、即ち従命法で、これがためにいわゆるイエラルシーミリテイル、即ち軍秩の制を設けて、これを規則で規律する。これは武家の政治では怪しむに足りなかったことだが、今日の政治体では相反し、通常社会とは相容れない。通常社会では人々は同一権利を使途するけれども、軍人世界には一人も同一権利はない。この軍秩が平常社会の秩序に較べて一層厳なるゆえんで、実にこの制則がなければ、千万人を統御して恰も一身の動くがようなメカニズムを発揮することは不可能である。  西周によれば、軍人社会と一般市民社会とは劃然と二つに分れ、一方は自由と平等の原則によって支配される社会で、市民は平等の権利を持っているが、軍人社会では厳重な階級制と秩序があって、平等権は認められないというのである。  彼は日本陸海軍の士風、即ち将校間の「風尚風俗」について説く。この「風尚」は学術、技芸、法律などと違って、ただ徒《いたず》らに外国のものを模倣していいというものではなく、日本固有の性習に基づかねばならない。この固有の性習を西は「忠良易直」と表現している。 「忠良易直」は日本固有の性習であるが、将たる者はますますこれを助長して一般軍人の風尚となすべきである。  しかるに、一般日本人の風尚でも、軍人の社会ではこれを捨てなければならないものがある。 「然ルニ今風尚ノ事ニテ尤モ紛ラハシキモノハ何ゾト謂フニ当今総国中ノ風尚ニテ方今ノ処、風ノ向ハ一般ニ此点ニ吹ク所ナレドモ、武門軍人ニ在テハ前ニモ云ヒシ如ク本来軍秩ヲ重ンジ従命法ヲ宗トスルモノカラ、自然カノ維新以前鎌倉以降覇府ノ制度ト同ジキ所アリテ、維新以後ノ政治ノ方向ニ由リ、方今|方《まさ》ニ勃興セントスル所ノ風尚(即チ近代市民的ノモノ)トハ自ラ相背馳セザルヲ得ザルコトアリ。是平民|市井《しせい》ノ人ニ在テハ政治上ヨリ然ラシムル所ニシテ、且由テ以テ国ノ富強ヲ興ス所以《ゆえん》ナレバ此風尚ニ従ハザルヲ得ズ……是即チ似テ非ナル方向タル東南東東北東ト均シキ風尚ニテ……」  こうして軍人社会と一般社会は根本原則が違うが、それならば軍人社会で捨てるべきものは何かというと、民権家風、状師家風、貨殖家風の三家風で、これらはいずれも当世人民にあっては務むべきものだが、武人では慎んで避くべき風習に属するという。  民権家風を排撃する理由としては、これまで述べた軍秩上の従命法と相背馳するからで、平民にあっては圧制を受けないためにこれを主張することはいいが、武人は出身の初めにすでに身を「臣属」に任したのであるから、悉く必ず日本陸海軍の大元帥である皇上を奉戴し、あくまでも上下の序を厳しくして従命法に服さなければならない。  将来、海外万国と富強を競おうとすれば、人民もまた自ら自治自由をもって精神とせざるを得ないことはもちろんだが、武人ではこの風習に絶対に染ってはならない。  平民も武士も同じく日本の主権たる皇上を奉戴するは同一であるが、民属と臣属とは自ら異であって、たとえば幕政のときでも百姓町人は武家の家来とは差別があり、武家の家人は一層服従法を厳にしたのがそれである。いま陸海軍人は深くここに注意して、かの民権家風の風に染ってはならない。  また、軍人は貨殖に疎《うと》きことはなお往時の武士のごときをよしとするが、ただ、いまの軍人は往時の武士のごとく算術も知らずしては第一学術上に差支えが少くないから、貨殖とは別に数学には熟達しなければならない。  ──要するに西の講演要旨は、軍人の社会は大体維新以前の武士社会の系統を引くものであるが、同時に、幕府が倒壊して封建制度が終ると共に近代市民社会が出現することをも是認している。この市民社会では人民の自由が尊重されるが、武士社会の系統を引く軍人社会では「臣属関係」であるから、市民社会の法則をもっては用いられず、特殊なものとして軍人社会の存在を確保しようというのであった。  それでは軍人社会と自由市民社会とは併立して存在されるが、では、この相互の因果関係がどのように発展するかは西は触れていない。ここに有朋と違って、文久二年|津田真道《つだまみち》と共にオランダに留学し、社会科学と哲学を学んだ自由人西周の不徹底さがあった。 「政治上の真理は liberty にして、これを叶《かな》うときはいずれの国か治まらざらん、いかなる民か御せざらん、もし、ひとたびこれに悖《もと》るときは必ず乱る」  と述べているのに、軍隊の秩序を保つには頑固に liberty の侵入を防禦するのである。      14  しかし、有朋は、臣属関係が西の言う絶対的秩序を構成するとは実感的に考えられなかった。  彼は西南戦争における薩軍の行動を見ている。これらは皇居と首都を直接に戒厳する部隊であった。それが西郷と共に政府に抗するや、そのまま脱退した。また竹橋騒動は如実に「上より奪う」の平民根性から暴動を起した。  いずれの場合も、幕藩時代の臣従関係では考えられないことだ。たとえ薄い手当でも、家臣は主君のために戦場で命を捨てた。また重役に不満を持っても主命に抗するということはなかった。  単に武士階級のみでなく、市民社会が武士階級の臣従の倫理を支持していた。このことが臣属関係を外から余計に鞏固《きようこ》にしていた。  だが、現在では自由民権の思想が全国に燎原《りようげん》の火のようにひろがっている。いま、青年の口からこの演説の言葉が出ないことはない。彼らはルソーを口真似し、自由を口移ししている。  もし、この風習が軍隊社会に滲透すれば、現在の脆弱《ぜいじやく》な臣属関係は忽ち崩壊に瀕する。有朋が惧れるのは、この崩壊につづく下剋上の現象がさらに革命に合体することだった。  西周は軍人社会と市民社会との異を区別して、一方に自由を認め、一方に自由の圧殺を認めている。だが、有朋からみれば、外からの侵攻を防遏《ぼうあつ》するのは外の力を先制的に攻撃することだった。これが最良の防衛策であることは数々の戦史が教えている。要するに、有朋は現在の軍秩では安心がならなかった。自由民権運動は国会の早期開設を迫って、さらに日本中に燃え上がるであろう。  兵卒といえども孤児ではない。その父兄にもし自由民権論者があれば、近親からその思想が伝えられることはありうる。殊に徴兵令によって徴集した壮丁の多くは農村の出身者だった。自由民権運動が農村の間にひろがっている事実は、有朋に不安を募らせた。  もっと強力な秩序が、天皇を首座として絶対的な体制を形成されねばならない。さきに「軍人訓誡」を出したが、それはすでに時代遅れの観があった。 「軍人訓誡」では、第一《ヽヽ》に忠実、第二《ヽヽ》に勇敢、第三《ヽヽ》に服従を徳目の順序とした。  しかし、たびたび彼が考えてきたように、この忠実の観念は未だに絶対性に遠かった。どうも砂地の上に書いた文字のように弱い。  有朋はさきほど新設の参謀本部長となった。これは帷幄《いあく》の機務に参画するを司る軍令最高輔佐機関だが、参謀本部長は軍政面における陸軍卿ではなく、その上の太政大臣に相対立するものである。陸軍卿は直接天皇を輔佐する権限はなく、輔弼《ほひつ》の責任は太政大臣にある。しかし、参謀本部長は陸軍卿および太政大臣の権限より軍令に関する部分を独立して、直接に天皇に面謁して軍状を報告出来る職能にある。  なるほど、天皇と軍隊とは「大元帥」として最高の首座に置かれた相対関係だったが、まだ観念的なものしか出来ていない。昔の武士が君の馬前で討死したような忠義心がないことは、去年の西南戦争、今年の竹橋騒動でも歴然としている。  有朋は西に自分の意図を話した。「軍人訓誡」の足らざるところというよりも、その弱点を更新して絶対制秩序の形成の必要を説いた。もとより、西はこれまで軍部の諸法規を起草した人間である。海陸軍刑律、陸軍官制、職制、軍法会議などの法規は、いずれも西の草するところであった。官制の改革、条例の創設などがあるたびに彼の手を経ざるものはない。  西は有朋の説くところを凝然として聞いていた。が、言葉が終ると、その温厚な顔を静かにうなずかせた。先ほどの陽が翳《かげ》って草の影の位置が動いている。いつの間にか二時間ぐらいも経っていた。  有朋の訥弁《とつべん》はなかなか手間どる。彼は例によって熱が入ってくると、机の上に指を這わせてしきりと往復させていた。 「何とかやってみましょう」  西は眼を外に向けたが、あたかも海洋を眺めるような茫乎《ぼうこ》とした表情であった。そこには壮大な建造物を構築する前の技師の表情があった。 「大綱は、いつごろ出来る見込みかね?」  有朋はこの最も信頼する思考技師に訊いた。 「左様」  西は半眼に閉じて首を傾けていたが、 「まず、一年はかかりましょうな。或いは、もうちょっと暇どるかも分りませぬ」 「そねえにかかるか?」  有朋は不服そうだったが、 「まあ、なるたけ早く書いて見せてくれ」 「閣下のお言葉ですが、今度はちと西には荷が勝つようです。誰か協力者があればと思いますが」  有朋は激しく首を振った。彼は西を措《お》いてその適任者のないことを強調した。      15  翌十二年七月三日、アメリカ前大統領グラントが来朝した。  十二日には両国の川開きが行なわれたが、このとき浜町|河岸《がし》の蜂須賀《はちすか》邸にグラントを招じた。そのために例年より花火を盛大に打ち上げることになり、見物の人出も大そうなものだった。グラントの坐っている楼上には灯の入った岐阜提灯が万燈《まんどう》のように吊りならべられていた。  有朋は途中から蜂須賀邸に参加したが、十時ごろになって雨が降り出した。折から花火も中入り後で、アメリカ国旗と日本国旗とを交叉した仕掛花火が燃えあがっている最中である。この夜は川面も、屋形船や茶屋の舟が、河岸はもとより両国の橋下から川上の駒形《こまがた》河岸一帯に、川の水が見えぬくらいに犇《ひしめ》いている。それが雨脚の強くなるにつれて岸に漕ぎ着けようとするから、ひとかたならぬ混雑となった。雨は土砂降りとなる。船の上では見物客が右往左往し、なかには川に落ちるような騒ぎだった。この夜、警戒の巡査のなかで川に墜落して行方不明者を出したくらいだった。  花火は惜しいところで中絶となった。有朋は、グラントが宿舎の延遼館《えんりようかん》に帰ったあと、自分も引揚げようとして廊下に出ると、向うから紋服を着た小肥りの男が来た。 「やあ」  両方から久濶《きゆうかつ》の声が出た。当時、東京日日新聞の主筆をしている福地源一郎《ふくちげんいちろう》であった。福地は、ついこの間、東京府議会に下谷から選出されたばかりだった。 「いいところでおぬしに遇ったのう」  有朋は福地に反歯を見せて笑った。 「この前から会いたいと思っていたが、なかなかおぬしも忙しそうだからな」 「いや、閣下のお声があれば、いつでも参上します」  有朋と福地とはかなり前からのつき合いだったが、殊に二人が急速に接近したのは、西南戦争のときに福地が従軍記者として山県の本営についたころからである。有朋が城山に追い詰められている西郷隆盛に投降勧告状を送っているが、このときの起草者が福地であった。 「辱知生《じよくちせい》山県有朋頓首再拝、謹で書を西郷隆盛君の幕下に啓す。有朋が君と相識るや茲《ここ》に年あり。君の心事を知るや、又蓋し深し。曩《さき》に君の故山に帰養せしより、已《すで》に数年、其間|謦咳《けいがい》に接するを得ざりしと雖も、旧朋の情は、豈《あに》一日も有朋が懐に往来せざらんや。図らざりき、一旦|滄桑《そうそう》の変に遭際し、反て君と旗鼓の間に相見るに至らんとは。……」  の文章は当時人口に膾炙《かいしや》されたものである。 「おぬしはこれから用事があるか?」  有朋は福地に訊いた。 「いいえ、べつにございません。下谷に帰るばかりです」 「池《いけ》ノ端《はた》の御前」と呼ばれた福地は、七三に分けた頭を動かして豪快に笑った。酒が一滴も飲めない福地は好んで料亭に上り、芸者や役者を呼んで騒ぐのが好きだった。 「そんなら、ちいとわしの家で話そうか」 「閣下のご都合がよろしければお供します」  有朋には供の者が蹤《つ》いている。福地にも取巻きがいたが、両人はそれを悉く帰させた。二台の幌《ほろ》を掛けた人力車は、蜂須賀邸の玄関から強雨の浜町河岸を走り出した。しかるに、牛込あたりに来ると、雨が無く、このあたりは忘れたように地面が乾いている。驟雨は下町一帯を濡らして過ぎただけだった。  目白台の家に入ったのが十一時を過ぎていた。有朋は下婢を呼んで部屋の支度をさせ、福地を呼び入れた。有朋も福地も酒の代りに麦茶を喫《の》んで話し合った。夜の庭からくる風はなま暖かった。  有朋が出したのは、陸軍省の赤い罫紙に墨で叮嚀に書かれた十二、三枚ばかりの綴込みだった。 「遅くなってすまんが、これをまあ読んでみてくれ」 「かしこまりました」  福地はランプを近づけて文字を見ている。 「これは西先生のご筆蹟ですな?」 「そうだ」  西の文字は枯痩《こそう》した書体だ。  福地は静かに眼で追っている。ときどき紙をめくる音以外には、池から湧く蛙の声だけだった。 「なかなか見事な文章でございますな」  福地は読み終ったあとで、それを叮嚀に黒檀《こくたん》の机の端に戻した。 「さすがに西先生でございます」 「西は」  と有朋は煙管に刻み煙草を詰めながら言った。 「まだ第一稿だから、推敲《すいこう》したいと言うちょる。わしもまだこれでは満足がでけん」  有朋は、自分も草稿の文字に目をちらと向けて、 「そこで、おぬしに少し手を入れてもらいたい。……西の漢語はちいとばかり兵隊にはむつかしかろう」 「西先生の素養では止むを得ませぬな」 「うむ。だが、わしはこれを『軍人訓誡』からもっと決定的なものにしたいと思うちょる。おぬしは新聞で平民にも分るような文章を書き馴れちょるから、手を入れてくれたら、ちょうど兵隊に理解させるええ文句になると思う」 「はあ」 「実は、西がこれを書いてくれたのに半年ばかりかかっている。西としては珍しく工夫して推敲した上の文書じゃ。あの男は、わしの気に入るまでこれを何回書き直してもええと言うちょるから、おぬしの手が入れば、それによって書き直すじゃろう」 「それはよろしゅうございますが、西先生はわたくしの手が入るのをご承知でございますか?」 「それは、こちらから言ってあるから諒解済みだ。西も自分だけではなく、できるだけほかの人間にも読んでもらい、意見を取入れたいと言うちょる。それで、先日、井上毅《いのうえこわし》にもこれを見せて、彼の考えも聞いておいた」  井上毅は熊本藩士で、太政官大書記官であった。儒学、国学の教養が深く、文章に長じていて、岩倉具視、伊藤博文などに目をかけられていた人物である。彼も法令の起草者としては有能な官吏であった。 「それなら、よろしゅうございます」  福地は一諾した。 「この西先生の草稿は、二、三日拝借してよろしゅうございますか? これを別に写させてわたくしの工夫をつけたいと思います」 「そうしてくれ。言うまでもないが、これは極秘じゃからな、誰にも見せないようにしてほしい」 「よく心得ております」  それから二人の間に雑談がはじまった。  有朋は福地に、何か面白い話はないか、と訊いたが、福地は山県の知りたい話といえば人民運動のことしかないと心得ているので、主に外国の動静を語った。  それは福地自身の筆で「東京日日新聞」に書いている。 「首ヲ回《めぐら》シテ海外ヲ望メバ、亜細亜欧羅巴二洲ハ皆漫々タル妖気《ようき》ニ覆圧セラレテ殆ド泰平ノ観ヲ消滅スルニ近キガ如シ、就中《なかんずく》外国ノ帝室ニ凶事ヲ見ルノ多キ本年ノ如キハ莫《な》シ、一月ニ於テ伊太利皇|※[#「歹+且」、unicode6b82]《そ》シ、二月ニ羅馬法皇※[#「歹+且」、unicode6b82]シ、六月ニ日耳曼《ゲルマン》帝狙撃セラレ、八月ニ西班牙《スペイン》皇后※[#「歹+且」、unicode6b82]シタリ。……此時ニ際シ、残忍卑怯ナル暗殺ハ頻《しきり》ニ日耳曼、魯西亜ノ諸国ニ行ハレ、人心|恟々《きようきよう》、太《はなは》ダ其所ヲ安ゼズ、是レ即チ社会党虚無党ノ所為ニ出デ、其社会党論ハ欧ノ全洲ニ向テ其国安ヲ妨害スルヤ分明ナルヲ以テ、日耳曼ノ如キハ既ニ断然タル法律ヲ以テ其撲滅ニ着手スルニ至レリ、然レドモ此党禍ハ、十一年ノ終歳ニ於テ盛ニ蔓延ノ勢ヲ欧米ニ示シタレバ、俄ニ其撲滅ヲ見ルヲ得ザリシ也。……」  福地源一郎は、このような外国事情を新聞記者一流の弁舌で面白おかしく有朋に話して聞かせた。  有朋は痩せた顔を俯けて聞いていたが、口の端を曲げてひどく沈痛そうであった。  しばらくして有朋は福地に訊いた。 「先般、伊藤に会ったが、伊藤も今の民権思想にはえらく心配しちょる。板垣退助の議論は壮士や田舎地主に受けるくらいで何でもないが、今に緻密な議論家が現われるような気がする。伊藤はおぬしにそういう精密議論を抑える言論を張ってくれるよう頼んだと言うとったが、そりゃほんまか?」 「はあ、伊藤閣下からそんな話を聞いております」 「おぬしはやってくれるのかい?」 「そういうときはお役に立ちましょう」  福地は懐ろ手をしたまま言った。 「どんな言論家が出てくるか分りませんが、今のところは大した人物はいないようです。だが、おっしゃるように将来のことは分りませんから、それまでにわたくしもよく研究しておきます」 「ぜひ、そうしてくれ」  有朋は真剣な顔を崩さなかった。 「不埒《ふらち》な民権運動が軍隊の中に入り込んではまことに困惑する。わしはいま軍隊づくりに身命を賭しているからな。……外国のように虚無党が起って軍隊を抱き込み、累をわが皇室に及ぼすようなことがあっては一大事じゃ。そのためには兵隊たちに早う徳目の教育をせにゃならん」  西周が起草し、福地源一郎が筆を加え、井上毅が法律的字句を修正した「軍人勅諭」の草稿は、このようにして有朋のもとに提出された。      16 「我が日本帝国の軍兵は、神武天皇東征の初大伴、物部、大倭の三氏海陸の軍を司りしより今に二千五百有余年、其間世々の沿革固もとより屈指に暇あらず。古は親征ならざるも皇后皇太子代りて膺懲《ようちよう》の任に当り賜ひ、未曾《いまだかつ》て兵権を他に委し賜はざりしも、中古より他に模倣する所ありて、衛士《えじ》、防人《さきもり》の制立ち、流れて募兵の法となり、中古|恬熙《てんき》の流弊兵権遂に下に移り、其末全く武臣の手に落るに至り、従て政権をも挙《こぞ》りて其掌握に付するに至れり。是より而来動《じらいやや》もすれば反噬《はんぜい》の難を受け、歴代の 祖宗も殊に此が為に心を痛ましめ賜ひしも、時勢の注ぐ処既倒の狂瀾の如し。斯に我が 祖皇仁孝天皇、先皇孝明天皇の御宇《ぎよう》に当り、弘化、嘉永の間、幕府の政日に衰頽に就き、加ふるに外国との関係漸く開くを以てし、屡其凌侮を受くるに至り、惶《かしこ》くも 両先帝深く叡慮を悩ませ賜ひき。然るに人世の常なき 朕《ちん》が幼冲《ようちゆう》にも拘らず夙《つと》に 先帝の大喪に遭遇し 朕|親《みず》から手足を措くに所無きも、宗社の重き前後を顧るに遑《いとま》あらず、眇々《びようびよう》の身を以て此天津日嗣を奉承するに至り 朕実に惶悚《こうしよう》に堪へざりき。然るに天運の循《め》ぐる処世変の会する処、不経の典久しく存すること能はず、上天の保佑と宗社の寵霊とに藉《か》りて 朕大命に膺《あた》るの初、故《もと》征夷大将軍徳川慶喜順に帰し、政兵の大権を解きて之を奉還するに至り、尋《つ》きて所在の大小名も皆藩籍を奉還し兵権を解きて、全く一統の治に帰する五百年前の旧制に復するに至れり。是実に二三大臣の 朕を輔翼して此剛断を取らしめたる所なりとは雖《い》へども、畢竟《ひつきよう》海内民心漸く順逆を弁じ、大義に明かなるの致す所にして、我が 祖宗の千辛万苦して、王綱の振はざるを痛み賜ひし余烈に非るは莫《な》し。是 朕が夙夜《しゆくや》に 祖宗の遺烈を紹《つ》ぎ、其付託の効有らざらんことを恐れ、努めて旧章に復せんと孜々《しし》たる所にして、明治の初年海陸軍の皇張を謀りしより今に十三年、略《ほぼ》其綱領を定むることを得たり。夫《それ》兵馬の大権は行政の大権と相終始して、全く我が 皇統に繋属する所なれば、縦《たと》ひ相将に委任すること有るも、其大綱を総攬するは全く 朕が分内に在りて、子々孫々に至るまで永く此意を体し、広く中世の弊跡を鑑み、敢て或は失墜する事ある莫《なか》らんことを深く冀望《きぼう》する所なり。此故に国法上に於ては 朕吾が帝国日本海陸軍の大元帥として総《すべて》軍人の首領たれば、是が為に官職尊卑の別無く、推並《おしな》べて服従の義務を尽さしめん事を要するなり。然るに軍人命令の事に至りては、各其官階職分の有る所に従ひて、各自の主管各自の所司有りて、枝分派達し、毫毛も之を軽忽《けいこつ》にする事を許さざるは、総律法の通体にして、別に縷述するを要せずと雖へども、唯軍人一体に係はる精神に至りては、一々法度を以て律すべき者にあらず、然れども苟《いやしく》も精神具はらざれば、凡百の法度規則も畢竟徒法に属し、精良なる隊制器械も彼の傀儡《かいらい》に異なること莫らんとす。是 朕が深く軍人の精神心術の上に猶須要なりと思ふ所ありて、武弁たる者の風習に就て、一二訓諭する所有らんと欲す。上にも言ひし如く、兵権は我が 皇統に繋属する所にして、軍人は 朕が四肢股肱に同じく 朕をして能く我が元々《げんげん》を栄育保護し、以て上天命《しようてんのめい》に答し、宗社に報ずるの大任に当らしむる者は軍人より重きは莫し。是 朕が軍人に於ける一層|親摯《しんし》の意無きこと能はず。軍人たる者は亦此旨を体し、所謂軍人の精神なる者に於て、一層意を注し、果して能く 朕が嘉尚する所に副《か》なふ事有らば、正に百事更革の時に際するを以て、軍人一団の風習規模も依て以て立ち、我が帝国日本軍人の精神も之を後世に伝え、之を四方に播するも、永く光栄を保つの基礎たるに至るべし。是 朕が属望する所なり。因て其条々を開示訓諭する事左の如し。 一 軍人第一の精神は秩序を紊《みだ》ること無きを要す。凡そ軍人たる者は、上に 朕を戴きて首領となすより、下《しも》最下等の兵卒に至るまで、其間に官階等級ありて貴賤相隷属する所有るは勿論、同列同級の間にても亦停年に新旧有りて、新任の者は必旧任の者の指揮に従ふを法とす。然れば何事に依らず此意を体し、己が隷属する所に奉事して、其命令を敬承するは、直ちに 朕が命を奉ずると異なる無きを宗とし、縦《たと》ひ隷属する所ならざるも官階等級の上なる者には勿論、停年旧き者にも敬礼を尽し、又官階等級又は停年の新らしき者を待つには、公務上にて威厳を主とする時は格別、其平素に於ては成る丈親切に諭導して、|※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]略《そりやく》に流れざるを宗とす可し。此の如くして上下相和し、通体一致して国の王事に服役するこそ、総軍人が 朕に対する忠節なれ。縦《たと》ひ何様なる美事善行にても、軍人たる者が此秩序を紊りて、上に対しては敬礼を失ひ、事|抗戻《こうれい》に渉《わた》り、下を待つには傲慢にして人和を失ふに至りなば、軍人精神の蠧害《とがい》とや謂ふべき。 一 武徳の第一は胆勇なり。故に軍人たる者は平素より此心掛緊要たるべし。然れども古も暴虎馮河《ぼうこひようが》の戒ある如く、徒らに少年血気の勇にはやり、得ては※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]暴猛悍に流れ易き者なれば、能《よ》く々々心して剛毅沈勇を宗とし、又事を謀るには思慮周到にして、計画分明なるを要し、人の過悪に遇ふも、法の許す所までは勘弁に勘弁を加へ、手暴き挙動有るべからず。唯|懦弱《だじやく》卑怯の振舞は武弁の尤も忌《い》む所にて、別けて戦陣に臨む上からは、躊躇|※[#「走+次」、unicode8d91]※[#「走+且」、unicode8d84]《ししよ》の患無き様其心掛専一たるべし。是畢竟平素より胆力の練と不練との上に在る事にして、一朝の発意にて成る事にあらず。大体平生温良敦厚なる人は、大事に臨みて動かず、却りて果敢なる者なれど、平常殊に勇猛を売り、血気に募る輩《やから》は、大事に臨み却りて臆する事多し。此等の所銘々宜しく平昔《へいせき》の心得に在るべし。且又|武夫《もののふ》は勇気を以て職業とする者なるほどに、平生人に接するには、却りて仁愛慈恵を宗とし、世人の愛敬を受くるを要すべし。観よ世に力士と言ふ者有り、此輩は平生良易なる者なれば、世俗の憐を博するものなれど、若此輩をして其力に応ずる勇悍を常とせしめば、誰かは之を愛せん。況《ま》して武弁は凶器を以て身を堅め、威厳を以て常習となす者なるをや。其人に接するも猛烈を以てせば、争《いか》で世の人に之を虎狼視せられざらんやは。 一 質直勤倹なるは、武人の常習、質直を尚びざれば文弱に流れ、其弊や浮靡《ふび》軽薄に陥り勤倹を尚びざれば、驕奢に荒《す》さみ、其弊や貧汗にして廉恥を傷《そこ》なふに至り、或は惰慢にして邪僻に路するに至る。凡此数種の弊習は執る所の風尚其宜しきを失ふより、竟《つい》に敗徳失行身の|病※[#「病だれ<莫」、unicode763c]《びようばく》となる。一たび此等の失敗を取り、此等の名聞《みようもん》を得れば、世目の指摘する所となり、世論の容れざる所となりて、人も歯するを恥づるに至れば、其身生涯の不幸たるは言ふまでも無く、一たび斯る風習士林に発生するに及びては、かの伝染病毒の俄かに蔓延するが如く、一世の士風兵気因て以て衰弱するに至るの萌芽なり。是を以て 朕深く之を悪《にく》むこと蛇蝎《だかつ》だも若《し》かず。曩者免黜《さきにめんちゆつ》条例の施行有りと雖へども、風習の漸漫を防ぐは一にして足らず。故に復茲《またここ》に及ぶなり。汝等軍人は深く此意を体し、努《ゆ》め々々斯る弊風をして士林を煽《あお》がしむること勿れ。 一 人として信義を守るは軍民の別無く人たるの常道なり。別して軍人は隊伍の中に生活するものなれば、信義を失なひては一日も立ち難きは言ふまでも無き事なり。然しながら信とは前言を践《ふ》むの謂《いい》、義とは後務を尽すの謂にして、皆始に言の約定が事の関係ありと知るべし、されば信義を立てんと思はゞ、諸《これ》を其始に審《つまびら》かにすること緊要たり。苟《いやしく》も苟且《こうしよ》に然諾をなし、謾《みだり》に関係を結びて後に必信義を貫かんとせば、羝羊藩《ていようまがき》に触るゝの誨有るべし、故に始に事の順逆を審かにし、其言|践《ふ》むべからずと知り、其義守るべからずと思はば、速かに思ひ止まるの勝れるには若かざるぞかし。古今大綱の順逆に暗くして小節の信義を立てんとし、或《ある》は徒を結び党を立て、或は政道の是非、王統の争論、果ては家々の争などに与《くみ》し、近日は又主義の論党などもある如く、あたら惜むべき人も始に順逆を弁ぜざるより大なる禍害に遭ひて、名も身も共に朽ち果つるに至りし者は屈指にも暇あらず。憫然《びんぜん》と言ふも余あり。汝等能く々々始の思慮を忽《ゆるがせ》にすべからず」  この勅諭稿の眼目は、第一に絶対制秩序、絶対服従を強調したものであった。しかし、未だ「軍人の忠節」は現われていない。      17  この頃、山県の邸にくる人間は、主として参謀本部管西局長中佐桂太郎と品川弥二郎とであった。  役所では多忙で話ができないので、桂は夜くることが多い。主に軍制改革の点だった。すでに先年ヨーロッパから帰朝して以来、彼は熱心なドイツ兵制摂取主義者であった。  それまでの陸軍は、幕末以来フランス式を応用していた。むしろ、幕府のフランス式を大村益次郎が安易に引き継いで採用していたと言ったほうが近いかもしれない。明治五年に政府の要請で、フランス士官十六名が日本に来て、フランス式操典の伝習をはじめた。天皇が彼らに会って「わが陸軍をしてますます盛大に到らしめんことを望む」と頼んだぐらい政府の期待は大きかった。陸軍の官制兵学もすべてフランス式となり、調練も全く直訳的で、号令もフランス語を用いた。  また、徴兵制度を施行したときもフランス兵制心酔者だった蘇我祐準は、その服従年限について世界各国に異同があるが、概して三年から五年ぐらいであって、諸兵種共に三年をもって熟練させることはさほどむずかしくないから、その最も短いフランスのものを採るべきであると言い、軍費には限りがあるから濫《みだ》りに兵員を多くしてはならないとも言っている。つまり、軍隊兵員を国家予算との均衡の上に立たせようとしているところにフランス式の面目があった。このフランス流将校たちは、折からドイツ式に変改しようとしている山県、桂の線に反感をもっている。  一体、フランス式を日本軍隊の軌範とした段階では、日本の軍隊規律も比較的自由な空気を持ち得ていた。「上下の秩序」は軍隊組織内では不可欠であるが、さすがにフランスの人道主義の傾向は、上級者が下級者に命令を伝えるときでも下級者の人間性を尊重している。「軍人訓誡」後に見られるような奴隷的上下関係から較べると、かなり自由主義的な雰囲気をもっていた。  ──このことが竹橋騒動の誘因の一つになっている、と山県に考えさせるに至ったのだ。  桂は明治八年に軍制研究のためドイツに赴いたが、ベルリンの公使館には公使として青木周蔵《あおきしゆうぞう》が|駐箚《ちゆうさつ》していた。このときの留学生に品川弥二郎、橋本綱常《はしもとつなつね》、平田東助《ひらたとうすけ》などがいた。  彼は専ら軍事行政の研究に力を注いだが、研究の結果を本国政府に報告するのに、いろいろと考えた結果、もし、いちいちのことを詳細に報告するとかえって軍首脳部に混乱を起す惧れがあるとして、まず第一に、ドイツの軍事行政を簡略に説明して報告した。日本の陸軍において軍事行政と軍令との区別がまだはっきりしていないので、大体の区画を明らかにする必要があったからだ。即ち、ドイツの軍事行政、中央機関、監督部の組織を重点に報告したが、これが去年創設されたばかりの陸軍省、参謀本部、監軍本部の三権分立となって具体化したのである。  桂がベルリンにあるときは、当時の宰相だったビスマルクにたびたび招かれてその宴席に顔を合わせたが、実際には話を交したことはなかった。しかし、桂が最も影響を受けたのは参謀総長モルトケで、モルトケは今の日本はドイツの敵であり得ないという見地から、自分の考えていることをほとんど桂に話し、副官に命じていろいろの便宜を図らせた。桂はモルトケの弟子だと自任していた。  明治十年に西南役を知った桂は有朋に手紙を出して、熊本城の囲みもまだ解けないようだが、この際、自分は帰朝すべきか、また留まって研究すべきか、という指示を乞うた。  この書信は西南役が落着したのちに到着したので、有朋はすぐに電信で「帰朝に及ばず」と指令を出した。桂の在欧は前後二回、七年余に亘ったのである。彼は西南役後には「政治上の変動はむろんのこと、軍事上でも必要上大改革」があるだろうと期待し、その際に帰国すれば、実地と学理とを応用して完全な改革を遂げ、将来陸軍の整頓を図る時期となるから、それまでは帰らないほうがいいと考えていた。桂が日本に帰ったのは大久保利通が暗殺されたからで、恰度《ちようど》、欧州巡遊中だった井上馨とパリで遇い、マルセーユで同船したのである。  参謀本部設置説は、もともと西南戦役の経験で参謀事務の不完全を有朋以下が痛感したからだ。けれども、どのような組織をもって参謀強化を建設するかの研究を遂げて具体案を立てる者はなかった。それをドイツの兵制に倣って組織化したのが桂で、その意見を全面的に受容れたのが有朋だった。  参謀本部が出来ると桂は管西局長になった。管西局は、名古屋、大阪、広島、熊本四鎮台の参謀部と通報し、もっぱら、第三、第四、第五、第六軍管の地理政誌を詳らかにし、且つ兼ねては朝鮮より清国沿海に及ぼし、ともに有事の日においてその参画の図略に備う、と規定した。重要なのは、この「且つ兼ねては朝鮮……」以下であって、有朋の新軍部は、不平右翼士族の西郷隆盛以下、前原一誠《まえばらいつせい》、江藤新平を切り捨てた直後に、眼を朝鮮、清国に回転させたのである。そこにフランス、イギリス、アメリカに圧迫された日本軍部が「隣邦」に侵略すべき弱い土を見出した意義がある。  桂は軍制をフランス式からドイツ式の制度に変えた理由として、 「フランスよりはドイツの調子が全く日本の国民性に適っている点が多い。これでやれば、つまり、日本の国民性の上に立った陸軍制が出来ます」  と有朋に進言した。ドイツ式が日本の「国民性」に適っているという考え方は、農民より徴募した日本の兵卒には絶対服従制が最適だと考えた山県の意見に一致する。  百姓の子を兵隊にするという案は、山県|狂介《きようすけ》の奇兵隊時代の経験がかなりものを言っているが、西郷隆盛などは百姓の子では戦闘の用に立たないと初めから反対であった。西郷の遅れた意識は西南役に立てた作戦用兵の拙劣さと共にここでも見られるが、有朋のこの考えにも多少の齟齬《そご》はあった。西南戦争中に百姓兵の敗走があったり、脱落が生じたりした。山県は、ここに「烏合の衆」を戦闘的な兵隊に組織するには訓練と教育のほかはないと痛感するのだった。  殊に徴兵令によって全国の農民の子が集った。この頼りない軍隊をどのようにして軍人らしい軍隊に仕上げてゆこうかとする方法には、各個人の知能、教養、身分に拘らず、すべてを単一化した人格にする以外にはない。  幸いなことに、壮丁の多くは虐げられた農民の子であった。士族出の兵隊だと旧幕藩から支給されていた禄高、門地、身分があるが、百姓の子はそれら武士階級に圧迫されてきたものばかりで、互いの間に差別観念がなかった。いわば、ほとんどが同類意識である。徴兵令による近代軍隊の育成は農村出身の壮丁が大多数であったことであり、長い間虐げられてきた彼らの順応性が桂の考えたように「日本の国民性」に適っている点になるのである。  しかし、軍隊の恰好は出来たが、その背後の動揺は岩倉、大久保などの「為政者」の眼に蔽うべくもなかった。さきに地租改正をやって、全国農民から地価の百分の三の徴税をした。旧幕藩時代は物納だったが、このときになって初めて金納に変えた。明治新政府の財政基礎がこれらの地租によって賄われてきたのは勿論だが、しかし、一般の士族や商人は幕府時代そのままに徴税から免れていた。のみならず、地価の百分の三は旧幕時代と変らない過大な収奪であった。明治五年以来十年に至るまでの各地の百姓一揆は、このことへの不平の勃発である。徴兵令は、その不平農民の子弟を家庭から奪い取ることによって暴動抑制の予備的手段の一部に偶然にもなったといっていい。  しかし、この矛盾は「一介の武弁」にすぎない有朋にも、近ごろになって、そのことから起る脅威を感じないわけにはいかなかった。つまり、農村から採った兵卒が、今度は逆に出身地農村の不安を反映して軍隊内に不平勃発の因子を孕《はら》まさないとも限らないのである。軍隊の組織自体が労働者的な共同体になっているのである。  有朋の心配は早くも竹橋騒動で見られた。この兵隊は士族の子弟が多かったが、それでも給料の値下げと西南戦役の恩賞の遅延に不平を抱き、他愛なく叛乱を起したではないか。しかも、世界各国の軍隊叛乱に見られるように、当時の日本として最優秀兵器である大砲を使用した。  有朋がこの事件で最も心痛したのは、この騒動が各地の連隊に波及する惧《おそ》れのあることだった。しかし、それは仕合せにも彼らに横の連絡がなかったために防ぎ得た。  軍隊における横の連絡を有朋は恐れるようになる。敵に対して作戦、戦闘中は「協同」を説くが、平時にあっては集団としての兵卒間の接触をなるべく遮断しようとする。師団、連隊、大隊、中隊、小隊、班は戦闘単位における縦の構成であるが、それぞれの横の相互間の交歓はない。むしろ、班同士、中隊同士にはそれぞれ競争意識、対抗意識を与えて孤立せしめようとしている。これが連隊、師団にまで拡大される。全国の要地に配備されている師団は外敵への邀撃《ようげき》態勢であるが、同時に、その環の中の一師団が叛乱を起した場合、周辺の師団が包囲して、掃滅する仕掛けにもなっている。      18  十二年の秋から十三年にかけて、管西局長桂太郎は秘かに支那に行き、北清地方を視察して帰った。それは参謀本部諸般の軍務が一応整理された直後であった。このとき、支那の兵備地理研究のためと称して将校十数名を支那に派遣したが、また支那語研究生の名前でも出した。その主任に管西局員少佐小川又次を当てた。  桂は参謀本部長山県有朋に上申して書いている。 「清国以西隣邦の兵備を審かにし、且地理政誌を考覈《こうかく》して、参謀本部長閣下、用兵の図略に供するは、管西局長の主任なり。本部設立日浅く、故に悉く其の詳細を尽すに至らす。然りと雖も、清国の如きは、我か一大隣邦にして、締交以来、彼我人民の往復、年月に盛大をなし、其関係も亦従て広大なり。是を以て兵略上の事、亦自ら細密に渉らさる可からす。故に去明治十二年中、兵備地理を探偵し、政誌を詳かにせんか為め、将校を該国へ派遣すへきの意見を上申し、御採納ありて、昨年中十有余名を派出せられたり。……然るに小官昨年出張の際、旅行日数の僅少なると、該国に対し嫌疑を生し、後日の為め、大に其の目的の睾害《こうがい》を来さゝらんことを恐れて、残し置く所の要点を探偵し、併て派出将校並語学生徒の、勤惰を監査せしめんか為め、本年三月局員少佐小川又次を、該国に派出す。同官帰朝の日報する所のもの、小官の探知する所のもの、並に該地派出将校、実地に就きて製する所の地図、及報告と合して、聊《いささ》か其必要を認むるか故に、今別冊遠征の謀略地図、並に卑見を併て、閣下の御参考に供す」  この陸軍の清国探偵には、時の北京駐箚公使|宍戸[#「王+幾」、unicode74a3]《ししどたまき》が全面的に応援した。これがのちに一書の体裁をなして「隣邦兵備略」と名づけられたものである。  つまり、ドイツの兵制に倣って清国を仮想敵国としたのである。  これで見られるように、この頃からしきりと支那へ陸軍士官が「探偵のため」に潜入するようになり、これが軍の意を受けた民間人を密偵として潜り込ませるようになる。いわゆる大陸浪人はこのあたりから生れた。  朝鮮もまた支那以上に重大な地点である。征韓論は西郷隆盛に代表される不平右翼士族の忿懣《ふんまん》の吐け口だったが、それを制止した内治派が決して朝鮮の侵略を思い止まったのではなかったことは、あとの対韓政策でも分る。  すでに明治八年、つまり、征韓論事件から二年後に日本の海軍は朝鮮近海を測量し、江華島に入ろうとして砲撃されると、直ちに上陸して砲台を壊し、兵器を奪って帰った。翌年二月、黒田清隆《くろだきよたか》、井上馨は軍艦に乗って渡韓し、強引に開国を迫り、修交条約を結ばせて京城に公使館を置いた。  一方、清国に対しても台湾征伐でその実力を小手調べしている。日本の琉球の人民五十余名が台湾の蕃族に殺されたことを抗議したのに対し、清国は台湾は化外《かがい》の民であると突っぱねたため出兵したのである。各国が、この事件から日清の間に戦争が起り、自分たちの東洋貿易に影響することを惧れたことと、さらに台湾領有による日本の発展を危《あやぶ》んで国際法違反の名で中止を勧め、艦船の貸与を拒んだ。しかし、これを押切って、しかも国内にかなりの反対意見があるのを無視して台湾征伐を敢行したのは、西郷の弟|従道《つぐみち》である。動機は不平士族派対策だったのが、結果的には外征に国民の眼を向けさせたことと、大久保利通が日本軍の撤退を条件に清国から償金五十万|両《テール》を取って帰ったこととで一応の成功に終った。このときはイギリス公使の仲介があったとはいえ、有朋は清国の実力の底を見た思いだった。  欧米列強から圧迫されていた日本は、ここに隣邦の弱小国を征略することによって欧米と対等の地位に立とうとする。つまり、先進国の圧迫を正面から撥ね返すのではなく、弱い国を侵略することで一方を緩和させようとしたのであった。ここにいわゆる支那浪人派と韓国密偵派の生れてくる意義があった。  竹橋騒動のとき王子村に行軍していた岡本柳之助少佐は、その後の判決で精神異常の故をもって無罪となった。しかし、彼は終身公職に就くことを禁ぜられた。  岡本の挙動は当時からいろいろと臆測されたのだが、初めこの暴動に荷担していながら、途中の形勢で勃発の直前身を避けたのが真相である。岡本は紀州藩士で、長閥で固められた陸軍首脳部に不平を持っていた。彼は同じく紀州藩の陸奥宗光とよかった。その陸奥は土佐派の林有造、大江卓などの陰謀事件に連座して八重洲《やえす》河岸の監獄に繋がれた。だから、彼は獄窓から竹橋騒動の砲声を聞いていた。  狂人を装って無罪を得た岡本は、釈放されると、忽ち正気になって東京の街を徘徊《はいかい》していた。その後、神田あたりで英仏学術塾の看板を掲げたりなどした。この岡本が支那派とは別に朝鮮派の謀略浪人になったのである。  有朋は桂の報告で清国に入れた武官からの事情をつとめて聞くようにした。桂は北京からきた宍戸公使の自分宛の書状を見せたりした。  有朋はランプの芯を掻き立てて、その文句に見入る。 「今般陸軍生徒十三人が俄かに天津より入京、島中尉も大いに心配をして漸く借家を見つけ、それぞれ一応落着きました。右については、去年御来臨の節、いずれ人数差出すとのお噂はありましたが、生徒でも差向けられましたら、その都度都度、当公使へ本部長または陸軍卿の添書を差出されるようにお願いいたします。それでなければ誰が名を騙《かた》って来るかも分らず、当館でも世話がいたしかねます。以来は必ず必ず右のようにお取計らいを願いとう存じます。  さて、また右の生徒多数来ましては、本部より出張人員中で誰か取締をする者がなければ、めいめいの存じ寄りで統一がいたしかねるのみならず、勤惰の観察も行届きかねますので、一人は取締をお申付けられとう存じます。ついては、ご承知の人物島中尉は随分しっかりした人で、彼にお申付けなされたならば、きっと然るべきようになると存じます。  なにぶん諸藩より東京そのほかへ遊学に出る場合とは違い、近くても外国のことですから、右はきっとご注意なされとう存じます。万一若年の生徒が失策すれば厄害少からず存ぜられますから、これまたきっと申上げておきます」  書面はこれだけでなく、公使館付武官からも頻繁と機密通報が有朋宛に寄こされた。  こうして有朋は朝鮮と清国との内情に眼を向け、「一朝有事の際」に役立てるため、その国の戦略地誌を着々と作成させた。桂自身も十二年末から清国に渡ったが、彼の行動は忽ち清国官辺の疑惑を受けて早々に帰国している。日本の参謀本部首脳だから、これは目立つのが当然で、従って主として若い士官や民間探偵の蒐集する情報に頼ることになった。あとでは士官がかえって軍籍から離れて密偵の任務に専任するようにもなる。  有朋は、このように軍制の改革と並行して、清国からの情報を基礎に仮想敵国への作戦体系の準備にかかりきっていた。  この間、彼が毎朝早朝に起きて庭に飛び降り、槍を使う日課に変りはなかった。彼の繰出す槍の穂先は、これから一体どこへ向けられていくのであろうか。  この頃、彼のもとに出入りしていた内務省出仕の武井守正が来て、先日大阪に潜入させた密偵津丸藤兵衛という者が帰ってからの報告を取次いだ。 「やはり時世の違いで、藤兵衛の探偵では民権論者の運動には歯が立たないようでございます」  と、その逐一を報告した。 「ただ、藤兵衛がひどく感心した人物がございます。まだ若い人ですが」 「誰だ?」 「大浦兼武《おおうらかねたけ》という名前でございます。ただいま大阪におりますが、藤兵衛が申しますには、この人物は必ずのちに役に立つ方だと申していました」 「そうか。その者がどうしてそんなことを言うのか?」 「大阪は昔から兇徒が多うございますが、これが前からの因縁で警察の探偵と通謀しているため犯罪の検挙が容易に出来ず、府民が困り果てておりました。大浦は、これでは容易に治安がおさまらないと思って、こっそり京都にいる侠客|会津《あいづ》の小鉄《こてつ》に頼んで、彼の子分の博徒共からそのつき合っている兇漢の名前を逐一書かせ、さらにその罪状をも探らせて密告させました。大浦は小鉄の申告にもとづいて、或る日、夜明けの五時を期して各警察署長を召集し、一度に八百人の兇徒を逮捕しましたが、さすがに小鉄の密告だけに、その大部分は審理の結果有罪となって、重い者は十年の禁錮に処せられたそうです。ところが、大浦は、このことをただ二、三の警察本部員のみに知らせただけで、ほかには絶対秘密にしたとのことです。従来、警察と悪漢共の腐れ縁で検挙が失敗していたのを、この秘密主義で立派にその掃蕩に成功したといいます。藤兵衛は民権運動員の探索にはしっぽを巻いて帰りましたが、大浦のことはベタ賞めに賞めておりました」  有朋は、そのあとで来た品川弥二郎に大浦の名前を出して訊いてみたが、 「知りませんね。大浦というのはどこの旧藩士ですか」  と弥二郎は冷淡だった。      19  板垣退助は、明治十二年十一月に第三回愛国社大会を開いた。  板垣らは先に民選議員建白を出していた。ところが、このころになって、元老院の国憲取調委員会で起草した憲法草案は岩倉の気に入らず、岩倉は委員たちの再調査を待たずに、勅命をもって各参議に欽定憲法に関する意見を上書させることになった。これは井上毅の進言によったもので、井上は前に処刑された司法卿江藤新平の推輓《すいばん》を受け、当時は法律学者で、地方官会議御用係をつとめていた。  板垣退助はこの情勢を知って、政府の機先を制するため、民間からの運動で国会開設の急務を天皇に上書しようと考え、これを協議するために集ったのが大阪の第三回愛国社大会である。  これには全国各地から代表者が参集したが、会議は十一月七日から開かれ、まず、土佐立志社代表から国会開設を天皇に請願する件を提出した。明治七年の民選議院設立の要求の際は「建白」という語を用いたが、「建白」では単に自己の意見を述べるということにすぎないので、このとき「請願」という語に改めた。  会議は、請願書提出の方法に関する討議に入って紛糾した。民間の攻撃に抵抗する力が政府に微弱だと見た各政治団体は、国会開設の功を土佐人の独り占めにさせるのを嫌い、この理由から、請願書を愛国社の名義で提出しようという立志社の説に反対し、各地の政治結社から個々別々に提出すべしという反対論が出た。  結局、激論の末、各政社の所属有志が個別連署ののちにこれを愛国社でとりまとめ、総代を選んで天皇に奉呈するということに決定した。全国を九地域に分け、各地域内の政社は遊説員を出して同志獲得に協力すべきこと、別に愛国社本部遊説員を挙げて、明十三年三月を期して請願書を提出することになった。  ところが、福岡共愛会は、これに先立って明治十三年一月国会開設に関する請願書を元老院に提出し、また岡山からも数名の有志が国会開設請願書を作って、これも、一月元老院に提出した。しかし、元老院では「建白」を受理するという規定はあるが、「請願」という文字はないというので、この両請願書とも受理しなかった。  だが、このような情勢から全国各地に俄かに政社が起って国会開設の議論が沸騰したので、政府は十三年四月に集会条例を作って発布した。十三年四月五日付の太政官布告第十二号というものである。  これによれば、「政治ニ関スル事項ヲ講談論議スル為メ公衆ヲ集ムル者ハ開会三日前ニ講談論議ノ事項講談論議スル人ノ姓名住所会同ノ場所年月日ヲ詳記シ其会主又ハ会長幹事等ヨリ管轄警察署ニ届出テ其認可ヲ受クヘシ」という第一条と、「管轄警察署ハ(中略)国安ニ妨害アリト認ムルトキハ之ヲ認可セサルヘシ」という第四条と、「派出ノ警察官ハ(中略)公衆ノ安寧ニ妨害アリト認ムルトキ(中略)解散セシムヘシ」という第六条とが骨子となり、以上の諸規定に背くときは、「二円以上二十円以下ノ罰金若クハ十一日以上三月以下ノ禁獄ニ処ス」という罰則から成っている。内閣書記官|渡辺洪基《わたなべこうき》の起草である。  しかし、愛国社は第三回大会の決議に基づいて国会開設の請願を実行するために、明治十三年三月第四回大会を再び大阪で開いた。このときは、二府二十二県の二十七社の代表百十余名が出席した。さらに、この運動団体を「国会期成同盟」と称することに決したが、議長、副議長を土佐立志社で独占したことに不平を鳴らす者があり、国会開設要求運動は依然として愛国社の名を用いずに全国各政社の連名とした。  四月十七日、国会開設請願書奉呈委員|片岡健吉《かたおかけんきち》、河野広中《こうのひろなか》の両人は、八万七千余人の総代九十七名の署名による請願書を携えて、天皇に奉呈すると称して上京した。 「……陛下、国家のために国会を開設するを允可《いんか》して、以て臣等が願に副えよ。若し夫れ之を開設するの方法制度に至っては、希くばこれを開設するの允可を得るに随って適当の代人を出し、陛下と共に協議して之を定めん。然れども、陛下、臣等が考按を聴かんと為さば、臣等もとより書して、以て之を陳《の》べん。陛下、乞う早く允可を示せよ」  というのが「国会を開設するの允可を上願する書」の結びの語である。この文章を読むと、人民が天皇に「要求する」の語気を示している。土佐の理論的指導者|植木枝盛《うえきえもり》の起草であろうか。植木は先に「国会開設ノ願望致スニ付四方ノ衆人ニ告グルノ書」の檄文《げきぶん》も書いている。  片岡健吉、河野広中らがこの請願書を太政官に提出したところ、太政官では立法に関する上書は元老院に提出せよと言ったので、元老院に出すと、元老院では「建白」のほか一切受理するわけにはいかないと撥ねつけた。その顛末は片岡、河野が自ら報告している。  即ち、片岡らが太政官に出頭して太政大臣に面謁を頼むと、内閣書記官谷森某が出てきて、その請願書を持って奧へ引込んで一時間ばかり待たせた。そのあとで同書記官が出てきて、これは内閣において受理すべき書面ではない、指図するわけではないが、立法に関する書面は元老院に出したほうがよかろうと思う、と言った。  片岡らが、建白書ならもとよりその通りだが、これは建白書でなく、国会を開設する允可を天皇陛下に願望する書であるから、大臣において執奏すべきものである、と言うと、書記官は、大臣はすでにこれを閲覧したことであるから、願望書であることはもとより承知の上での拒絶である、と答えた。片岡らは、元老院では願望書を受理しないという成規がない、従ってこの願望書をいずれから出しても不可という法はあるまい、と論争してこの日は帰った。  翌日また出向いたが、同じ書記官が出て問答を交した。結局、書記官は法規を楯に取って取次がなかった。それでも懲りずに片岡たちは元老院に足を運んだ。結局、最後の問答は、建白書なら元老院で受理すべき成規はあるが、このような書面は太政大臣の執奏すべきものではない、と書記官が言い、片岡らはこれに対して、しからば、願書の体裁上に不都合があって受理出来ないのかと問うと、書記官は否と答えた。しからば、人民たる者は政体に関する事柄を建白するの権利はあるが、これを天皇に願望するの権利なき理由で受理出来ないと理解してよいかと問うと、書記官は、その通りと答えた。その理由を聞きたい、と詰めると、書記官は黙して答えなかった。  片岡らは以上の経緯を報告書に詳しく述べたあと、「是において拙者等は書記官に向い、しからば、これを大臣に伺うも直ちに御明解あらざるを信ずるを以て敢て諮問せざるなり、と謂《い》いて太政官を去れり。拙者等|謂《おも》えらく、是に至って願望書奉呈の途は絶えたり」と結んでいる。しかし、国会開設を要求する声は全国に拡がり、国会期成同盟大会には九万人近い人民の代表が結集された。神奈川県だけでも五百五十町村二万三千五百人の総代による国会開設の建言がなされた。越後、佐渡両国の国会開設願望者が出京したり、また、石見、下総、筑前、羽後、甲斐などの総代も続々と東京に出た。讃岐では国会開設決死懇願隊編成が噂されたほどである。  このような状態は、すでに転落した不平士族からの声だけでなく、広く全国の農民層に行きわたった運動であった。それは西南戦争後のインフレによる米価の高騰によって地主が潤い、その余力が政治意識を高揚させたことと、また貧農のほうは、米価の騰貴で困窮したために現政府を批判する気持から国会開設運動に向わせたのであった。  米価の高騰は天保飢饉以来の米値段再現であると新聞は言い、東京の細民は飢餓に瀕し、田舎に親戚のある者は女子供を移し、近ごろは丼飯屋が米価高のために開店できず、蕎麦粉が米の代りに大繁昌だと報じた。また紙幣の下落はつづく一方で、十円の紙幣は七円二十四銭の価値しかなく、一円の紙幣は七十二銭四厘であった。物価の諸騰りはつづくばかりである。これも国民が国会をもたないからだ、という議論も出てくる有様だった。 「今や紙幣下落の一点より論ずるも、我が政府は必ず参政権を人民に与ふべきを知る。今や貧者は殆ど其生命を繋ぐの方術なきに至れり。請ふ試みに此物価騰貴は果して真の物価騰貴なるや否やを細考せよ。是れ必ず物価の騰貴せしに非ずして紙幣の下落せし者たるを知了するに難からざらん。若し欧洲邦国の一にして此くの如き事件を生ずるに於ては、其の人民は必ず囂々《ごうごう》として有司の処置其宜きを得ざるを詰責し、公論の勢力に由つて忽ち有司の交迭を生ずるは火を観るが如しと雖も、我邦の政体及び政治上の習慣に於ては、幸に其事有るを免る。此時に当り国民過半国会を設立して参政権を頒《わか》ち、殊に一国の重要事件たる財政をも与《あずか》り聞かんと熱望するに於ては、有司たる者|如何《いか》んぞ之を嘉納せざるを得んや。紙幣下落の一点より論ずるも、我が政府は必ず参政権を人民に与ふべきを知る」(朝野新聞)  各地から国会開設請願のため東京に来る者は跡を絶たない。だが、いずれも願望書を元老院で却下されるので、ただ漫然と東京の宿に逗留する状態であった。信州の奨匡社の代表は太政官に出頭したが、国会開設願望の件は一切取合わぬとて門内にも入れないため、元老院議長の有栖川宮《ありすがわのみや》邸に行き、面会を申込む始末だった。また新潟県の総代も、元老院へ建白して三十日を待ってその開設着手の模様が見えなかったなら、太政官へ出頭して、国会の設立の見込みがあるまで、たとえ何年がかりになっても新手を入替えて嘆願する態勢をとった。しかし、たいていは、在京中の請願者は受理の見込みがないので、滞京の人員を一名と決め、宿を引揚げるような結果にならざるを得なかった。 「国会開設の請願は全く太政官にて拒絶せられ、門内へすら入るを許されざる程なれば、孰《いず》れも大失望にて、山梨県の総代も一人は府下に留まり、一人は同志に協議するため帰県する由。新潟県の有志者は概ね平民にて、士族は三分の一に過ぎず、一同奮発して目的を達せざれば熄《や》まざるの意気込みなりと。政府要路者には何んとして平民が国会の事を知りしやと云ふ様なる口吻ありしが、今日府県会議員等も士族は至つて少く、財産も知識も併有するものは多く平民にあり、国会の冀望《きぼう》を以て不平士族の唱道に出づる等と思惟するは恐らく時勢遅れの考へならんか」  しかし、国会開設の願望は離島の隠岐にも起り、三千三百人の賛成者から代表を択んで東京に送り、北海道からも総代が大挙して出京してくる始末だった。      20  山県有朋は毎日の新聞は必ず朝、家で読んだ。六畳の居間で読むこともあれば、四畳半の茶室に坐って茶を喫しながら読むこともある。椿山荘《ちんざんそう》はほかに八畳の座敷があったが、これは来客のときだけにしか使わない。玄関、勝手のほか婢僕の寝る部屋を加えても六、七室しかなかった。  朝は冬でも七時ごろに起きて必ず槍を使う。そのあと軽い朝飯を摂った。パンを好んで、牛乳一合とコーヒーとに変ったのは後年のことである。役所に出勤する前に来客があれば、できるだけ会うようにした。その殆どが軍人関係だったが、なかには品川弥二郎のように内務官僚も顔をのぞかせた。有朋は自由民権運動で新聞にも載らない情勢を彼らから熱心に聞いた。会話中、彼は殆ど沈黙し、滅多にこちらから発言しないが、要領を得ないことは何度でも訊き返した。  政府では、民権運動の盛んな土佐を初め各地に密偵を入れている。大阪の愛国社大会などは、誰がどのような発言をしたかは、密偵の報告で、悉く内容が入手されていた。有朋は黙って聞いているが、興味のある話だと、相槌を打たないで、その長く尖った顎をうなずかせる。 「この前の新聞に、こねえなことが出ちょったが」  有朋は切抜きを机の抽斗《ひきだし》から出して見せる。それは政府の密偵政策を非難した東京日日新聞の記事だった。政府でもその害を認めて、全国に放っている三十数人の密偵を全部東京に引揚げさせる、とあった。 「一応、こう書かせて、民権論者と世間を油断させているのでございます」と内閣出仕の別な男は笑った。「密偵はまだまだ数が足りません。最近は、月給を与えて、用のあるときは特別の日当をやっていますが、今のように民権論者が何をしでかすか分らないときは、その方策をかえって強めねばなりません」  政府の密偵政策は、このころからいよいよ露骨となった。民権論者を看ること謀反人の如くであった。大阪に行った植木枝盛も、「日々出行すれば密偵の者必ずつけ来り、遠近をも問はず、昼夜を択ばず、始終つけ来りて、湯屋に行くも、髪結に行くも、しばらくも離るることなし」(日記)というありさまだった。これが植木一人でないことは勿論である。  有朋はべつに意見を言わなかったが、満足げな顔だった。  暑い八月十八日の朝だった。有朋が参謀本部の部長室に入って汗を拭っていると、副官が来て、東京鎮台参謀長|岡沢《おかざわ》大佐が至急にお目にかかりたいと言って来ていることを告げた。  帽子を脱いだ岡沢参謀長の頭は水を掛けたように汗で濡れていた。それが暑さだけでないことは、大佐の奇妙に狼狽《ろうばい》している表情で分った。 「実は、部下に大失策をやらかした者が出て参りましたので、御報告にあがりました」  有朋は、何だ、と訊いた。 「はあ、今朝の五時ごろのことでございます。赤坂仮皇居表御門の前で、一人の軍人が白鞘《しらさや》一尺余りの短刀で割腹して仆《たお》れているのを警察官が認め、電報で区医を呼び寄せ、手当てをいたしましたところ、ようやく人心地がつきましたので、陸軍本病院へ送りました」 「赤坂仮皇居に?」有朋は細い眼を光らせた。「どうしたのだ?」 「はあ。まず、その者の身分から申しますと、東京鎮台第一連隊第二大隊第一中隊の伍長で、小原弥惣八《おばらやそはち》という者ですが、宮内卿宛の封書を所持しておりました」 「その封書を開いて見たのか?」 「いえ、宮内卿宛になっていますので、宮内省へ回しました」 「どねえしたのだ?」 「はあ。この者は岩手県下陸中の出身で、安政五年の生れですが、割腹の前日、故郷と兄にそれぞれ遺書を認《したた》めて送っております。それによりますと、国会開設の請願が一向に元老院でお取り上げにならないのに業を煮やし、死を以て国会開設の願いをするという意味のことを書いております」 「なに」有朋は椅子から身体を起した。手も机の端にかけた。痩せた長い指が机の上に爪を立てるような恰好になった。「その兵隊は民権論者か?」 「まだ詳しいことは分りませんが、それほどのことはないと思います」 「それで、一命は取り止めるのか?」 「今日の陸軍病院長の話では、間もなく快癒に向うだろうと申しておりました」  有朋は口の端を曲げていたが、 「その封書のほうはどうなった?」 「宮内省より回って、ただ今、内閣で回覧しているとのことでございます」 「ほかに何かないのか?」 「その伍長の、兄宛の遺書の草稿を中隊の自分の手函の中に入れているのが発見されたので、ここに持って参りました」 「見せなさい」  参謀長はポケットからたたんだ紙を有朋の前に出した。文字は一見して百姓と知れる下手な筆蹟だったが、相当な文章であった。 「今日国会開設の急務なるは固より論ずる迄もなく、而して政府が国会願望者に対するの挙動その当を得ざるは今更喋々する迄もなく万々御承知の通りなれば、この時に当り国家の為に一身を公衆の犠牲に供する如きは亦|已《や》むを得ざる事に候。縦令《たとえ》世人は弥惣八の為す所を以て狂と呼び愚と称するも、私は断然一身を捨てて天下公衆の為に誠心を尽さんと決心仕候。何んぞ他を顧るに遑《いとま》あらん哉。宜く御推察下され度願上奉候。次に私が一身を捨てし事を聞かれなば母上様の御悲嘆如何あらん。これのみ終天の遺憾に御座候。因て御兄上様には何とぞ母上様を御慰め御孝養御尽し下され度ひとへに願上奉候。又舎弟は飽くまでも国家の為に苦労を辞せず、艱難を厭はず、誠意国家人民の為に尽力する様致度、且つ将来の形勢如何なる変遷ある哉も計り難ければ、能々此辺を熟考され、呉々も奮起尽力有之可候。書に臨みて惆悵《ちゆうちよう》の至りに堪へず、復《ま》た何にをか言はん」  有朋は、粗い罫紙に書かれた筆書きの遺書の草稿を二度繰返して読んだ。 「莫迦者が」  彼はそれを岡沢大佐に投げつけるように返した。 「至急に連隊長に命令して、その者の遺している私物を検査し、同時に、中隊内もしくは班内において彼に同調している民権論者の兵卒があるかどうか、厳重に取調べさせろ」 「はあ。至急に第一連隊長に命令して……」  と岡沢大佐が踵を揃えて棒立ちになって復誦した。 「その伍長を……」 「小原伍長であります」 「その小原が外部の民権論者と交際していたかどうか、その辺の形跡も詳しく探るように」 「はあ」 「また中隊だけでなく、他の中隊の中にも小原と同様に民権論または国会開設を口に出している者があるかどうかを調べるように。……そうだ、一斉に私物検査をやらせなさい」 「分りました。一斉に私物検査をさせます」 「その報告を今日中にわしのところに届けなさい。もし、役所が退《ひ》けたあとなら家にいるから、夜中でも来てくれ」 「はい」 「その者の腹の傷はどの程度だ?」 「はい、非常に浅い傷で、横が四寸ばかり、深さ一寸三分だそうでございます。腸は露出しておりませんので、あと十日ぐらいで退院出来る見込みということであります」  有朋は二、三秒考えていたが、 「病院から出たら、現在の軍人刑法に照らして、最も重い懲罰を加えたい」  とぽつりと言った。  陸軍刑法は、この月、元老院幹事|細川潤次郎《ほそかわじゆんじろう》が審査総裁となってその審議を終了したばかりであった。これによれば、第一篇総則と、第二篇重罪、軽罪の二篇から成り、第一篇は法令、刑令、加減令、数罪倶発、数人共犯、未遂犯罪の六章に分ち、第二篇は反乱、抗命、擅権《せんけん》、辱職、暴行、侮辱、違令、逃亡、詐偽の九章に分ち、百二十六条から成っている。刑は主刑、附加刑の二種で、死刑、無期徒刑、有期徒刑、無期流刑、有期流刑、重懲役、軽懲役、重禁獄、軽禁獄を重罪の主刑とし、重禁錮、軽禁錮を軽罪の主刑とし、剥奪公権、剥官、停止公権、禁治産、監視、没収を附加刑とした。死刑は従前の如く銃殺を用い、すべて在来の軍律に較べると甚だ細則化し、殊に第二篇の第一章反乱、第五章暴行、第七章違令に重点を置いて、各章いずれも十七、八条の多きに及んだ。  この立法化の念頭に竹橋騒動があったのはいうまでもない。  岡沢大佐は、額から流れる汗を拭いもせずそのまま出て行った。  有朋は気むずかしい顔で残っていた。普段でも眉の間に皺があったが、更にそれを深く縒《よ》らせていた。  その宵、品川弥二郎が立ち寄った。 「今朝、赤坂仮皇居の前で切腹した軍人があったそうですな」弥二郎は面白そうに笑った。「国会開設請願の遺書を持っていたそうですが、鎮台の中は大丈夫ですか?」 「大丈夫だ」と有朋は不機嫌な顔つきで答えた。「今夜、その連隊から詳しい報告があるはずだが、まず、そやつ一人の頓狂で済みそうだ」 「それは何よりです。だが、皇居の前で割腹とは考えましたね。明治三年に、鹿児島県人横山正太郎という奴が集議院の門前で割腹し、そのためかどうか、翌年、廟堂に大改革があり、遂に廃藩置県の大事業を成就しましたが、その伍長は横山の真似をしたのかもしれませんね。東京にいる国会開設請願者たちは、早速、腹切伍長の墓を建てて同志を鼓舞すると騒いでいるそうです」  有朋は厭な顔をした。      21  夜半、岡沢大佐が小原弥惣八の事件について報告のため来訪した。 「小原の身辺並びに交際関係を調査しましたところ、現在のところ外部の自由民権論者と交際していた事実はありません。ただ、小原がそのような思想に取憑《とりつ》かれたのは、外出のたびに新聞などを読み、国会開設思想にかぶれたことと思います」 「それでは、ほかの兵卒にはそのような者はいないのだな?」 「おりません」 「小原は日ごろ兵卒に向って、民権思想や国会開設請願のことなど口走っていたか?」 「下士官卒の中には彼の言動を聞いた者はおりますが、部下の兵卒に訓諭するということはなかったようであります」  有朋はようやく安心した顔になった。なお、もっと調査を厳重にするように言い、陸軍刑法の中でも最も重罪に該当する条文に照らして処罰するようにしたいと語った。  有朋は、小原弥惣八が百姓出身であることにかなり懸念を持っていた。殊に小原は東北出身である。自由民権運動は不平士族よりも今では農村の間に滲透している。殊にこの運動が曾て薩長に抵抗した地方に多いことも彼の注意を惹《ひ》くところだった。  兵卒の出身は農村が大部分だが、なかには士族も多い。軍隊内における兵卒の地位は、絶対服従の規律の中でその個性を滅却させるところにある。たとえいかなる教育を受けている人間でも、ひとたび徴兵によって軍隊内に入れば、無学文盲の兵卒と同一の立場に置かれなければならない。有朋が心痛するのは、徴兵によって入隊する青年がそれ以前に持っていた思想を病菌のように軍隊内に伝染させることだった。  徴兵令はこの前、明治十二年十月改正したばかりである。 「常備軍ハ男子年二十歳ニ至ル者ヲ各軍管下ノ国郡ヨリ徴集シ、其当籤者ヲ以テ之ヲ編制シ、三ケ年ノ役ニ服セシメ、所管鎮台ニ備フル者ナリ。第一項、殊ニ技芸ニ熟スル者、平時ハ服役未タ終ラスト雖モ詮議ノ上仮ニ帰郷ヲ許スヘシ。第二項、強壮ニシテ技芸ニ熟シ行状正シキ者ハ、在営六ケ月ニシテ近衛兵ニ抜擢シ、更ニ三ケ年ノ役ニ服セシメ、役終ルノ後予備軍ニ編入シ、二ケ年六ケ月ノ後後備軍ニ編入ス。(中略)第三項、上下士官ト為《なら》ン|※[#「司」から「一」と「口」を除いたもの]《こと》ヲ志願スル者ハ、検査格例ニ照シ、士官学校又ハ教導団ニ入ラシム。第四項、技芸ニ熟シ且才気アル者ハ、之ヲ抜擢シテ下士ニ任ス」  この改正が西南戦争の教訓による実践に根を下ろしたことは言うまでもないが、軍隊内に押込められた人格無視の兵卒にも僅かな「希望」を与えようとしたものであった。ここには教養や知識は問題とされていない。技芸とは、その教養には関係のない軍隊の技術のことであり、且つ、それが軍人として「精励」するの義となっている。即ち、強壮にして技芸に熟し行状正しき者は、皇居を防衛する「名誉」ある近衛兵に抜擢される希望を与え、さらに資格を認められた者は下士に任じられる途を開いている。閉鎖的な生活にある兵卒にも、奴隷的な昇進によって奴隷的な絶望感から救っている。  このことは兵卒生活の不満を緩和させる手段であった。そのほか免役規則を改正して百二十五円を払うときは平時免役されることにしたのは、あとを絶たぬ徴兵忌避に手を焼いたからである。  だが、どのように彼らに対して宥和策《ゆうわさく》を採ろうとも、ひとたび破壊的な思想が軍隊内に滲透せんか、「団結」的な秩序が崩壊することは当然であった。有朋がいま各地に澎湃《ほうはい》として起っている民権思想と国会開設請願運動とに眼を注ぐのは、このような心配からである。  彼の脳裡には、目下進行中の「軍人勅諭」の改稿が或る焦慮をもって泛《うか》ぶのであった。  数日後、品川弥二郎が来り訪《おとの》うた。山県は、前に板垣退助が全国遊説に金が無く挫折して土佐に帰ったことを思い出して、最近の国会開設請願運動が活溌なのは、誰か資金の提供者でもあるのか、と訊いた。 「そんな者はいませんが、要するに、米価高で百姓が潤っているからですよ」弥二郎は答えた。 「板垣などは今どこに行っても大歓迎で、一向に旅費など困らぬようです。各地の政社が続々と大挙して東京に請願のため来るのも、農村にだぶついた金があるからです。今では都会の者が困って、百姓共が大浮かれです」  物価が高騰し、貨幣価値が下がっているのも有朋は新聞記事などで知っている。西南戦役後のインフレはまだ抑えようがないのである。 「すると、自由民権運動を抑えるには、農村の金を吸い上げるようにしなければいけないな」 「その通りです」 「何とか対策があるのか?」 「前の大隈さんではどうしようもなかったですが、あと釜の佐野さんなら相当にやるんじゃないですか」  佐野は新任の大蔵卿佐野|常民《つねたみ》のことである。  この二月、参議の各部長官の兼任を辞めさせ、英国にならって内閣《キャビネット》制度に分離した。このため伊藤内務卿のあとは薩摩出身の大蔵大輔|松方正義《まつかたまさよし》が転じた。 「佐野さんなら思い切った緊縮政策をとれると思います。あの人なら几帳面ですから、大隈さんとは大分違います。それから、もう一つは地方税規則改正です。今まで国税だったものを地方税に移譲して実質的な増税を図ることです」  明治六年の地租改正当時は百分の三であった。これはしばしば言われる通り、幕藩時代の貢租と変らぬほどの実質的な重税だった。しかし、当時の政府は、今は他の税が取れぬため已むを得ない処置であるが、もし、他の税が二百万円以上に達したら、現在の地租を三分の一まで下げると釈明していた。ところが、今度の国税を地方税に移譲することによって農民の負担は約八百万円増加することになっている。しかも、他の税はその後新設された諸税によって政府の増収となっているのである。  要するに、品川弥二郎の話は、デフレ政策と増税によって米価高を抑え、農村から片寄っている金を吸収する狙いにあり、自由民権運動の資金源をこれによって絶つという案であった。一方では、集会条例その他の法令を改正して実際運動の取締りを鞏固にする。この両面から攻めて行けば、必ず成果が上がるであろう、と言った。  有朋は大いに感服し、ぜひ、その通りに政府にやってもらわなければならない、と珍しく顔色を動かした。      22  珍しく伊藤博文が訪ねてくるという予告を受けた。  夕方四時、伊藤は二頭立ての馬車で椿山荘の表に着いた。彼はここを訪問するのは初めてだった。両人はしばらく会っていない。伊藤は大久保利通の遭難の後をうけて内務卿になってからひどく忙しく、有朋も陸軍制度の改革や参謀本部の設置、監軍本部の新設などに追われて、ゆっくりと二人で話合う時間がなかった。伊藤は参議専任となったので多少の暇ができたのであろう。  伊藤はまず黄昏《たそが》れかける広い庭を逍遥した。背の低い伊藤と長身の有朋とはなだらかな斜面をならんで下り、滝を眺め、小渓を渡り、池に佇《たたず》んだ。 「なるほど、これは大したものだ」  と博文はほめた。 「おぬしの庭造りの腕はえらいものだ。噂には聞いていたが、こねえにええとは思わなんだ」  陽が落ちかけると、低地の早稲田|田圃《たんぼ》から吹いてくる風が涼しかった。 「民権運動か」と伊藤は得意そうに葉巻をくゆらして有朋の話に答えた。「まあ、そう心配せんでもええじゃろう。板垣には困ったものだが、この運動を抑える手がないことはない」  伊藤は、実はそのことで内々おぬしの意見を聞きたいことがあって来たのだ、と言った。  庭をひと廻りした伊藤博文と山県有朋とは、丘の上にある八畳の日本間に戻った。伊藤は来たときから、顔に何やら忿懣げな気色があったが、有朋も伊藤が庭だけを見に来たとは思っていない。  二人は、部屋に戻って、庭から持ち帰った話をしばらくつづけていた。長州時代の共通の友人の名前などが出たりしている。  有朋は、伊藤に会っても袴を穿いたまま叮嚀に坐っていた。伊藤は、自堕落に畳に胡坐《あぐら》をかいたり、ときには肘をついて身体を横たえたりしている。有朋の長い顔と伊藤の扁平な顔とはここでも対照的で、伊藤の眦《めじり》の下った細い眼は見る者に好色的なものを絶えず感じさせていた。  参謀本部長の有朋と、たったこの前まで内務卿であった伊藤とは、互いの仕事の忙しさにしばらく会っていなかったが、それにはどちらかが相手を意識してわざと避けているところもあった。  有朋は、近ごろの伊藤の存在に或る眩《まぶ》しさを覚えている。薩藩出身の大久保利通が紀尾井坂で死んでから、政府の実権は伊藤に傾きつつあった。薩州の勢力は、大久保を失うことによって後継者を見出すことができず、僅かに西郷従道を参議として政府に送り込んでいるにすぎなかった。伊藤はすでにこれまでの彼でなく、大久保の後釜として充実しつつあった。  軍人の有朋は、いつも自分とならんでいるようで、実は常に一歩先に出ている伊藤に、かすかな劣弱感をもっていた。 「わしはただの軍人だ」  と言う有朋の癖は、「一介の武人」の意識を殊更に持ち、他人にもそう吹聴していたが、そこに政治の権力を持ちつつある伊藤への反感的な呟きが明瞭に存在していた。  さて、伊藤がここに突然やってきた理由は、やがて彼自身の口から分りはじめた。 「狂介」  と伊藤はあぐらをかき直して言った。 「とかく佐賀ッぽは根性が悪いのう。あねえに悪いとは思わなんだ」  有朋がそれを大隈重信と判るに手間はかからなかった。 「大隈がどねえかしたのか?」  大隈もこの前の参議・卿(各省長官)分離の新制度に基づいて大蔵卿から参議専任になったばかりであった。しかし、新しい大蔵卿佐野常民は大隈ほどの力量と手腕がなく、佐野はさながら大隈大蔵卿のもとに次官程度にしか使われていなかった。いわば、現在の大隈はその経歴の上から参議筆頭格として薩長二派の勢力の上に足を載せているといってもよかった。  その大隈のことで伊藤が忿《いか》りの色を見せて話し出したのは、国会開設に関する各参議の意見書に絡んだ問題であった。 「おれは大隈という奴を見損った。あねえな奴とはつき合いがでけんから、おれのほうから辞職願を書いた」  伊藤にしては珍しく昂奮しているし、有朋が理由を訊いたのはもちろんである。  左大臣有栖川宮|熾仁《たるひと》親王が国会開設について参議からそれぞれ意見の上書を求めたのは、明治十三年二月のことだった。それが近ごろやっと揃ったが、大隈重信の分がまだ提出されていない。 (いずれ諸参議が一堂に会した座上で披露します)  というのが重信の提出しない口実であった。  しかし、国会開設に関する各参議の意見書は、大体、三条と岩倉がこれを読んで、その趨勢《すうせい》を知っていたのだが、大隈の真意が分らない。  有朋はすでに十二年十二月、岩倉から意見書を求められて、それを提出している。 ≪民会は国家の大事であるから、その成立もまた容易にすべきではなく、最も慎重を加えなければならないものである。けれども、国会開設要望の形勢が今日のように早晩ならざるを得ないのは、智者でなくとも知るところである。したがって、現在の情勢下では特撰議会を開くが最も策を得たものであろうと思う。それを特撰議員とするときは、知識もあり、賢者なるものを撰抜することができるからだ。いま幸いにすでに府県会の設立がある。いずれの府県においても優秀な者は容易に見分けることができる。それで、これらの人のうち徳識のある者を撰抜して、これをもって一の議会を開き、まず国憲の条件を審議させ、併せて天下立法諸種の事項を協議させ、数年間その経験を試みて、その結果、立法の大権を議する資格があると分ったら、そのときになって民会と変えるのも可である。或いは特に特撰議会の名を設けずに、府県会中において投票をもって二、三の議員を択び、一の議会を設置するのも一方便であろう。また、すでに経験を試みた上は、各撰媒撰の法をいろいろと斟酌錯綜《しんしやくさくそう》し、歳月を経て民会となすのもよろしい。しかしながら、この議会は初めから民会の名前を付けず、その集合解散の権はなお政府が握って、議会の議決でも必ずそれを行なうとは限らないことにする。この方法に対して、或いは反対者は言うであろう、これ恰も二つの元老院を置くと同じで、徒らに官禄諸費を倍するだけで無用であると。これも一理はあるが、元老院は皇族、官吏の四五等以上に至る人材を俟《ま》つところとすれば、両者が全く同一の性格をもつとは思われない。また反対者は、このように議会の権限を縮小すれば、その議会は徒らに政府官吏の意にへつらって意味がない、というかもしれない。しかし、事実はそうではない。西欧各国民はその国の国政に参与する権利はもっているが、わが国を西欧各国と比較して見ると、現在はその万分の一の期待も望むことができないからである。……≫  要するに、有朋は、一挙に国民から議員を求めずして、まず地方議員の中から穏健なる国会議員を選出して「特撰議会」を作ろうという趣旨である。この「穏健」を自由民権論者の「危険」の防波堤にしようとする意図であることは勿論だ。  曾て西郷隆盛が鹿児島で叛乱の兵を起したとき、有朋は、西郷の作戦は要するに三策しかない、第一に火船に乗じて東京または大阪湾に突入すること、第二に長崎と熊本鎮台を襲撃し、全九州を破って中央に出ること、第三に鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺い、国内の人心の方向を測り、機会に乗じて中央を破ることと判断し、「(各地の)鎮台及び営所の地を襲撃せらるるも、これを安寧に維持するの目的をもって防禦及び攻撃の心算を予定し、いかなる変動を起すも逡巡《しゆんじゆん》阻撓《そどう》せず、直ちに撃破すべし。そして一撃草賊を討滅するも、懸軍数十里に渉り、軽易躁進することは前に述べた目的に反するから、必ず深く警戒すべし。かくの如き形勢に際しては、電報、郵便は悉くみな不通だから、汽船をもって通信線を根拠に取り、百方臨機の指令を受くべし。また陸路より要港へ交通線をも予め心算しおくべし」と三条太政大臣への報告に細心の注意を添えた。  有朋が、府県会の中から穏健な議員を選んで議会を作っても、なお、その離合解散の権利は政府が握り、たとえ議会の議決でも、必ずしもそれを政府が行なうとは約束させない、と述べたのは、西南戦争における神経質なまで細心な注意と似通っていた。  この「漸進的」な議会方法は、各参議も賛同していることであった。  殊に有朋は、全国にひろがって起りつつある国会開設運動に対しては、病的なまでに警戒した。 ≪今春内閣の更迭にて内閣と諸省の分離は、政治上、多少変換があったことは、とくに新聞紙上にて御承知のことと思う。また昨年来から今春に到って国会論が諸方に沸騰し、元老院に建言する者すでに数十通の多きに及んで、なかには急進激烈の主義者もある。或いはまた国会の何ものたるも知らないで、いわゆる盲判《めくらばん》をもって加入する者もあるときく。このために人数は多勢であるが、その正味の純粋な者は割に少いように思われる。いつの日にか国会は持たなければならないと思われるが、ただ、将来政略の目的を立てないでこのことに急ぐと、日本の運転が進路を誤ることは必至のことと思われる≫(十三年五月十七日。英国留学中の末松謙澄に寄せた書中)  山県の意見は、この書翰を書いたときや、意見書を政府に提出したときと、今も少しも変っていない。  ──有朋も、国会開設に関する意見書を参議大隈重信が提出していないということをうすうす耳にしていた。  いま、博文の口から佐賀ッぽは根性が悪いと言われて、これは大隈の意見書不提出の裏側に何かがあったのだと直感したのだが、もともと、大隈重信は策略好きな男だと分っていたからでもある。 「大隈が何か考えちょるのか?」  有朋は、その忿懣を述べにきた博文の顔を見て訊いた。 「そうじゃ。ほかの諸参議は出しちょる。大体、みんなの意見はおぬしと同じじゃ。ただ、黒田だけは国会開設は尚早であると断言しちょる。ところが、大隈のことだが、あまり提出が遅れるので、有栖川さんが一晩こっそり大隈を呼んで、その意見を敲《たた》いたそうだ。すると、彼は例の弁舌で、民間輿論の潮流の当るべからざるをまくし立て、その方策として、まず薩長の勢力を排斥し、明治十六年を期して国会を開設することとし、且つその準備として今から政府の要路者の数名を斥け、新たに民間の俊才を政府に登用して網羅したがよい、と答えたそうじゃ」 「なるほど」 「大隈は、そのことを文章にして近く提出はするが、陛下や殿下にお見せする前にほかの参議に決して見せないようにしてくれ、と約束させたそうだ。ところで、いよいよ大隈の書いたものを有栖川さんが見てびっくりしたのは、それが七箇条に分れたひどい過激論だったそうな。それが判ったのは、有栖川さんが事の意外に愕いて約束を違《たが》え、三条さんと岩倉さんに内容を見せたからじゃ」 「その七箇条とは、大体、どねえなことかね?」 「有栖川さんの前でまえにしゃべったことと同じだが、明治十五年末に議員を選挙すること、十六年の初めに国議院を開くこと、といった筋書じゃそうな」      23  それからの伊藤の言葉を縮めると、次のようなことであった。  伊藤は前に、大隈がどのような国会の性格を考えているかを訊いたことがある。それはうすうす大隈の胸中が不安だったからだが、大隈はその返事として、大体、あなたと同じものを考えている、とはっきり言った。それで伊藤は少しく安心していたのだった。  ところが、大隈の意見が出されてみると、案外な急進論である。そこで岩倉が内閣で大隈と出遇ったとき、大隈の具体案を訊いた。  大隈はそれに対して、国会開設はすでに時期が目睫《もくしよう》の間《かん》に迫っている。とうてい姑息《こそく》の手段をもってこれを止めることは困難である。たとえば、ここに人がいる。美しい庭園を見ようとして門前に群がる場合に、依然としてその半扉《はんぴ》を開けば、相争って侵入し、その狼藉《ろうぜき》はいかばかりかの光景を呈するだろう。そこで、そのようなことにならない前に両方の門を一文字に開いて、彼らがまだ蝟集《いしゆう》する前に待つがむしろ最上の策と思う。いま、十六年初めをもって国会を開こうとするのは、輿論の先鞭をつけるものとして、我輩の言ういわゆる双扉を開き、これを待つの策で、最も巧みな方便である、と大きな口を尖らして述べた。  岩倉が、君の意見と伊藤の見るところとは異同はないか、と訊くと、大隈は、小さな点で違っているだけだ、と答えた。  伊藤は大隈の建議を初めて見せてもらい、岩倉に向って、前の自分の建議を大隈に見せると大隈はその主義と全く同じゅうするものと答えたが、この意見書は前に自分に言ったことと全く喰い違っている、大隈は自分を騙《だま》したと言わざるを得ない。このような参議のいる政府では共に仕事をする気にはなれないと述べた。 「実は、そのあとから岩倉さんに辞職願を出してな、ずっと参庁しなかった」  と伊藤は説明して、 「実に大隈の食言は宥《ゆる》し難い」  と本気に怒っていた。  有朋は、相変らず仙台平の袴の裾をさばいて坐ったまま長身を立てて微動だもしない。 「それは困ったもんじゃのう。だが、大隈のような意見でも困る。そりゃ絶対におぬしが大隈に会って彼を面詰する要がある」  と有朋はすすめた。 「岩倉さんもおぬしと同じことを言っちょった。そこで、近いうち、岩倉さんが大隈を呼んでおれと立会いをさせると言うちょる」  伊藤も有朋の言葉にうなずいてそう言った。 「そりゃええ。ぜひ、そうするがええ」  と有朋はそれをひどくすすめた。 「一体、大隈はどねえして、そんな言葉を吐くんじゃろう?」  有朋の疑問はそれだった。まさか単純に薩長閥に対しての感情的な反撥から、彼だけが突飛な意見を提出したとも思われない。 「大隈ちゅう奴は、官吏の若手に自分の相談する勢力を作っちょる。それに新聞社にも金をやっとるようだ」  伊藤は畳の上に坐ったり、膝を立てたり、寝転んだりしてひと時も落着かなかったが、突然、むっくりと起き上がると、 「狂介、あとはおぬしに頼むよ」  と言った。  有朋には何のことか分らなかったが、伊藤がそれから言い出したことは悉く彼の胸に響いた。 「今も言う通り、大隈は頭の悪い奴じゃが、目先は利いとる。あいつの議論は、みんな若い者から取って来とる。そこで……そこで、おれが考えるには、大隈を台閣に置くと、将来物騒でいけん。いい加減なところであいつを引きずり下ろそうと思っちょる」 「けんど、下野したら、大隈も板垣と一しょになって自由民権運動に参加するじゃろう。そうなると、今でも板垣ひとりで手に余っちょるところへ大隈が合併したら、えらいことになりゃせんかのう?」  有朋はうすい眉に皺をよせた。 「さあ、そこだ。大隈にはそんな危険は十分にあろうのう。ところが、わしにも、二人が一しょになるというより、これを引離す策略がないでもない」  と伊藤はその内容にはふれずに、 「だが、もし、板垣と大隈とが手を握って、全国的に自由民権の火を大きくしたら、こりゃアもうわしの手に負えぬ。そこで、狂介、おぬしが最後の締括りをしてくれと頼んだのじゃ。おぬしさえ引受けてくれたら、わしは安心して下野した大隈を生捕ることができる」 「あとを頼むというのは、これのことか?」  と山県は坐ったまま腰のサーベルに手を当てる真似をした。 「そうだ。おぬしにそのほうをしっかり頼んでおきたい。そっちさえ引受けてくれたら、わしはあんな連中の反政府運動ぐらい水をかける自信は十分にある」 「そうか」  有朋は荘重な顔つきになって、二分間の沈思のあとにはっきり言った。 「俊輔《しゆんすけ》、よかろう」 「その言葉を聞きたくて、おれはおぬしのところにのこのことやって来たんだ」  伊藤は重荷が下りたような顔になって、ほどなく門前に待たせてある馬車に歩いて行った。  有朋は伊藤を見送って部屋に戻った。  光の強かった芝生も、今は夕陽にうすれている。  有朋は、明治初年以来地方に頻々として起った暴動を軍隊で鎮圧した経験を数々持っている。この暴動の半分が徴兵忌避に原因していたのは彼にも皮肉に感じられた。  その報告文は、有朋がいちいち眼を通し、秘扱い書類として陸軍省の深部に格納されてある。  明治六年の五月、香川県阿野郡国分在の農民二千余名が、戸長に対する忿懣からはじまって暴動を起したことがある。彼らは邏卒《らそつ》屯所、戸長宅、学校、倉庫、村役場などに放火し、観音寺《かんおんじ》町に入って公署ほか六カ所を焼打ちにした。飛報は丸亀支庁に達して鎮圧に出動したが、一揆は拡大するばかりで、夜に入ると農民隊の一部は丸亀城下に殺到し、さらにほかからも数百名の者が城下に侵入した。二十八日には、遂に善通寺から竹田大尉の率いる第三小隊と森大尉の率いる第四小隊が丸亀へ急行した。このころ、農民の参加する者は次第にふくれ上がったが、とりわけ高山少尉の小隊は農民二百名と応戦して、山間部でさんざん翻弄された。事件は軍隊の出動によってようやく鎮圧されたが、このときの就縛者は二百八十三人に及んだ。  鳥取県古市村でも同じく六月に農民の騒動がはじまり、大阪鎮台から一大隊が出兵している。  明治八年、和歌山県|粉河《こかわ》では地租改正に不満を持った農民が騒動を起した。西国三十三カ所第三番の札所粉河寺に四、五百名ばかりが集り、これをとりおさえにきた巡査二人を縛り上げ、逆に留置するという有様で、その勢いは追々近村を脅迫して県庁に迫らんとした。大阪鎮台は県令の乞いを容れて、南大尉引率の一中隊を出動させた。また岩出町役所から兵器の一部を運搬し、一揆の弾圧に備えた。この武器と鎮台兵出動の報らせを受けて農民の気勢も殺《そ》がれ、漸次逮捕されている。  明治九年、茨城県真壁でも地租改正に反対して農民が四方に蜂起し、およそ六百名ばかりが竹槍や棍棒を持って気勢を挙げた。このときも県令が宇都宮の部隊に出兵を所望し、益田大尉引率の一中隊が出動して騒動は鎮圧された。  明治九年十二月には三重県下の農民が蜂起し、桑名に迫ったので、県令は名古屋鎮台に出兵を乞い、さらに大阪鎮台管下に対しても同様の処置をとった。しかし、一揆のために電信局や電柱が焼かれて壊されたため、内務省や陸軍省をはじめ隣県への通報はやがて不可能となった。が、翌日には名古屋から二中隊が船によって四日市に到着、桑名と県庁に急行した。  富山県|礪波《となみ》郡の農民騒動も、名古屋鎮台金沢営所に出兵を頼み、二中隊が出動し、さらに富山からも一中隊が派兵されて弾圧した。その際、農民側の多くの者が捕えられて処罰された。  このような記録の内容を有朋はほとんど読んで憶えている。当時からみると、鎮台の分布も、相互間の連絡も、兵器も、兵力も比較にならぬほど今は充実している。また相互間の連絡についても、電信電話の発達で当時とは較べものにならない。もし、自由民権運動が猖獗《しようけつ》して各地に暴動が起るようなことがあっても、有朋にはこれだけの軍事的組織力で一夜にして鎮圧する自信は十分にあった。  彼の一言が伊藤を安心させたのは、そのような意味である。      24  明治十四年十月、突如として大隈参議が罷免された。  問題は、北海道官有物払下げ問題から端緒を発した。  政府は明治二年から北海道に開拓使を置いて十年を一期間として全道の開拓に当ったが、内実は、ロシアの領地に接しているので、その防衛策の意味もあった。この開拓使長官が薩藩の黒田清隆であった。  北海道官有物払下げというのは、十年の一期間がすぎたので、薩摩の五代友厚《ごだいともあつ》が北海道全部の官有物を三十万円で払下げを受け、しかも無利息三十年賦償還にするよう黒田に運動して、その許可を取ったことから問題が起った。北海道の官有物は、函館をはじめ各港にあった倉庫、船舶、敷地などの物件のすべて、札幌のビール醸造所、葡萄園、葡萄酒製造所、牧畜場一切、ニシン、タラ、ラッコ、オットセイの漁場権一切だから、大略に見積っても三千万円以上と評価されていた。これを百分の一の値段で、しかも三十年賦償還というのだから、ほとんどタダ同然といっていい。  内閣では、大体、薩長連合の勢力均衡上、黒田の申し出を承認するかたちに傾いていたが、大蔵卿佐野常民はこれに反対した。  彼の背後に同郷の大隈重信がいる。大隈は、その輩下としている若い連中を焚きつけ、しきりとこの北海道官有物払下げ問題について新聞に書き立てさせた。東京横浜毎日新聞をはじめとし、郵便報知新聞、朝野新聞、曙新聞はこぞってその非理を咎め、また末広重恭《すえひろしげやす》、田口卯吉《たぐちうきち》や沼間守一《ぬまもりかず》などはそれぞれ政府弾劾の演説会を開いた。政府の御用新聞といわれた反民権派の東京日日新聞(福地源一郎)まで反対論を書かねばならぬほど、ことは明白だったのである。  彼らの演説の趣旨は、政府がこのような悪政を行なうのは、畢竟、わが国に国会がないからだ。外国のように国会が発達すれば、国民が政府を監視しているから勝手なことはできない。これを見ても早急に国会開設の必要がある、というにあった。  十月上旬、折から天皇は東北地方を旅行していたが、南千住まで帰ったとき、岩倉は千住まで出かけ、天皇に会い、大隈参議を罷免すること、国会開設の勅諭を出すこと、北海道官有物払下げ問題は中止することを述べた。  大隈を排斥した理由は、参議でありながら自己の私見をもって国会開設に関する建議を民間の者に起草せしめたこと、また開拓使官有物払下げの如き閣議未定の問題を関西貿易商会(三菱系)に洩らして世上の物議を巻起させたこと、また大隈は自分の党与を政府の重職に抜擢して自ら政権を掌握しようという野心を持っていることなどであったが、その最大の理由は、国会開設の期限について大隈ひとりが急進論を主張していることであった。  この結果、天皇は明治二十三年をもって国会を開設するに決して、十二日に詔勅を発した。参議大隈重信は詰腹によって辞表を提出したが、同時に彼の与党と目された商務卿|河野敏鎌《こうのとがま》、駅逓総官|前島密《まえじまひそか》、判事|北畠治房《きたばたけはるふさ》、太政官大書記官|矢野文雄《やのふみお》、一等検査官|小野梓《おのあずさ》などみな職を免ぜられた。  大隈は野《や》に下るとまもなく政党を組織し、「立憲改進党」と名づけた。  この明治十四年の政変は、図らずも政府に国会開設の期限を明確にすることを余儀なくさせたのだが、大隈らの主張する明治十六年からみれば、七年間延期されたことになる。この七年間の時日は、政府が民権運動弾圧のため「時を稼ぐ」の意味で重大であった。さらに、この間、プロシャ流憲法採択の方向が決定され、近代日本国家の骨格ができあがっていくのである。  この政変とは別に、この年有朋に衝撃を与えたのは、九月に、陸軍中将前近衛都督|鳥尾小弥太《とりおこやた》、陸軍中将西部監軍本部長|三浦梧楼《みうらごろう》、陸軍中将前中部監軍本部長|谷干城《たにたてき》、陸軍少将中部監軍本部長|蘇我祐準《そがすけのり》の四人がいっしょになって奏議を提出したことだった。  これは国会開設の勅諭が出るひと月前のことで、この上奏の文句にも、 「今日政府の組織頗るその大体を失し、古今内外の制度において未だその類例を見ざるが如し。特に願わくは速かに国憲創立議会を元老院中に開設し、もって国憲を制定し、永世不抜の国基を建て、民心をして帰着するところあらしめんことを。さらに陳ぜざるを得ざるものは開拓使官有物払下げの一件なり。そのことたる大ならずといえども、天下の人心をして大いに不満を抱かしむ。これ自ら施政上においてその宜しきを得ざるものあらん。或いは惧《おそ》る、天下の乱となりて収拾し難きの患いあらんことを」  というようなことがあった。  この四人の将軍の上奏は、かねてから山県、桂の線がドイツ的傾向に流れていることに不満を持っているフランス派の抵抗であった。いわば、明治初年以来くすぶっていた軍事方針のフランス派、ドイツ派の暗闘がここに表面化されたのであった。  しかし、問題はそのことでなく、有朋が苦心して作っている「軍人訓誡」の中の、「況んや所管ならざる官憲に対し建議などをなすことをや。これ固より重き禁制たり」に牴触《ていしよく》していることで、四将軍の建議は、軍事問題にふれたものは一項目もなく、悉く政治に関与したものばかりであった。  つまり、「軍人訓誡」における規制は、下級将校や兵卒にだけ限定されていて、その枠から出ている軍部上層部にはその適用ができなかったということになる。軍人は政治に関与してはならないという禁制の不満が、はしなくもその圧迫の外にある四将軍によって顕われたといってもいい。  一方、板垣退助の国会開設期成同盟は、詔勅によって明治二十三年に国会が開設されることが明示されたので、来るべき国会に対決する必要を感じ、「自由党」を組織することになる。彼の自由党は、それまでの基盤であった地方地主、新興商人階級がそのままのかたちで引継がれた。  大隈はそれに対して、主として都市中心にその地盤を切り拓いて行った。いずれにしても、有朋が伊藤にその懸念を述べたように、民権運動の政党が二つ出来て、政府攻撃にかかる態勢となったのだった。  このときも有朋の脳裡には、暴動鎮圧に役立った軍隊出動の記録の数々の文字が去来していたのであった。こうした背景の中で、「軍人訓誡」から「軍人勅諭」に移行する作業が彼の手で着々と進む。  しかも、この軍隊出動の条件となった農民一揆は、その原因の半分が貢租闘争であった。つまり、明治五年、六年の記録は、「血税」に対する農民の恐怖から出ている。農民は「血税」の文字をそのまま体内から血を取られると解釈して、たまたま山間に入りこんでくる見馴れない洋服をきた男や、またわざと放った流言のために一揆となった例が多い。  だが、「血税」がそのまま農民に誤解されたとしても、それをもって当時の騒動のすべてを決めるわけにはゆかない。封建時代から重税に痛めつけられている農民の意識には、新政府のなじめない政令が日ごろの恐怖心を煽ったといっていい。  つづいて明治八年、九年の一揆は、地租が百分の三というこれまでの幕藩政治当時と変らない重税であったことと、それが物納によらず金納によったことから起っている。しかも、小作人は地主に小作料として現物を渡すことになっているので、米価が高騰すれば儲かるのは地主であり、小作人は地租を金納することによって貨幣経済の中にいやでも巻込まれ、高利貸、地主、商人のために収奪を行なわれることになる。  このような苦しい生活がちょっとしたはずみに彼らの忿懣《ふんまん》を刺戟し、一揆のかたちに盛上げていったのであった。その動機のはずみがどのように卑小なものであったかは、或る地方では、白衣の修験者風な男が村に入りこんだという噂で血取りが来たと錯覚し、農民が集り、次には戸長の宅を襲撃するという全く違った行動にすぐ移っている。また別な地方では、地租の軽減を下級巡査に愬《うつた》えたことから騒動がはじまっている。その原因が些細《ささい》なことであればあるほど、彼らを暴動に駆り立てる日ごろの怒りが大きく感じられるのである。  これらの暴動がほとんど反税闘争であることに有朋は注目した。今や軍隊は莫大な予算を政府に要求しなければならない。地租取立てに対する農民の反対は、ひいては軍そのものの予算的|危殆《きたい》にもつながることであった。軍隊はこれらの暴動を起した地方農村出の若者から構成されている。  有朋の執念が「軍人勅諭」の完成を急いだのは、このような外からの圧迫からであった。彼は、西周をうるさいくらい自宅に呼びつけることになる。      25  北海道官有物払下げ問題を契機とする民論の沸騰につづいて薩長派の企んだクーデターによる大隈重信の下野、板垣の自由党の創設は、これまでの国会開設要求の民権論を薩閥政府攻撃に変貌させた。また陸軍部内では蘇我祐準、谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太のフランス系の四将軍による抵抗などがあって、明治十四年は山県有朋にとってある意味の激動期であった。  このことを背景にして彼の「軍人勅諭」の完成は早急に進められなくてはならなかった。すでに、その稿本は、西周によって十四年秋には一応出来上がっている。  しかし、有朋は、これではまだ不足のところがあると思った。どこといって問いつめられるとちょっと困るのだが、全体としてまだ弱い。もっと現在の情勢に適応した強力なものが彼には欲しかった。  その弱さはどこから来ているのか。考えてみると、十三年に初稿本として西周が提出したときは、さほどには思わなかった。しかし、その後、時日が経ってくると、この稿本の内容がひどくひ弱なものにみえてくる。つまり、それは社会情勢の変化に比例したものだった。  有朋が稿本の「徳目」の中でひ弱さを感じているのは、結局、軍隊につながる天皇の位置づけであった。ここでも秩序の最上位に天皇はいるが、それはまだ客観的にしか描写されていない。  なるほど、稿本には「凡そ軍人たる者は、上に 朕を戴きて首領となすより、下《しも》最下等の兵卒に至るまで」とあり、また「総《すべて》軍人が 朕に対する忠節なれ」とある。「己が隷属する所に奉事して、其命令を敬承するは、直ちに 朕が命を奉ずると異なる無きを宗とし」としている。しかし、これにはまだ天皇の姿勢に遠慮があった。そこに命令の絶対感が出ていない。  有朋は、参謀本部から帰ると、毎夜、稿本の検討に当った。  西周の稿本によると、一に秩序を説いている。二には胆勇である。三は質直勤倹である。四は信義を述べている。  胆勇というも、勤倹というも、信義というも、すべて武士の守るべき道であった。すでに、明治維新によって武力専従者としての武士階級は崩壊した。「四民平等」となった。そのことがフランスの民権論を移入させる下地となった。  しかし、有朋は、軍隊を形成することで再び武士の専従観念を兵士に再現させようとする。当然、武士の資格となる条目を軍人精神に織り込まなければならない。  だが、「秩序」はどうであろうか。西周が起草した文章は、彼の西欧哲学的な教養もあって理路整然としているが、それだけにより直接なものに欠けている。 「軍人第一の精神は秩序を紊《みだ》ること無きを要す」とは何という文章か。これはまるで弱々しい説明文ではないか。以下の文章で、この秩序の体制を「天皇の命」としているが、この文章から受ける感じでは「秩序」が本体であって、「天皇の命」はそれを支えるための第二義的な説明になっている。  百姓の子弟から集めた「愚昧《ぐまい》なる」壮丁には、もっと直接な命令形で抑えつけることが必要である。彼らには説明の必要はない。  有朋は、ここで思い切って徳目の第一に忠義を持ってくる。  こうすると、忠義のためには必然的に軍隊は秩序を守らなくてはならないことになり、忠義の故に軍人の生活は質素であり、胆勇でなければならず、信義を重んじなければならないことになる。即ち、あらゆる勅諭の徳目は天皇に対する忠義という一点に向って集中されるのだ。これを逆にすると、忠義からさまざまな線が八方に放射される。  では、天皇の軍隊における位置はどのようなことになるか。西周の草稿では「兵権は我が 皇統に繋属する所にして、軍人は 朕が四肢股肱に同じく 朕をして能く我が元々を栄育保護し、以て上天命に答し、宗社に報ずるの大任に当らしむる者は軍人より重きは莫し。是 朕が軍人に於ける一層親摯の意無きこと能はず」とある。  これも西周らしい直訳体であった。「上天」の語句は消化未熟である。  尤も、西は、この「軍人勅諭」を精魂こめて起草したに違いない。彼はもともと戦争不可避論者で、十一年に偕行社で講演した「兵賦論」では、すべて人間の世界は、戦争の方法こそ違うが、相争い、相戦うようになっている。われわれは否でも応でも戦争しなければならない運命に当っている。この娑婆世界は、内外とも戦争をもって人生の定業《じようごう》と定めてあるに違いない、とも言っている。即ち、西は徹底的な戦争準備論者であった。  兵卒に天皇への忠節の「理由」を説く必要はない──と有朋は考える。  まず、自分の生れた長州藩を思ってみよう。自分は足軽の子だが、幼い時から家族に主君の恩を叩きこまれた。忠誠を教えこまれるのに、その「理由」を説明されただろうか。それでよかったのだ。絶対観念には説明は不要である。  つまり、一切の過程を抜き去って結論だけで命令することが、より絶対的となり、より神聖化される。理由を述べることは、そこに批判の余地を残す。それでは神聖とはいえない。神聖とは、あらゆる批判観念を抹殺し、峻拒することである。  有朋は、西周をうるさく自邸に呼びつけて、この意を伝えた。  まず、それには天皇が自ら軍隊の元首となることだ。西の稿本にもその字句は出ているが、弱々しい。これを絶対的な至上命令形とするには、天皇と軍隊とが直結する以外にない。 「おぬしの書いた�軍人は朕が四肢股肱に同じく�というのは巧い文句じゃが、ここでは天皇様がまだ軍人を他人のように考えていなさるように取れる。もっと、お上《かみ》が家来にものを言うような言い方があろう」  つまりは、この勅諭稿は天皇の眼で書かれていないのだ。そこには天皇と軍人との間にまだ起草者がはさまっている。いうなれば、この勅諭の筆者が中間に甚だ目障りに存在して、天皇と軍人とをばらばらにしているのである。  西はそれを聞いて尤もだと答え、何回か稿本に筆を入れて運んできたが、これは同じ執筆者だからあまり変りばえがしない。要するに西の観念は定着したままで飛躍がなかった。  有朋は、今度は福地源一郎を呼びにやらせることになる。  この頃の福地は、板垣の自由党、大隈の改進党の向うを張って帝政党創立の準備に没頭していた。  福地が帝政党を作った理由は、自由党も改進党も政府攻撃に急なだけで、真に政策批判の党とはいえない。政府の政策でも随分といいところがあるのだから、いいものはそれを認め、非とするものは徹底的に叩く、という趣旨のものであった。  これは、福地が「帝政党は政府の御用党である」という非難に答えた言葉であった。  その福地は、山県のところに二人引きの俥《くるま》で駆けつけた。派手好みの彼は、池ノ端の住居から毎晩のように柳橋、新橋に出かけ、何日間も流連《いつづけ》することが珍しくない。彼は酒は一滴も飲めなかった。 「何か御用ですか?」  福地は着流しのまま山県の前に坐った。 「大分、このごろ、派手なそうじゃが」  有朋がぞろりとした彼の着物を見て言うと、 「いや、閣下のお耳にもそんなことが入りましたか。評判が悪くていけませぬ」  福地が柳橋の芸者を引かせて囲っているという噂が立ったのもこの頃だった。その金は政府の手から出ているとも反対派の新聞に書き立てられていた。  雑談の末、山県は西の草稿を取出した。この写しは、福地にも前に渡している。 「わしの意図はこういうことだが、西になんぼ書き直させてもやっぱり同じことじゃ。どうだ、おぬし、思い切った朱を入れてくれぬか」  福地は、これまでも西の草稿は見てきたが、有朋がそのたびに西に書き直しを命じるので、朱を入れるのを中止していた。  黙って有朋の説明を聞いていた福地が、 「大体のお話は分りました。西先生の定稿をわたしが全体に訂正するのも僭越《せんえつ》ですが、閣下がそれほどまでにご心配になっているのなら、及ばずながらやってみましょう」  有朋は、福地の文章が気に入っていた。尤も、それは近ごろのように新聞に載る政治論ではなく、曾て城山に追込んだ西郷隆盛への投降勧告状を書かせたときの福地の文章にである。福地の字句は、諄々《じゆんじゆん》と説く理論的な説得よりも、読む者の感情に直接迫る愬求力《そきゆうりよく》があり、有朋はそれを大そう名文に思っていた。      26  有朋は、忠節を第一に持ってくるために、西の勅諭稿の四項目では不足を感じた。稿本によれば軍人第一の精神は秩序の保持であって、このために「総《すべて》軍人が朕に対する忠節なれ」とつづくのである。従って、秩序が主となり、忠節は従となっている。これを逆さまにすれば必然的に秩序の項を別に設けなければならなかった。  この稿本の原本ともなった「軍人訓誡」では徳目を三項目しか挙げていない。ここでは「忠実、勇敢、服従の三約束が軍人の精神を維持する三大元行である」と規定した。勅諭稿ではこれに質素を加えたが、最後の仕上げとして「忠実」が「忠節」に変り、「秩序」を分離して独立させた。 「訓誡」の中で「軍人たる者聖上の御事に於ては縦ひ御容貌の瑣事たりとも一言是に及ぶを得ず」とある天皇の神格化の兆は、勅諭稿の忠節の項でより強調され、さらに「聖上の御事に於ては」の第三者的な言い方は、勅諭稿で「朕は」と、天皇の一人称の発言に変えさせた。 「秩序という言葉は、どうもそぐいませんな」  と福地は言った。 「西先生のこれを書かれた立場から言えば尤もですが、お上が軍人に言われる気持からすると、もう少し言葉の変えようがあると思います」 「わしもそねえに思っとる。福地、おぬしに任せるから、ひとつ考えてくれぬか」  有朋は、細い眼に光を溜めて言った。 「よろしゅうございます。閣下のお気に召すかどうか分りませぬが、まず、第一回を近日中にお届けします。何回でも書き直して立派なものにしましょう」  福地は筆の速いほうだった。彼はその東京日日新聞の社説を書くときなど、筆で一気呵成に書き上げた。彼は五十枚ぐらいの原稿などは鼻唄まじりに数時間で書き飛ばしていた。  福地は、西の稿本の文章について、もう少し平易にする必要があると述べた。殊に前段は長過ぎるので、縮小の要があるとも述べた。  こうして十四年の冬頃までには、福地の修正は十数回になった。有朋は、それを西にも見せ、井上毅らの参考意見も聴いている。  井上らは明治十四年十月十一日、憲法制定についての「七参議連署意見書」(井上毅起草)を提出し、プロシャ流憲法採択について述べているが、その中で陸海軍制について、「蓋シ天子ハ兵馬ノ元帥ニシテ軍人ハ王室ノ爪牙《そうが》ナリ党ヲ結ヒ政ヲ議スルノ権アルコトナシ……」(「岩倉公実記」)として「軍人勅諭」に重大な方向性を与えた。  このような経過を経て、「軍人勅諭」の稿は本決りとなった。  その前段は次の通りである。 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇|躬《み》つから大伴物部の兵《つわもの》ともを率ゐ中国《なかつくに》のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座《たかみくら》に即かせられて天下《あめのした》しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此|間《あいだ》世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦|屡《しばしば》なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制《おんおきて》にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世《なかつよ》に至りて文武の制度皆|唐国風《からくにぶり》に傚《なら》はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮《さうめりよう》を建て防人《さきもり》なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃《な》れて朝廷の政務も漸《ようやく》文弱に流れけれは兵農おのつから二《ふたつ》に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向《ひたすら》に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱《みだれ》と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯《かく》なれるは人力《ひとのちから》もて挽回《ひきかえ》すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻《もと》り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其|政《まつりごと》衰へ剰《あまつさえ》外国の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖《おおじのみこと》仁孝天皇|皇考《ちちのみこと》孝明天皇いたく宸襟を悩し給ひしこそ忝《かたじけな》くも又|惶《かしこ》けれ然るに朕|幼《いとけな》くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣|良弼《りようひつ》ありて朕を輔翼せる功績《いさお》なり歴世祖宗の専《もつぱら》蒼生を憐み給ひし御遺沢なりといへとも併《しかしながら》我臣民の其心に順逆の理《ことわり》を弁へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更《あらた》め我国の光を耀《かがやか》さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様《さま》に建定めぬ夫《それ》兵馬の大権は朕か統《す》ふる所なれは其|司々《つかさづかさ》をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕|親《みずから》之を攬《と》り肯《あえ》て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯《この》旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存《ぞん》して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其|親《したしみ》は特《こと》に深かるへき朕か国家を保護《ほうご》して上天《しようてん》の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威《みいづ》振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武|維《これ》揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉を偕《とも》にすへし汝等皆其職を守り朕と一心《ひとつこころ》になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福《さいわい》を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕|斯《かく》も深く汝等軍人に望むなれは猶|訓諭《おしえさと》すへき事こそあれいてや之を左に述へむ」  前段については稿本の千五百十字が決定稿では千四十五字となり、四百六十五字の減少となった。  文章も西のからみるとずっと平易になった。  前段は、天皇が武力を持っていたことを歴史的に説明し、今日軍隊を統率するゆえんを合理化したものだが、西の客観性は、決定稿ではずっと主観的になっている。たとえば、西稿本に、外国から「屡其凌侮を受くるに至り」とあるのを、決定稿では「其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは」とぼかして国体の尊厳性を立て、西稿本「朕が幼冲にも拘らず夙に先帝の大喪に遭遇し朕親から手足を措くに所無きも、宗社の重き前後を顧るに遑あらず、眇々の身を以て此天津日嗣を奉承するに至り」とあるのを、決定稿では「朕幼くして天津日嗣を受け」とあっさり述べている。「眇々の身を以て」では人間臭くなるのである。  決定稿の「朕か国家を保護して上天の恵に応し」の「上天」は、ドイツ軍政綱領の直訳的文字で、むろん、上天は神《ゴツド》の意である。しかし、翻訳未消化のままここでは「上天」は天照大御神に移し替えた。  「『上天』とは、支那式に言えば、上帝・天帝などと言うと同じく、天《あめ》の神《かみ》・造物主等の意になりますが、わが国においては、畏くも主として天祖天照大御神を仰せられたものと拝されます。『上天の恵』とは、蓋し大御神様が遠き数千年の古において畏き神勅を下し給い、万世一系、この御子孫にこの豊葦原瑞穂国の統治の大権をお授け遊ばされたことを仰せられたものと拝せられます」(軍人勅諭謹解)  西稿本「軍人たる者は亦此旨を体し、所謂軍人の精神なる者に於て、一層意を注し、果して能く 朕が嘉尚する所に副なふ事有らば、……是朕が属望する所なり」のまわりくどい説諭形は、決定稿「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」といきなり大喝し、「されは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき」と、息もつがさず天皇が軍人の「頭」となって「四肢」の直結を宣言する。従って、以下の徳目については、西稿本「因て其条々を開示訓諭する事左の如し」の弱々しい説明句は、決定稿「朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ」と天皇の感情移入的な言葉となる。つまり、西の論理的な字句は「いてや……」と福地一流の躍動的な筆に書き改められた。  五徳目の冒頭に「一軍人は忠節を尽すを本分とすへし」を置いたのは有朋の希望だが、これを西稿本の「秩序」の項の終り近くに、「総軍人が朕に対する忠節なれ」とただ一行に嵌《は》めこまれたものと比較すれば天地の相違である。この中に「軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし」とあるのは、軍隊という共同体の中に学校教育を受け教養を持ったものが入っても、彼らに対する「愚昧なる」農民出身壮丁の卑屈感を除かせ、軍隊という機構の中に人間性を無機物化させたのであった。  これが発展して「死は鴻毛《こうもう》よりも軽しと覚悟せよ」と人権の否定となる。哲学者西周の稿本には無い言葉であった。  西稿本の「秩序」の中から忠節を大きく切り取って出したので、「秩序」は決定稿で「礼儀」の言葉に変えられる。つまり、西稿本の四項目は五項目にふえた。この「秩序」を「礼儀」に変えたことは、有朋も大いに満足するところだった。 「このほうがずっと兵隊には分りがええ」  と福地の手入れに喜んだ。 「秩序」といえばむずかしくなる。そして、これは理に過ぎる。「礼儀」となれば「上を敬はす下を恵ますして一致の和諧《かかい》を失ひたらんには啻《ただ》に軍隊の蠧毒《とどく》たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし」の一句がすうと気持の中に入ってくるのである。  だから、軍隊秩序の紊乱者《ぶんらんしや》を国家のために「ゆるし難き罪人」と断ずるのであった。  従って、その秩序をもっと強化するには、「上官の命を承ること実は直《ただち》に朕か命を承る義なりと心得よ」という天皇の権威を、たとえ一下士官の命令にも身代り的に付与することになる。つまり、天皇の絶対性が、このようなかたちで下からも固められるのであった。      27 「武勇」については、軍人を維新前の職業的な武士の意識にまで引上げようとする。西稿本には「武夫《もののふ》は勇気を以て職業とする者なるほどに」とあるが、これは「訓誡」の「往時は士族の者帯刀をなし、平民にても一刀を許されたりしが、近く廃刀の命下てより以後、武器を帯するは軍人に限りたることゝなれり」という字句の精神を受継いだものだ。ところが、決定稿では「我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし」と軍人を一挙に「国民」にまで拡大する。その心は、いうまでもなく、徴兵制度の「国民皆兵」の思想につながるものだ。  つづいて「信義」の項は「秩序」を精神的に強化したものである。西稿本は、この「信義」を四項目の最後に置いている。「別して軍人は隊伍の中に生活するものなれば、信義を失なひては一日も立ち難きは言ふまでも無き事なり」が、その項目設定の目的全部である。一つは、天皇の命令による軍隊の縦の秩序を、「信義」によって横に固めようとするのだ。  ところが、上官の命令が「直に朕か命」となれば、その命令の内容判断が問題となる。殷鑑《いんかん》遠からず、西郷隆盛の挙兵が何よりもそれを証明しているではないか。西郷は、陸軍大将という軍部最高の官職にあった。その挙兵に集った者は、曾ては近衛の少将であり、大佐、中佐であった。彼ら叛乱上級者の命令も「朕か命」として下級者は服従しなければならないことになる。この矛盾を「信義」の項ではどのように解決したか。  西稿本に「故に始に事の順逆を審かにし、其言践むべからずと知り、其義守るべからずと思はば、速かに思ひ止まるの勝れるには若かざるぞかし。古今大綱の順逆に暗くして小節の信義を立てんとし、或は徒を結び党を立て、或は政道の是非、王統の争論、果ては家々の争などに与し、近日は又主義の論党などもある如く、あたら惜むべき人も始に順逆を弁ぜざるより大なる禍害に遭ひて、名も身も共に朽ち果つるに至りし者は屈指にも暇あらず。憫然と言ふも余あり」とあるのを、決定稿では「古より或《ある》は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍《かばね》の上の汚名を後世《のちのよ》まて遺せること其|例尠《ためしすくな》からぬものを深く警《いまし》めてやはあるへき」と、ひどく分りやすくなっている。  西稿本にある「近日は又主義の論党などもある如く」はいうまでもなく、自由民権運動を指し、決定稿「英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まで遺」しているとは西郷隆盛とその一党を指している。  しかし、これで矛盾が解決されたのではない。上官の命を朕が命と心得るように絶対的に押付け、批判の余地を奪っておきながら、「始に能々《よくよく》事の順逆を弁へ理非を考へ」ることができるであろうか。この不条理な点は全くふれないで頬かぶりである。命令の絶対性は被命令者の思考力の剥奪である。たとえどのような無理であっても、上官の命となれば服従するのを本体と説く「礼儀」の項と、理非を思考する「信義」の項とは全く背馳する。  有朋もこの点は大いに苦慮したが、別段の名案は泛《うか》ばなかった。もし、命令者の「理非を考へ」るならば、それは当然命令者への批判となって現われる。すると、彼の恐れるように秩序は崩壊する。  つい、三年前に起った竹橋騒動でも、その荷担者の全部が政府のやり方に不満を持った者ばかりとはいえない。いわゆる上級者の命令に従って暴動に加わった者も多かった。もしその際、「理非を考へて」上官の命令に服しなかったら、「朕が命令」に背くことになる。  その点は、まだ「訓誡」のほうが多少とも合理的である。即ち、「軍人たる者服従を守るの義務は嘗て間断ある可らず。……然れども其事何如にも不条理なりと思ふこと有らば、一度び其事に服従し耐忍を遂げたる後に、其苦情を訴ふるは許されたる所なり。然れども是は唯其仕向の非理なりと思ふ事に限る」と僅かだが人間尊重が見られる。  しかし、このような苦情を許しておけば、命令の絶対性がゆらぐのは当然だ。ここに命令服従と、軍隊叛乱に出るかもしれない命令行使権との間に大きな背反がある。しかも、西稿本でも決定稿でも、遂にこれを解決し得なかった。有朋も匙《さじ》を投げたのである。 「質素」は、戦闘単位の軍人集団として不可欠な条件である。しかし、これを特に強調しなければならなかったのには、現在の社会情勢の反映があった。西南戦争後のインフレは農村を一時的に潤し、新興ブルジョアジーの擡頭となって現われた。消費経済の進行で世の中はいよいよ贅沢となってくる。物価は昂進する。  しかるに、限られた軍予算の中では兵卒に支払う給料は必然的に低賃銀となる。しかし、兵卒はこれに不満を持ってはならなかった。それは、竹橋騒動の叛乱動機が給料の低廉にあったことと思い合わせればよい。この低い給料は、何事も「武勇のためであり、忠節のため」である、と言い聞かせねばならなかった。それで「汝等軍人ゆめ此|訓誡《おしえ》を等間《なおざり》にな思ひそ」と強い口調にならねばならなくなる。  要するに、西稿本の理性的、或いは哲学的なものは、決定稿によって表現が通俗的となり、天皇の口移し的な言葉、従って、より絶対的となったのである。  しかし、この稿本を作った西洋哲学者西周も、軍隊社会については有朋と根本的な相違はなかった。彼は、そのことを「兵家徳行」の中で挙げている。 「それ兵家法則の大意は所謂オベケヤンス即ち従命法にて、之が為に所謂イエラルシーミリテイル、即ち軍秩の制を設けて之を規律する所以なり。是維新前武家の政治に在ては怪しむに足らざる事なりと雖も、今日の政治に於ては常道と相反し、平常社会と正しく相表裏する者なり。故に平常社会に在ては人々大率同一権を主とすと雖も、軍人に至ては一人も同一権あること莫し。是軍秩は平常社会の秩序に比して一層厳なる所以にして、実に此制則あるに非れば千万人を統御し一身の動くが如きメカニズムを致す可らざるなり」  彼の言う平常社会とは、軍隊と区別した市民社会のことで、この市民社会は自由と平等の原則に支配され、人々は平等の権利を持つが、軍隊の社会では厳重な階級制があって平等権は認められない。この二つの世界は全く違った原則に立っていて、相交ることのない次元だというのである。  近代兵制の特色は、彼の言うメカニズム、つまり機械仕掛ということである。このメカニズムは兵器の機械化だけでなく、兵卒も機械のように用いるので、そのためには「節制」が必要となってくる。つまり、軍の秩序であり、軍紀である。  それだからこそ、たとえそれが通俗的となり、絶対的なものに修正されたとしても、西の底本は「軍人勅諭」に有朋と共に生きているのであった。  有朋は、完成した草稿を自分で清書した。  それは、陸軍省の罫紙に墨で叮嚀な楷書で書いて行った。これは太政大臣三条|実美《さねとみ》に見せるつもりだった。  いつか寒い凩《こがらし》が吹く頃になっていた。  有朋が西周を呼んで草稿を検討した早春の庭草は、今では黄色く枯れて、裸梢になった木立の間からは、切株の早稲田田圃が凍った雲の下にひろがっていた。  一字一字書き写してゆくうちに有朋は、この文字がそのまま胸の中にふくらんでゆくのを覚えるのであった。軍隊という特殊な社会に堅固な精神的防壁を造り上げたのだ。天皇という絶対性のための権威の陣地構築であった。  三条は、その浄書を手に取って一読したあと、これは大へんによく出来ている、と賞めた。 「ついては、この公布の期日ですが」  と有朋は言った。 「今年もあと残り少くなっているので、新年早々の政始《まつりごとはじめ》に、お上から陸軍大臣に御下賜というかたちをとりたいと思います」 「それがいいでしょう」  と、太政大臣は痩せて頼りなげな顔をうなずかせた。  明治十五年一月四日、宮中御座ノ間に大臣、参議並びに諸官がならんでいる前で、大山参議兼陸軍卿は天皇から勅諭を受けた。有朋は、その横に侍立していたが、肥った大山が巻物を両手で受取った瞬間、彼の眼は感情が一時にこみ上がって潤んできた。  これで軍隊は天皇に直結し、天皇は幕藩時代の君主の位置にあって、殉死的な「忠義」を強制することができる。かたちの上では、天皇が軍隊を私兵的に直接指揮するのである。統帥権の発生であった。これによって初めて参謀本部長が、陸軍卿の上奏を経ずして、直接天皇に単独発言する意義が充実したのである。  しかし、有朋は、無意識に一つの作業を成し遂げたのだ。軍隊が天皇に直接従属することは、天皇を抱えこんでいる藩閥政府官僚に軍隊を密着させることであった。 「兵馬の大権朝廷にあるを具《つぶ》さにのべ給ひて、勅諭を軍人に下し給ふ」  と報じた明治十五年一月七日の新聞には、同日、さきに仮皇居の門前で割腹自殺を企てた小原弥惣八伍長の判決文を載せた。 「陸軍歩兵伍長小原弥惣八 其方儀|一己《いつこ》ノ私見ヲ挟ミ、過激ノ書ヲ作リ、之レヲ皇居御門前ニ捧ゲ、不束《ふつつか》ノ所業ヲ為ス科《とが》、軍人ノ本分ヲ忘レ禁令ヲ犯ス、其情軽カラザルヲ以テ官ヲ褫《うば》ヒ、禁獄一年申付ル」      28  一月四日「軍人勅諭」を出した山県有朋は、わずか二日経った六日、大山陸軍卿と共に、財政の許す限り徴兵令掲示の全員だけは十五年度、つまり、十六年の募集期限から年々徴募することを定めて、これを徴集することに決した。  一方に「軍人勅諭」を出して軍隊の精神的な秩序を規定すると共に、電光石火のように軍備拡張に持ってゆこうとする。  有朋がこのことを考えたのは数年来だが、前年から具体的な腹案になっていた。  彼は前年の明治十四年六月に軍事視察と称して北陸、山陰道を巡視した。雨の降る日、随員数名を従え、馬で中仙道に向った。  北陸地方は有朋にとって戊辰《ぼしん》の役《えき》の旧戦場だ。北越戦闘の際に官軍の本営であった小千谷《おぢや》に入ると、ここでは十四年前に知り合った人々の出迎えをうけた。  有朋は、当時参謀として西園寺公望《さいおんじきんもち》の下に越後兵と戦ったが、長岡藩の河井継之助《かわいつぐのすけ》に苦戦をさせられている。長岡城に入城しながら、敵の夜襲を受けて西園寺も有朋も倉皇《そうこう》として逃走したことがある。  有朋は、このことを自らの筆で「越の山風」に書いている。 「余等モ廿五日ノ暁天ニ栃尾ヘ向ケテ進発スルニツキテハ、過日来軍状視察ノ為メニ逗留シ居タル慰問使ノ森清蔵モ、同時ニ京都ヲ指シテ帰リ去ルコトヽナリシヲ以テ、廿四日ノ夜ニハ、奇兵隊ノ本陣ニテ、之ガ為メニ別杯ヲ酌ミ交シ、雑談ニ夜ヲ更シタルガ、余ハ独リ諸子ニ先ダチテ寝ニ就キタリ。  然ルニ未ダ幾モアラザルニ、福田等ハ余ノ枕頭ニ来リテ、呼ビ醒シテ曰ク、只今今町ノ方向ニアタリテ、火ノ手ノ揚ガレルハ、恐ラク進撃軍ガ已ニ攻撃ヲ開始シタルモノナルベシ、我々モ最早出発スベキ刻限ナラン乎ト、因ツテ時計ヲ検スレバ、一時ヲ過グルコト未ダ多カラザルノミナラズ、火ノ手ノ揚ガレルト云フガ如キ、頗ル不審ニ堪ヱザルモノアルヲ以テ、余ハ蹶起シテ諸子ヲ警戒シ、急ニ斥候ヲ萩原ニ命ジテ騎馬ニテ出デヽ模様ヲ見セシムレバ、豈ニ図ランヤ、敵ハ已ニ城下ノ町ハヅレニ押寄セ居レリト云フ、焉《いずく》ンゾ驚愕セザルコトヲ得ンヤ」  当時、官軍は二十五日をもって長岡から東方に向けて進撃する予定だったが、その前の晩に突如として越後勢の奇襲に遭ったのである。このとき長岡市中では、思いがけない長岡勢の帰陣に、大手通りには酒樽の山を築き、鏡をぶち抜いて長岡勢を接待し、兵士も、町家の子女も、「お山の千本桜、花は千咲く、なる実は一つ」と長岡甚句を踊り出した。また、市中の老若男女は路傍に平伏して、あるいは数珠《じゆず》をかけ、泪《なみだ》を流して父母に再会の思いをなしたという。  有朋は、この戦闘の激しかった鯨波駅を過ぎるとき、得意の詩を作った。 「雪ハ米峰ヲ圧シテ寒光アリ。雲ハ佐島ニ横《よこた》ワリ海|茫茫《ぼうぼう》。車ヲ停メテ憶起ス当年ノ事。此ハ是明治ノ新戦場」  長岡勢は何故にあのように強かったか。それには敵将河井継之助の好指揮もあったが、やはり何代もつづく「君恩」に燃える忠義の志によるものだ、と有朋は思う。また、一たん敗走した長岡勢が再び長岡の市中に入ると、市民がこぞって狂喜したのは、「外敵」への一致した敵愾心《てきがいしん》によると有朋は解釈する。  有朋が軍備の拡張と同時に「国民の眼」を「外」に向けようと考えたのは、この北陸視察中の感想であった。その現象が目下無いではない。彼の眼は早くから朝鮮に向っている。  有朋は、八月十日に旅から帰ったが、直ちに軍備拡張案の具体策の検討に入った。そして、同時に「軍人勅諭」の完成を急いだのだった。  有朋が当時考えた軍備拡張の意見は、大体、次のようなことだった。  ──国軍の建制は、もともと各軍管に一軍団を設置するという組織であったが、国力が許さないので、現在まで僅か四万余の常備を配置するにすぎなかった。明治六年に徴兵を施行して、すでに数年を経たが、まだその常備員すらも満たすことができない。現に仙台鎮台に歩兵二個大隊、砲工兵各一中隊、名古屋、広島両鎮台共に砲工兵各一中隊の欠員がある。これは畢竟止むを得ない事情で全備に至らないわけだが、わが国の国体上から論ずるときは、たとえ徴兵令掲示の兵員を全備しても、まだ満足の兵備ということはできない。況んや前述のように兵備上の一大欠点があるのは、独り体面に関するのみならず、いま宇内《うだい》の形勢を観るに安閑としているときではない。万一有事の日に際して、はじめて兵備の不完全を論ずるのはすでに遅しと言わざるを得ない。よって、たとえ財政上若干の影響を及ぼすとも、徴兵令掲示の全員だけは明治十五年度、即ち十六年の募集期限より年々徴募することにする。  有朋が「宇内の形勢」と言った言葉に符節を合わせたかのように、翌十五年七月には朝鮮京城の事変が起っている。  彼は大蔵卿松方正義と謀って、煙草の増税で陸海軍拡張の予算に充《あ》てようとした。  有朋は京城事変の翌月の八月十五日にはそのことを建議した。 「……王政維新の際、藩屏《はんぺい》の任を解き、更に陸海軍を置き、護国の職を授く。是を以て、往昔武門武士の争を講習せし所の者は偏《ひとえ》に軍人に止まり、即ち全国士民の一小部分の間に在るに過ぎず。其他は挙げて欧洲開明の流風に馳騁《ちてい》し、文華の余芳を摘弄す。故を以て人心漸く軽躁浮薄に陥り、苟安《こうあん》姑息を計り、空理虚談を喜び、勇敢活溌の気概に乏しく、尚武重義の志|復《ま》た振はざるに至る。深慮の士誰か長嘆せざらんや」  つづいて次のように述べた。 「其嘗て隣邦兵備略を進呈し、傍ら此等の事に及び、区々の微衷を陳したり。爾来此事に任ずる者、日夜|黽勉《びんべん》、辺備緒に就けり。抑も我の以て其力を角せんと欲する所の者は、痛癢《つうよう》の感、急迫ならざるの国に在らずして、直接附近の処にあり。況や目今焦眉の急あるに於てをや」 「直接附近の処」とは、言うまでもなく朝鮮を指している。このときはまだ京城事変は終局にきていない。  朝鮮の政界には開化党と守旧党とがあり、開化党は勢力を得て政府の実権を握っていた。その有力者|金玉均《きんぎよくきん》は日本に来て制度文物を視察したが、帰ってからは内政を改革し、政府の重要な地位を悉くその党員で占めた。軍事に関しては、陸軍工兵中尉|堀本礼造《ほりもとれいぞう》を教官に招聘して、その指導のもとに将兵に新式の訓練を施していた。  一方、守旧党は、国王の実父である大院君を盟主として開化党の擡頭に不満を持っていたが、たまたま兵士の食糧について不正があり、これを大院君に訴えた。これを契機として大院君は兵隊を夜陰に乗じて王宮に乱入させ、王と王子に迫り、また王妃を殺そうとした。閔妃《びんひ》は身をもって逃れたが、兵士は堀本中尉以下七人を殺し、公使館に迫って火を放った。  花房公使は逃れ、イギリス測量船に乗って長崎に着いた。  有朋は、朝鮮のこの騒動の報告を聞くと同時に、東京鎮台の騎兵一小隊、輜重兵《しちようへい》一小隊、輸卒、憲兵若干を福岡に派遣して、熊本鎮台の兵と共に混成旅団を編制し、待機させた。  これが数日のうちに実行できたのは、有朋がかねて研究していた動員計画に基づいたものである。  井上外務卿は馬関に行って指揮し、花房公使を護衛するため陸軍少将|高島鞆之助《たかしまとものすけ》、海軍少将|仁礼景範《にれかげのり》に二個中隊の兵を率いて渡韓させ、厳重に談判を開始した。  この処置に当って閣議の中で対韓温和論と強硬論とが分れたのは、韓国の背後に清国があったからである。      29  八月五日には戒厳令を制定した。  有朋がこれを作った気持の中には、外との「一朝有事」の際に備えるという表面上の理由以外に、自由民権運動への防遏《ぼうあつ》の意図があった。  有朋は、去年、北陸、山陰地方を旅行したが、到る処で自由民権運動の熾烈《しれつ》な有様を目撃してきた。殊に現在は板垣の自由党に加えて大隈の改進党が新しく出来て、民権運動はますます盛んになってきている。このままに棄てておくと、いつ全国に暴動が起るかもしれない。これを有朋は惧れるのだった。  それまで地方に暴動が起った場合は、単に地方長官の要請によってのみ軍隊が鎮撫に赴くことになっていたが、戒厳令は太政官布告第三六号によって組織的に動員計画を行なおうというのである。これによれば、戒厳地一般における戒厳の効力として、地方行政事務、司法事務が司令官の管掌に属するほか、特別警察権が司令官に与えられる。従って、万一、各地に民権暴動が起れば、必要なら、いつ何どきでも鎮台兵を出動させて、「天皇の軍隊」が人民の集団を個々に掃滅することが可能になる。 「京城事変」(壬午《じんご》の変ともいう)の勃発は、このような「危機を孕んだ内憂」に備えるのに絶好の口実を与えたのであった。  ここで有朋は、去年の旅行中に思い出した戊辰の役の長岡勢の猛烈な反撃をもう一度想起することになる。即ち、「京城事変」は日本国民の「外敵」への敵愾心を煽るに最も役立ったものだった。  その年の十二月十二日に地方官会議を東京に召集したが、その会場延遼館に、有朋は右大臣岩倉や閣員一同と出席した。このとき、彼は軍備拡張に伴う課税問題について演説した。  さらに天皇の詔勅がここで読み上げられた。 「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ、国家ノ長計ヲ慮リ、宇内ノ大勢ヲ通観シテ戎備《じゆうび》ノ益々皇張スヘキコトヲ惟フ。茲ニ廷臣ト謀リ、緩急ヲ酌量シ時ニ措クノ宜キヲ定ム、爾《なんじ》等地方ノ任ニ居ル。朕カ意ヲ奉体シテ施行|愆《あやま》ルコト勿レ」  詔勅には一つの型が出来ているが、「祖宗の遺烈」とは歴史性を無視し、または歪曲《わいきよく》した表現である。日本史を調べてみて、歴代の天皇の位置がどのようであったか、また、それが中世以後永い間の幕府によって影をうすめられ、「遺烈」どころの騒ぎでなく、天皇の意志が幕府によって屈従されてきたことは、ここでは一かけらも出ていない。このことは「軍人勅諭」の冒頭に出されている皇室の史的叙述のアイマイさと照応する。  しかし、有朋は、このような荘重な字句を喜んだ。  その荘重さが天皇の「神」であることに最も文体が似つかわしいからである。それを神前で奏する神主の祭文と比較すると、その酷似性がよく分る。  明治初年に神道が日本古来の宗教であるとし、仏教は外来宗教ときめつけて神仏|混淆《こんこう》を分離し、いわゆる排仏毀釈《はいぶつきしやく》を行なった。このことは国粋的なものへの復帰とされているが、これがのちに発展して外来思想の排斥につながる。「復古精神」は「祭政一致」に持ちこまれ、さらにこれが天皇の神格化に結びついてゆく。  宮中でいかに祭祀が多いかは、「皇室祭祀礼」による大祭だけでも元始祭以下十三の祭祀があり、さらに小祭には歳旦祭以下九つ、別に準大祭、準小祭、さらに「祭祀令」所定以外の恒例祭祀、たとえば、大祓、除夜告祭等がある。この中で、たとえば大祭十三祭のうち、神嘗《かんなめ》、新嘗《にいなめ》二祭のほかはみな明治時代に創製されたのだから、天皇の神格化につれて次々とふやされてうるさいほどの数になったのである。勅語の形式が祭文式になってゆくのは当然といえる。  また、詔勅の文章が抽象的なのもその特徴で、あまり具体的に示すと天皇の責任問題を惹き起すおそれがある。責任はすべて「臣下」にあるものとして、なるべく象徴的な言い廻しとする。具体的な表現は、天皇がそれだけ人間臭くなる。  地方長官会議で山県が述べた演説の要旨は、彼が数日前から椿山荘の一室で練り上げたものだった。彼はどのような草案でも、陸軍省罫紙に筆書きできちんと丹念な字を書いていった。抹消した文字の上は、自分で鋏と糊を使い、叮嚀に貼りつけてゆく。  彼は言う。 「わが国の現状は、条約改正、隣国修好の二大問題を抱え、内においては国家の命脈に関する一大変革ともいうべき国会開設を控えて、内憂外患あわせ至るの時期である。国政の困難多事なることは、既往十五年間未だ曾て今日の如く甚しいことはない。  元来、国家の独立には強大の兵力を必要とするが、わが国の軍備はその点において甚しく不十分であり、しかも、清国の軍備が着々充実に向っていることを考えれば、軍備の拡張は実に焦眉の急である。政府は、この拡張の財源を煙草、酒類に対する課税に求めることにしたが、この増税計画が一たん公にされた暁には、一時世情は騒然たる景況を現出するであろう。けれども、今日これを措いてはほかに方策はない。もし徒らに国内の物議を恐れて実行を怠ると、国家はまさに滅亡に至るであろう。今日われらの取るべきものはただ断の一字のみである」  詔勅については、別に三条太政大臣の「奨諭」がある。 「本日出され候勅諭の御趣意は、専ら国家将来の大計を深く思召し、且つ方今の形勢を御洞察、陸海軍備の一日も忽《ゆるが》せにすべからざるを以て、今般一層武備皇張の御趣意に候ところ、右は巨額の入費を要せざるべからざる儀につき、今や国費不足の時たれば、歳入を増し、収税を課するの外なかるべし。然るに収税の儀は最も民心に関する儀につき、宜しく今般仰出されし聖諭を奉戴されたし」  と述べている。  有朋が、この増税を行なえば、世情は「騒然たる景況を現出し、国内の物議が起るだろう」と予想して、取るべき途はただ「断の一字のみ」と言い放っているのに対し、三条は収税の儀は「最も民心に関する儀」につき、「聖諭」を奉戴されたし、と述べている。  政府が軍備拡張のために増税を行なう結果、民間の不満をどのように怖れていたかが分る。ただ、有朋の放言は、その手の中に「天皇の軍隊」を持っているからであり、三条は、困難なことは何もかも「聖諭」に押し付けようとする神秘的隠遁性がみられる。  しかし、この「詔勅」は一般には公表されなかった。  当時において最も重要な詔勅がなぜ一般に発表されなかったか。有朋は、天皇が直接なかたちで増税の意を仄《ほの》めかすのを一般に見せたくなかったからである。彼は十二月十二日付で憲法制度取調べのため外遊中の伊藤博文に宛てて書簡を書いている。 「今回各地方長官召集の上別紙の通り勅語が被下、右の御趣意は充分徹底させ、それぞれ帰任させ候事|相運《あいはこび》、諸事隠やかに都合好く相纏り申候。尤も右勅語は世間に洩泄《せつせつ》致さざるやう注意致し、各地方長官へも一覧させ候上に有之候。此段|不取敢《とりあえず》御報申上度如斯御座候。 [#地付き]頓首」  なぜ、一般国民の眼から隠して、地方長官にだけこの詔勅を見せたか。ここに有朋の絶対主義があった。各地方長官は帰任したが、有朋の眼には、彼らのおとなしい姿が「諸事穏やかに都合好く纏って」見えたのである。      30  天皇が一般に発表する詔勅には極めて抽象的な字句を用いるが、重臣に対してはそれがもっと具体的になる。またそれでなくては意味が通じない。  二十二日には、三条太政大臣に「御沙汰」が下った。 「東洋全局の太平を保全するは、朕が切望するところなり。然るに、今度朝鮮の依頼あるに由り、隣国の交誼を以て、その自守の実力を幇助《ほうじよ》し、各国をしてその独立国たるを認定せしむるの政略に渉り、而して直接わが国益を将来に保護せんと欲するの閣議は、その当を得たるものの如し。然して隣国の感触より或は不慮の変あるに備ふるため、武備を充実するの議は、尤も国を護するの要点たり。但し、海軍拡張の如きは、その理論を定むる易くして、その実効を収むるを難しとする。その経費を永遠に支給するの計画は如何。又海軍現時の規制、これを外国に比照して完備なる歟《か》。士卒の訓練、これを実戦に用ゐて欠くるところ無き歟。その拡張の順序、着手の方法、さらに閣議を尽し、以て朕が意を安んぜよ」  天皇は、この「御沙汰」によって二つの設問をしている。  ㈰海軍拡張は理論的には正しいが、その経費を永遠に捻出する計画をどうするか。㈪軍備は外国に比して劣ってはいないか。士卒の訓練は実戦に用いて万全に出来ているか。  海軍拡張は、言うまでもなく、仮想敵国である清国を目標にして日本海、黄海を新戦場とする対策である。この「御沙汰」の中で「朝鮮の依頼あるに由り」というのは、言うまでもなく、事実のごまかしである。  次に「海軍現時の規制、これを外国に比照して」とある外国とは清国を指す。これまで仮想敵国だった清国が、「京城事変」を契機として俄然敵国となって前面に立ち現われたのである。  陸海軍の軍備拡張のために増税は必然的となってくるが、しかし、増税を軍備方面から見るのは一面のみの視点である。  物価は明治七年の佐賀の乱から米価の高騰によって騰貴し、十年の西南戦争によって急上昇する。そのインフレーションは十三、四年ごろ絶頂に達した。  その結果、物価は絶えず高低があり、着実な商工業は衰退して、投機業が独り盛況を極めた。また政府の会計は、紙幣下落のため歳入はほとんど実質の半分以下になり、一方、政務拡張のため歳出はますます増加し、政府は財政的に非常な困窮に陥った。このため政府の内外に対する信用は極度に失墜しかけていた状態だった。  政府の財政は、もっぱら地租収入と紙幣・公債発行とにかかっていた。ところが、農民からの取得を財源としていた当時の政府は、米価騰貴のために地租が総体的に減少となり、また紙幣・公債下落のための歳入減と、歳出膨脹は、致命的な打撃となって現われた。  のみならず、物価騰貴は入超によって正貨が海外に流出し、収拾のつかぬインフレは経済的危機の一歩手前にまで迫っていた。  有朋の発案した増税は、大蔵卿松方正義のデフレ政策を支持して、この経済破綻の因となっているインフレを抑止するの狙いがあった。しかも、この増税によって軍費の永遠増額保存を取得しうる。  三条太政大臣は、有朋が出した軍拡建議案に対して松方大蔵卿に意見を諮問した。松方はこれに同意したが、その答案の中で次のように述べた。 「増税の概額取調べ、前途支出の補填《ほてん》、審案規格したところ、造酒、煙草等の徴税額は一カ年大凡七百五十万円を収入し得べき見込みがあります。軍艦の維持費は逐年艦数の増加に従ってその額が嵩んだので、前年に余ったものを後年の不足に補うべき一種の計画を要する。且つ、現在の如く内国銀貨欠乏の際には海軍卿上請のような巨額の銀貨は目下支弁の途がないので、新艦製造費はまず以て年々通貨百五十万円を目的とする。右の新艦維持費に関わる費用及び東京湾砲台建築に関する一切の費用は、前同様の振合で増税金中より別途支弁にしたいと思います。  準備金中新に軍備部を置き、七百五十万円中交付の残額ある年は該部に移して国庫に保管し、不足の年は該部より支出補填するの法を設けます。而して、該部中の金額は誓って陸海軍更張並びに臨時補助に際し該軍費のほか一切支出を禁じ、今般増税の趣意を後年まで必ず貫徹さすようにしたいと思います」  その結果、十六年度には陸軍は百五十万円、海軍は二十四万円。十七年度にはさらに五十万円を加え、十八年度にはその上に二百万円を加えて軍事費の増額を決定した。  つまり、明治十五年現在では海軍の総艦数二十五隻、総トン数二万七千五百四十トンと、ほかに水雷艇一隻を有するにすぎなかったが、この軍拡案が通過して、大艦五隻、中艦八隻、小艦七隻、水雷砲艦十二隻、合計三十二隻を明十六年度以降八カ年で建造する計画を立てた。  陸軍では、この増税によって十六年度から仙台鎮台に歩兵二大隊、砲兵、工兵一中隊ずつ、名古屋、広島両鎮台に砲兵、工兵一中隊ずつ、各鎮台へ看護卒若干名を召募し、十七年度には各鎮台に六師団を置き、歩兵、砲兵の両隊の編制を改正、また十八年度からは歩兵、砲兵、騎兵三隊の編制を改正し、二十一年度までには鎮台に歩兵二十五連隊、砲兵六連隊、近衛に歩兵四連隊、砲兵一大隊、騎兵一大隊を完成する計画をもった。  松方大蔵卿が三条太政大臣の諮問に対して答申した内容は、事前に有朋との相談ずくの上であった。有朋は、この薩摩出身の財政家を何度も椿山荘に呼びつけて熱心に討議を行なった。  このとき、松方はひどく山県を喜ばせるようなことを言った。むろん、軍拡案もそうだったが、それ以外に有朋が一ばん今心配しているのは自由民権運動のことについてである。 「自由民権運動者たちには、主に地方の百姓どもが空前の景気に浮かれて、その費用をいくらでも受持っています。なにしろ、米価が天井知らずに上がって参りましたからな。しかし、今度の増税は、たしかに彼らに痛いと思います。次には、わたしは極端な財政の緊縮政策を採りたいと思います。このままでゆくと、わが国は戦争よりも先に経済的に破綻が参ります。この際思い切った方法を採らないと、どうにもならないところに来ています。ところが、この緊縮政策をやると、まず第一に米価が下落して参ります。今の米価は十一円二十銭ですが、わたしの案では今年中に八円台に下落させ、来年には六円台、再来年には五円台というふうに、どんどん米価を下げさせるつもりです」  松方は小肥りな顔に自信を見せて言った。 「このようにしますと、御維新以来、俄かに自分持ちの土地を貰った上、米価の高騰で有頂天になっている百姓は胆を奪われることになります。この前聞いた話では、越後あたりに東京方面から娘が身売りに出ているということですが、緊縮政策になると、昔通りに逆に越後女が東京に身売りをしてくる状態にかえるでしょう。そうしますと、今の民権運動の運動費となっているところは金をすっかりはたいてしまい、従って、運動自身も必ず資金の枯渇で動きがとれなくなってくると思います」      31  参謀本部長の山県有朋は、この年の二月に参事院議長を兼任した。伊藤博文が欧州に派遣されたあとを一時的に襲ったのである。  参事院は、大隈追放のあと、太政官の職制章程を改正した結果のもので、行政府でもなく立法府でもない、のちの枢密院と法制局とを合わせたような性格のものであった。政府部内の「俊才を網羅」して、国会開設の準備として、憲法と一般法則の調査に従事するのが目的であった。  有朋が参事院の議長になるのは、主に伊藤のすすめであった。三条も岩倉も強くこれを希望していた。 「わしは、一介の武弁じゃからのう」  というのが有朋の口癖であった。政治よりも軍隊づくりが彼の執念であった。  しかし、この言葉の中に、伊藤に対する青い炎が彼の心の中に、ちょろちょろと燃えていなかったとはいえぬ。大久保の死後、日本の政治は殆ど伊藤の一人舞台であった。天皇も、岩倉も、三条も、ほとんど伊藤ひとりをたよりにしていた。  同じ長州の足軽から出発して、どこで二人の運命が岐れたのであろうか。それまで日本の政治が大久保利通という薩州出身の男ひとりに運営されてきて、その下についていた伊藤が恵まれた能吏だったことに理由が尽きるかもしれない。大久保が仆れてみると、伊藤の前面は彼を遮る一本の樹木もなく、ひろびろとした曠野が展《ひろ》がっていたということになろう。  有朋も、大村益次郎の位置をついだ。たとえ西郷隆盛が生きていたとしても、西郷はもはや、老朽化した廃物にすぎなかった。しかし、ふしぎな回り合わせで、この老輩を討つことで彼の陸軍における立場は頂上となった。  西郷よりも大久保の死は八カ月遅い。だから、伊藤よりも有朋の栄光はそれだけ早かった。明治十年九月に有朋が西郷を城山に追い詰めた瞬間から、彼は陸軍の頂点にかけ登っていた。  しかし、伊藤は彼にすぐ追いついた。爾来、伊藤の活動は絢爛《けんらん》としている。そこは政治と軍隊との相違であった。「一介の武弁」と呟く有朋は己れを軍隊づくりの内にだけ閉鎖しようとする。それが次第に執念化してくるのであった。伊藤へのひそかな反撥がなかったとはいえない。  有朋は、自己のつくりあげた軍隊を何よりも大切に考えた。それは「忠義心」と同じように、殆ど偏執狂の考えに近い。軍隊の秩序の崩壊を防ぐために、「軍人訓誡」から「軍人勅諭」に進化《ヽヽ》する過程で、くどいように外からの政治思想の防遏に努力した。そのために、天皇を軍人の直接の頭首とした。軍隊を天皇の私兵化の形式にしたのは有朋だが、その意図こそ、有朋自身が陸軍を自己の私兵化していたのであった。 「政治をのぞいてみるのも、ええもんじゃ」  と、伊藤博文は、再度、椿山荘の庭にならんで歩きながら有朋に言うのであった。 「おぬしも、ちいとサーベルをはずしてみい。眼《め》ン玉が大きゅうなる。ここらで、民党の撲滅を考えてみるのも面白かろう」  有朋は就任を承諾した。  軍隊の中に、自由民権思想が侵入するのを恐れている有朋は、防禦から攻撃に転じようと考えた。攻撃が防禦の最大良策であることはいうまでもない。 「大隈の改進党も、なかなかやっちょるようだが、板垣の自由党と一しょになると面倒じゃの」  有朋は庭内の小橋を渡りながら、背の低い伊藤をのぞいた。 「なに、そんな心配はあるまい」  と伊藤は眉をひろげて言った。 「それには、着々と手が打ってある」  伊藤は、その方策というのをささやいた。いつぞや、伊藤がここに最初に来たとき、その意味をほのめかしたことがあるが、今度はそれを具体的に打ち明けたものであった。── 「京城事変」は、有朋が参謀本部長を兼任していたので、彼がこのわが国初めての「動員計画」を指揮したのはいうまでもなかった。  この事変の結果は、兇徒の処理、死傷者への五万円出金、五十万円の損害賠償、日本兵の駐屯(宿舎は韓国政府支弁、事態に応じて撤兵)、韓国大臣の謝罪などとなり、朴泳孝《ぼくえいこう》は来日してこの条約の批准を終った。  この事変を通じて、国民の外に向ける眼はどうであったか。有朋は注意深く新聞を読む。 「静穏な外国交際の中で、大いに中外の眼を注いだのは朝鮮の事件である。戦争に至るべきを避けて平和の局を結んだのは、わが国の光栄を東洋に輝かしたもので、最も慶賀すべきことである。ただ、この中で、憂うべきは、朝鮮と清国との関係である。清国は朝鮮をその属国なりと公言して、朝鮮の官民をしてわが国を疎んじさせ、清国に依頼する方向に傾けさせた。  この度、京城の変が起って、わが国の陸海軍が花房公使を護衛して朝鮮に向うと聞くとすぐ清国は、わが国が朝鮮を侵略すると思ったか、にわかに軍艦を朝鮮にさし向けた。この真意は分らないが、人心は日清両国の間にまさに衝突が生じるのではないかと怪しんだ。わが花房公使が兵を率いて京城に入り、一旦、済物浦《さいもつぼ》までひきあげると、入れ違いに馬建忠《ばけんちゆう》は本国から陸兵の来るのを待って京城に入り、大院君をその軍艦に誘致してこれを北京に護送し、清兵を京城の諸門に配置して警衛せしめ、大院君を清国保定府に抑留してその本国に帰るのを許さないなど、大いに朝鮮の内治に干渉する端を発した。このことは東洋の政略について関係最も重く、かつ大なるものといわなければならぬ。  京城の事変と清国の軍備増強とは、やむをえず、わが国陸海軍の軍備を拡張するの機会を促した。隣邦の軍勢からみて、陸海軍拡張の議は、輿論の急需なる一大問題に発展している」(東京日日) 「東京日日」は政府の御用新聞で、右の社説(取意)も福地源一郎が書いたものだ。福地は、自由党、改進党の民党に対立して与党の「帝政党」を創ったばかりである。  しかし、「京城事変」によって国民の眼が外に逸らされたことは、政府の御用新聞だけでなく、他の在野の新聞もことごとく同じであった。政府に最も反抗的な自由党員のなかにさえ同じ考えをもつものが多かった。  激烈な反政府意識をもった自由党の理論家植木枝盛さえも、後年の民権暴動の飯田事件の「檄文」のなかで書いた。 「十五年、朝鮮乱民暴起して、わが公使館を焚く、政府その罪を問はざるにあらず。而して清兵故なきに朝鮮に来り、朝鮮清国の属邦たるを明記して、これを京城に貼紙《ちようし》掲標し、馬建忠大院君を掌上に翻弄してこれを本国に騙し帰るに及んで、清国、日本の訂盟国を辱かしむるの極に達したり。而して、政府一回の詰問を清国に試むる能はず、ひとり侮りを清国に招くのみならず、笑ひを天下万世に来し、大いに後世歴史の汚点を造出するに及べり。あに誠に切歯に堪へんや」  この言葉こそ、有朋の待っていたものであった。十五年前の戊辰の役のとき、長岡の城下で聞いた「外敵」への同じ声であった。──  明治十二年九月の鎮台条例の改定では、軍備の対象が民権運動の勃興に対処して「管内の騒擾《そうじよう》」や「管内の草賊」におかれて、国内用の軍備であったものが、今度の軍拡案で急に「対外用」の軍備となる。  しかも、有朋の心は、この「大軍備」によって「国内の草賊」たる民権運動を一挙に威圧しようというのであった。      32  有朋は朝が早かった。  暗いなかで、洗面所から主人のがらがらと咽喉を鳴らす嗽《うがい》の音がする。それから書生を呼ぶ。馬に乗りたければ別当を呼ぶ。  槍と馬は一ばん好んだものだった。槍は長州の奇兵隊時代から得意にしたもので、九尺柄を襷《たすき》がけでしごく。座談のときには思わず姿勢がその身構えとなって出てくる。身体を斜に構えて左手を長く突き出す癖がその現われだった。汗をかくと、全身を冷たい水で拭き上げ、着物を更えさせる。  彼は五尺六寸に少し足りなかった。体重は十三貫五百で、十四貫に上がることはなかった。この軽量は彼の痩せた身体からくるもので、さらに、それは年来の胃腸病が原因であった。  着物は、身丈《みたけ》三尺七寸、裄《ゆき》一尺七寸五分、袖丈一尺三分五寸、後幅七寸八分であった。着物の仕立はなかなかうるさい。彼は寒がり屋だった。二枚も三枚も重ねないと悪寒を感じがちだった。平生は、この上に小倉《こくら》の袴をつけている。背が高いので、和服はなかなかに似合った。  騎馬は彼の最も好む一つで、閑なときは隅田川堤あたりまで遠乗りをした。  酒は若いときから飲むほうだった。柳橋に出かけても一升ぐらいは飲むことがある。  ただ、野菜には神経質なくらい気を使った。自分の胃腸の弱いことを知っているので、消化が悪いと言って野菜の繊維を毛抜きで抜かせたりした。そのため毎朝の厠では自分の脱糞を見て検べた。  睡眠は少く、大体、五時間程度だった。夜は調べものが多いし、人も訪ねてくる。  軍人関係だけでなく、伊藤の外遊の留守を預ってからは内政方面の勉強が多かった。  彼は、軍隊という自分のつくった特殊社会に世間の風潮が当らぬように、極度に気を遣った。民権思想の撲滅は何よりの執念であった。このために、彼は若い役人たちを呼び寄せては話を聞いた。その間に煙草をしきりと喫う。尤も、肺臓まで吸い込むことはない。いつも口先で煙を吹かしていた。  機嫌のいいときは、反歯をむき出して笑い、落ち窪んだ眼窩の奥の小さな眼が糸のように細まるのだった。不機嫌なときは、うすい眉の間に深い皺をつくり、横に広い口が一文字に結ばれた。三十歳をすぎてから、眉だけでなく、頭髪が次第にうすくなってきていた。  それで口髭を生やしたが、これはひどく見劣りがした。一度、ほかの連中に倣って顎鬚《あごひげ》を蓄えかかったことがあるが、ものにならぬと諦めて中途で止した。  生活は質素であった。帯は使い古した博多帯で、足袋《たび》にも継ぎがいくつも当っていた。兵児帯は決して用いなかった。  彼の耳には伊藤の奔放な性行が噂となってしばしば入る。そんなとき、彼の心はことさらに質素に向って行くのであった。好きな女は一人もなかった。  妻の友子との間に幾人もの子供が生れているが、多くは育たずに早世した。いま、家にいるのは二女の松子だけだった。  食べものも贅沢ではなかった。しかし、常に胃腸を気にするため小むずかしい選択となった。宴会でも箸をつけぬ料理が多い。しまいには手弁当で宴会に行くようにもなった。但し、筍だけは好物で、それが胃腸の消化に悪いと聞かされても、これだけは止めようとはしなかった。海豚《ふぐ》は若いときから嫌っていた。  彼は時計を見るのが好きだった。古びた銀時計に秒針が回転してゆくのを眺めていると、彼は何となく陸軍の動員計画を想像するのだ。命令が伝わってから鎮台兵が完全武装で出動するまでの時間、輸送の時間、戦闘配置の時間、それらが眼に泛んでくる。これは、参謀本部長時代に桂太郎などと十分に練り上げた案で、時間の短縮は彼の脳髄に沁みこんでいる。  人が約束から遅れて来たといえば、その時間を計り、面会の時間が長引いたといえば、時計を見る癖がついた。  要するに、彼の生活は外から見て少しも面白くないものだった。酒は飲んだが、女はつくれなかった。羽目を外して騒ぐということもない。もし、ほかの者が騒いでいる席に彼の長身が入ってくると、すっと影が射したように一座が暗くなるのであった。  彼は和歌と庭とを愛した。それ以外に道楽というものはなかった。  彼はその旧主毛利家の顧問となった。しかし、特別に当主を敬愛していたのではなかった。彼はその青年時代はただの足軽の子にすぎなかった。むろん、父親も、祖父も、君主の顔を見たこともない目見え以下であった。藩閥に対する意識は強かったが、それは君主を中心にしたものではなかった。いわば横だけの同族意識にすぎなかった。  それでも、彼は何かのことがあれば日比谷門外の毛利邸に行き、威儀を正して旧主の前に伺候した。彼がそれほど旧主に親しみを覚えなかったのは、維新当時、この旧主父子が優柔不断であったことが記憶に強かったからでもある。彼は旧主藩邸ではできるだけ「足軽の子」としてへりくだってみせた。旧主一族も彼に対しては眩しい顔つきになった。少くとも伊藤と対《むか》っているときとは表情が違っていた。  彼は陸軍部内の動静には最も神経を使った。彼は数多くの腹心を持っていたから、たとえ一時的に参事院を兼務しても、その位置に心配することはなかった。ただ、この前の北海道官有物払下げ問題で、谷干城、蘇我祐準、三浦梧楼、鳥尾小弥太の四将軍が政治的な問題で上奏を起したとき以来、彼らの動静には殊のほか気を配った。  彼は、軍人が政治に関与すべきでないことをその「軍人訓誡」に述べたが、さらに「軍人勅諭」でもそのことをうたった。しかし、「軍人勅諭」は兵士を対象としたもので、上級将官には及ばなかった。彼が軍人の政治関与を遮断したのは、外部からの政治思想、特に自由民権運動の侵入を阻止するためにあった。四人の将軍が北海道問題で上奏を起したのは、彼に対する反撃とみた。四人とも彼とは反対のフランス兵制論者であった。  彼はこの四人の系列の中に誰が入っているかを仔細に調べさせた。一時は統制を乱すものとして四人の免職を考えたこともある。そのために、彼は秘かに部内に四将軍の排斥の声が起るよう他の者を唆《そそのか》した。  だが彼は、彼らの「反逆」はそれほど怖ろしいとは思っていなかった。今や自分の地位に絶対の安心があった。ただ、この際、どのような分子でも彼に歯向うものは軍隊の基盤を崩すものとして撤去しなければならなかった。その神経質なことは、恰度《ちようど》、消化に悪いため野菜の繊維を毛抜きで抜くと同じくらいであった。  彼は参事院議長に移ってからは民論の抑圧に懸命となった。彼は、このような議論が盛んになるのは人が集合し、その中の煽動分子が愚昧な人民を煽《おだ》てるからだと思った。だから、集会を禁止したらかなりの効果が上がると思った。集会条例の改正は、その考えから行なわれた。  事実、彼の眼から見ると、民権運動を唱える者は、何も知らない、ただの無知な百姓だと思っていた。集会条例の規制で官憲が蹴散らせば、そのことが終熄《しゆうそく》すると考えていた。  彼は国内の状況をヨーロッパにいる伊藤に刻々と報告した。その書翰のほとんどは、密偵からの報告が「探偵書」として同封されてあった。このような密偵は、ほとんど警察のほうから上がってきたものである。  彼は極めて几帳面であった。重要な書類は自分で始末した。乱れ籠を二つ用意し、一つは彼自身でなければ取扱いの出来ないものだけを入れていた。「探偵書」は、そういう籠の中にいつも入っていた。彼はそれを読むと封筒に入れ、自分の字で閲覧した時日と、中身の要領を表に簡単に書き留めておいた。  彼は自由党と改進党の動きから眼を離さなかった。その報告もほとんど、密偵から送られたものが多かった。  彼は庭の闇の中にうすぼんやりと残っている白い花をのぞきながら、ランプの芯を掻き立てる。文字は彼の性格を表わして謹厳であった。  伊藤に送る書翰が多かったのは、「内治」に関してはいつも伊藤に劣等感を持っているからだった。彼は自分以外にそれほど怖ろしい者がいるとは思わなかったが、伊藤にだけはその影に怯えていた。 「将《は》た内閣一統無事、勉励御休神是祈候。只不能之小官大任に当り、今更不[#レ]堪[#二]汗顔[#一]候。乍《さり》[#レ]去《ながら》此際閣議一途に、此の一片精神を貫き維持致候外、他算無[#レ]之。却説《さて》本邦之事情に付而《ついて》は、別書|御瀏覧《ごりゆうらん》之上御洞察|所《あおぐ》[#レ]|仰 《ところに》候。又内事に就而《ついて》は、過日集会条例修正せざる可からずとの一事|差起《さしおこ》り、閣議を尽し、反覆討究の結果、提出せし故、別書供[#二]御覧[#一]候……」  伊藤への消息文は鄭重を極めた。      33  有朋が会うのは、軍人よりも、次第に政府の要路者や政界人が多くなってくる。  このようなときに、彼は板垣退助の岐阜での遭難を聞いた。つづいて板垣の洋行問題の相談も受けた。  板垣には、自由党の創設が一段落したあと、ヨーロッパの政党政治を見てきたい意志があった。恰度、伊藤が憲法取調べに渡欧する頃、板垣の意志は後藤象二郎《ごとうしようじろう》に語られた。後藤からの話が伝わって彼の耳に入ったのである。  話によれば、板垣の洋行は強い希望だったが、肝腎の費用がなく、板垣がこのことを後藤に相談すると、後藤は、費用は自分が調達するから、二人で出かけようではないか、とすすめた。板垣は、後藤の調達する洋行費がどこから出るかは訊かなかったが、板垣だけの合点では、蜂須賀家から出してくれるものと考えていたようであった。  有朋は、板垣の洋行意志はまた伊藤からも前に聞いていた。伊藤がドイツに出発するときに、板垣は別れの挨拶に伊藤を訪問したが、このとき、伊藤は板垣にも外遊をすすめた。板垣はこのときも費用がないと言っていたので、伊藤は井上|馨《かおる》に対して板垣に外遊をすすめるように言い遺したというのである。  これからのちの経緯《いきさつ》は、有朋の耳にも来客の口からたびたび語られて入った。  井上は、参議|福岡孝弟《ふくおかたかちか》の邸で後藤と会ったとき、伊藤と板垣の意志を話し、後藤も何となく沈滞気味であったから、この際、君も板垣と一しょにヨーロッパに行ってはどうか、と話した。  井上は、その金の出所について、内密に人を使って三菱社長|岩崎弥太郎《いわさきやたろう》に掛け合わさせたら成功するだろうと考えていた。  後藤は板垣に外遊をすすめることは承知したが、ただ、その金が政府の斡旋だということが板垣に分っては板垣も承知しないだろうし、自由党内でも反対論が起るに決っているので、絶対秘密でなければ困る、と言った。 「なにしろ、岩崎という人物は、少しの金でも人を援助するとき、きっと、他日、いろいろなことでその代償を求めるので、そんな圧迫があっては困る」  というのが後藤の意見であった。後藤はその実例をいくつも挙げた。  井上は後藤の意を了承し、仲立となっている土佐藩出身の岩村通俊《いわむらみちとし》にその意をよく含めさせた。そこで、岩村は岩崎に対して、板垣に外遊費を調達してやりたいから、その金を自分に貸してもらいたい、と申し込んだ。  岩崎は、同じ土佐出身の参議|佐佐木高行《ささきたかゆき》に使者をやって、いま、こういう話を受けているが、板垣の外遊は政府が世話をするのか、と訊ねた。佐佐木は、板垣の外遊には政府は何の関係もない、と答えたので、岩崎は岩村の借金申込を普通どおりの貸借とし、返済期限を定め、且つ抵当を要求した。  岩村はそれに応じることは出来なかったので、金策は結局不調に終った。だが、岐阜で板垣の遭難もあったりし、井上は板垣の外遊をほかの方法でしきりと考えているうち、大蔵卿松方正義に相談した。  松方は、三井銀行支配人|三野村利左衛門《みのむらりざえもん》に相談したところ、三井銀行では、当年限り廃止と決められていた陸軍御用達を十八年度まで延期してくれるなら二万ドルは御用立てしよう、と返答した。三井銀行としては、その借金に応じる代り利権の延長を図ったのである。  こんな話が井上馨から有朋のところに頻《しき》りとくる。本人の井上は馬車で椿山荘にやってくるのだが、もともと、二人は青年時代から聞多《もんた》、狂介の間柄であった。  陸軍御用達がどのように儲かるかは、急速な三菱の勃興でも分っている。前に有朋を苦境に立たせた山城屋和助《やましろやわすけ》も陸軍御用商人であった。 「この際、板垣を外に出して息抜きさせることは、政府にとっても利益じゃからのう」  と、井上はむくんだような扁平な顔で言った。 「板垣は洋行をひどく熱望しているが、なに、あの男だって征韓論で野に下ってからは、やはり政府の座に未練がたっぷりとある。それに、岐阜で殺されかけたことも奴にとっては大分参ったらしい。正直言って、板垣もこれから先、ごろつきばかり集っているような連中を率いてゆくのは、少々くたびれたというところじゃないかな。そういうことで、板垣を洋行させるのは自由民権運動を下火にさせる絶好の機会だと思う。三井は商人だから、陸軍御用達の延長を代償に持ち込むのは当り前だ。山県、おぬしの決心一つで陸軍のほうは何とでもなる。ひとつ承知してくれぬか」  有朋は、自由民権運動が下火になるというのが何よりの魅力であった。そのためには、三井の三カ年の利権延長はいと容易であった。彼は、その尖った顎を大きくうなずかせた。 「但し、板垣はああいう男じゃし、自由党も政府の斡旋で三井から金が出たとなれば蜂の巣をつついたようになるじゃろう。それで、後藤に言い含めて、その金はあくまでも蜂須賀家から出ているようにしておく」  その辺のことも承知してもらいたい、と言って、井上は庭を歩いたりした末に帰って行った。  彼には機嫌のいい日がつづく。遠乗りをしては眼にふれた風景を忽ち歌に詠んだりした。  相変らず客は多い。板垣と後藤の洋行はぼつぼつ話題になりかけていた。訪問客は持っている情報を吹聴する。主人は威儀を正して黙々と聞いていた。  もともと、板垣の自由党も、大隈の改進党も「藩閥政治打倒」「自由民権」の共通の旗印を掲げていたが、両党の融合はなかった。このことは、自由党の基盤が農村にあるに対し改進党が都市中心で、大体、大隈直系の子分が官僚上がりや学者で固められた通り、知識階級の支持層が地盤であった。一方は大衆的な行動性であり、一方は書斎派的理論性であるということでもある。この性格の相違が互いの軽侮となり、反撥となっていた。  この敵側の不融和は、もとより彼の喜ぶところであった。  そのうちに、板垣の洋行問題は自由党内部でも強い批判が起っているという話が彼に伝えられた。馬場辰猪《ばばたつい》、大石正巳《おおいしまさみ》、末広重恭《すえひろしげやす》などは、板垣の洋行費の出所に疑問があるという論旨であった。  大隈の改進党系新聞に、ぼつぼつ板垣洋行費を皮肉る記事が出はじめた。 「旨い露水火《つゆすいか》の戦《たたかい》 ○雉子《きじ》は少し羽を広げて居て蛇に充分巻せ、後で羽ばたきをして蛇を寸断寸断《ずだずだ》に切《きる》と云ふ話は聞て居るが、今村とか岡村とかに住む貴紳《きじ》の群は、こんな物を咥《くわ》へさゝれたから、其働も自由とは行まい、難蛇官蛇と云ふても、流石《さすが》蛇の道は変身で、堂やら籠絡《しめ》られた様子だワイ」 「蝦《えび》で鯛つり ○餌では種々《いろいろ》気を揉でみたが、民けん蝦《か》ぐらゐよく釣れるものはない、一寸これを用ゐたばかりでモウ掛たワ、有りが鯛/\」 「自遊の怨説 ○女『己はなア/\、能《よう》も人をば出し抜《ぬい》たナ、是迄固めた約束も、今更寝耳に水の阿波、土佐魂は斯《こん》なものと知らで、今日迄連れ添ふたが私《わし》や悔《くやし》く、腸《はらわた》も煎《に》えくり返て焚《や》け付く様だ』男『訳を知らねば怒るも尤、実は余儀ない友に誘れて、マヽ其処放せ左《そ》う急《せ》き込こんでは話が分らぬ、あ板々々。い退と言つたらい退ワイ」 「フーキ星 ○大勢で眼を注つけて見ても、何処から出て来るのかさつぱり分らない、奇妙な星だ。アレ/\雲の上へ天窓《あたま》を些《ちつ》と突込み掛た様だが、尻尾《しつぽ》は中々隠れない、成程金の光りは別段なもんだ」  彼は、新聞は丹念に読むほうだった。  このような厭がらせの記事は、ほとんどが改進党系の新聞だった。板垣の洋行費の問題では相当妙な眼で見ているらしいが、真相は、誰もはっきりとは知っていないようである。金はあくまでも蜂須賀家から出ていることにし、板垣当人もそれを信じているからだ。  すると、或る日、人が来て、一切の内情は改進党に分っているのみならず、馬場や大石などにそのことを内通した者があるというのだった。 「誰だね?」  と、主人は細い眼をきらりと光らす。 「岩崎ですよ」  と、客はその次第を語った。      34 「三菱は」  と、客は言った。 「板垣の外遊費が三井から出たということを嗅ぎ出したのですね。誰が洩らしたか分りませんが、三菱は、大隈が政府を去って以来、これという政府の要路者がいなくなって、すこぶる不便を感じていたのです。板垣の洋行費のときも、佐佐木高行から相談を持ちかけられたときに岩崎が断ったのは、その金が政府に関係がないと聞いたからです。ところが、その後三井が出したということを聞いたので、岩崎は大いにうろたえたわけですね。三菱は、西南戦争以来、政府という大得意を持っていたのですが、今度、それを三井に奪われるとなると大変なことになるというので、もともと、虫の好かぬ板垣の外遊計画をぶち壊すことに出たのです。そこで、馬場には板垣の外遊費が政府から出たということを告げ、いかにも自由党は板垣に売られたように尻をつついているのです。いや、自由党は今、そのことで蜂の巣をつついたような状態です」  その後の情勢は、ひきつづいて彼の耳に入ってくる。客は入れ替り立ち替り広い庭に面した彼の応接間に現われた。昼間のときもあり、夜もあった。  客は言った。 「馬場は板垣の洋行に反対していますが、一応、板垣の体面も考えて、政府からその金が出たことにはふれず、外遊反対の理由をほかに向けて、党首の不在中党費が不如意になるおそれがあると言っているわけです。板垣はそれを正直に受け取って後藤などといろいろ相談した結果、星亨《ほしとおる》という代言人がかなりな金を持っているのに眼を着け、彼にすすめて入党させました。星という男はまだ三十三歳ですが、なんでも、陸奥に見出されて一時は横浜の税関長をしたことがあるそうです。英国に留学して帰ってからは代言人となったが、相当な財産を蓄えているということです。ところが面白いのは、星は自由党内で土佐人の横暴が眼に余っていると聞いて、わざと土佐人の紹介を避けて、代言人仲間の大井憲太郎と宮部襄《みやべゆずる》の紹介で入党しました。板垣の考えでは、馬場の反対が党費不足を心配しているという理由にあるから、このような処置で馬場が納得するだろうと思っているわけですね。まあ、目下の情勢はこんなところです」  時日が経つにつれて報告に来る人もふえた。客は、その後の様子を黙りこくっている主人に告げた。 「馬場は、板垣が外遊を中止しないだけでなく、星という金持の代言人を入党させ、自由新聞の経営まで依頼したというので、いよいよ肚を決めて、板垣に対して外遊費の出所を詰問したそうです。むろん、板垣は後藤から聞いた通りに出所を蜂須賀家の援助だと答えたところ、馬場はあたまからこれを冷笑したそうです。板垣の言うことなど信用できない、あんたは嘘を言っていると、どうしても承知しないので、板垣も途中で、はてな、と思ったのでしょう。後藤の言葉を疑い出して、うかつに後藤の金は使われないと考えたのか、急に、大和のほうの後援者から三千円の援助を受けることになりました。板垣は、この次第を馬場に言ったが、神経質な馬場は板垣の言葉をてんで信用しないで、どうしても政府筋から出たに違いない、と言い張って、板垣の弁解を承知しなかったといいます。……この情勢でゆくと、悪くすれば、自由党も二つに割れそうですな」  改進党の大隈の背後には三菱の岩崎がいる。  その岩崎が、商敵三井に政府の利権を取られまいため、板垣の洋行を叩き潰そうとしている。自由党で板垣に次ぐ実力者であり、理論家である馬場辰猪などに板垣中傷の毒を流したのは岩崎の手だ、と彼は知っている。裏側を逐一知らせる者があるからだ。  前に、新聞に板垣洋行費の冷やかし記事が出ていたが、早晩、この問題を正面切って改進党系新聞が攻撃するに違いないという情報が来た。 「面白いですな」  と、その客は言った。 「自由党員はみんな板垣の洋行費の問題について半信半疑で、人心は動揺しています。今に馬場などがはっきりした行動に出るかも分りませぬ」  改進党の機関紙は「東京横浜毎日新聞」であった。これは板垣が先に作った「自由新聞」に対抗するためで、主筆は沼間守一《ぬまもりかず》と島田三郎《しまださぶろう》など、大隈の下野のとき辞職した官僚であった。  改進党系の新聞の攻撃で、自由党員の中にもこれを信用する者が出てきた。この形勢を見た馬場、大石などは東京で自由党支部会を開き、板垣総理の外遊費は政府から出たのであるから、わが党の体面を傷つけるものである。故に板垣総理の任を解くべし、と説いている。政府から出たという証拠があるか、と問う者があると、馬場は、それは改進党総理の大隈重信から確聞した、と答えた。ほかの者も馬場などの説に賛成し、総理の洋行を中止する勧告を決議した。もし、この忠告が容れられずに洋行するなら、われわれは板垣を党首として視るを欲せず、総理の任を解くべし、と決議したという。 「いや、板垣は大そう怒りましてね」  と、報らせる者は笑っていた。 「彼は東京支部会員と会見して、馬場や大石などの言うことが本当であると分ったら、自分は腹を切って諸君に謝する。その代り、馬場君などの言うことが虚説であるという証拠が挙がったら、即刻に両君は切腹なされよ、と迫ったそうです。ただ馬場などの説を聞いていただけの大井憲太郎などは、そりゃ面白い、と脇で囃《はや》し立てていたそうですが、馬場と大石は、そんな野蛮な約束はできない、と言って退場したそうです」  彼は黙々と聞いている。例によって眉毛の間に深い皺を立てて、煙草を口先から吹かしていた。客は、主人が機嫌がいいのか悪いのか読み取ることができなかった。  板垣は、遂に馬場に対して自由新聞社からの退社を命じ、主幹を古沢滋《ふるさわしげる》に変えたという。板垣は、その後に外遊の趣意書を配ったが、それも来る人があって彼に見せた。  その中にこのような文句がある。 「回顧すれば余が自由の主義を天下に唱えしより、既に数年の星霜を経過し、其間幾多の艱難を凌ぎ、漸く今日の勢を致し、昔日に在ては二三の先覚者に醒提《せいてい》せられ、雷同唱和し、其主義に党せずして其人に党するの勢ありしと雖も、今日に在ては、各地の有志率先して、自ら誘導の任に当り、或は演説に、或は学校に、或は新聞に、或は結党に、各々其力を竭《つく》し、其人に党せずして、其主義に党するの勢を成し、漸く以て実力を養うの時に至れり。之を農業に喩《たと》うれば、荒蕪《こうぶ》の原野を開拓し、漸く以て種を播《は》し苗を植するに至れるが如し。其果実を収穫するに到るまで、或は風雨の変あり、或は水旱の災ある、固より予め期する所なりと雖も今日に在ては、或は之を耨《くさぎ》り、或は之に灌《そそ》ぎ、時に培養の労を施し、以て収穫の秋を俟《ま》つに外ならざれば、寧ろ今日を以て農隙《のうげき》の時と為すべし。余は此間隙を得て別に樹芸の良術を探討する所あらんと欲するなり。諸君或は今日を以て国家多端の時と為し、余が此行を非とせらるるも計り難けれども、我党の所謂国家多事の時は今日に非ざるなり。我国の勢愈々危くして愈々|蹙《せま》るの時は、応《まさ》に他日に在るべし。是れ我党収穫の秋にして、既に此時に至らば余|復《ま》た海外に遊ばんと欲するも其|遑《いとま》なかるべし。是れ余が此行を企つる所以の一なり」  彼は黙然としてこの部分の文章を読む。  自由党と改進党が互いに反目し、誹謗し合うのはまことに結構なことである。しかし、この二つの相剋が直ちに自由民権運動を下火に導くとは限っていない。むしろ、このことが天下の話題になるにつれて人心がさらに民権運動に向うおそれがある。二つの党が互いに摩擦し合うことで民権運動が広く伝播する危険である。彼としては必ずしも喜んでいい事態ではなかった。  大隈の改進党系は、板垣洋行費に対して論難の筆を激しくした。もとより、そのうしろには三菱がいる。三菱と大隈との特殊な縁は、前々から露骨に知られていることで、彼が明治七年に大蔵卿に在ったとき、台湾征伐に際しては台湾事務局総裁も兼任していたので、三菱との醜聞が世上に高くなり、左大臣|島津久光《しまづひさみつ》は三条と岩倉に大隈を弾劾したほどである。  三菱の岩崎弥太郎は、大隈の庇護によって暴利を貪った。岩崎は海運界を独占したばかりでなく、政府の保護で儲けた金で鉱山、銀行、海上保険、倉庫業などに手をひろげた。三菱の銀行で荷為替を組んだものは、その荷物は必ず三菱の船に付託せねばならないことになり、その付託した荷物は必ず三菱海上保険を付けねばならぬ規定にした。荷為替料、運賃、保険料、倉庫料を三菱は悉く独占した。これらは大隈なしには出来ない仕事であった。  大隈は岩崎から言われるまま、三井の政府企業への利権侵入を防ぐため、板垣洋行費の出所攻撃にその傘下の新聞に全力を挙げさせている。 「いや、大変なことになりました」  と、彼のもとに来た者が言った。 「自由党も黙っていられませんからな。今度入党した星という男は、金の力もありますが、なかなかの弁舌達者で、筆も立つし、度胸もあるようです。板垣が攻撃を受けて、その押し返しに三菱をやっつけると息巻いています。なにしろ、岩崎がこれまでどれだけ横暴なことをしてきたかということや、大隈との腐れ縁も洗いざらい暴き立てて自由新聞に書き立てるそうです」  しかし、彼のもとに裏面の最もくわしい情報を提供するのは、やはり品川弥二郎であった。弥二郎は、この前、農商務大輔に昇進したばかりであった。      35  彼は参謀本部管西局長桂太郎の訪問をしばしばうけた。陸軍卿には大山巌が任ぜられていたが、大山は茫洋として、ほとんど為すところがなかった。参事院議長となっても、陸軍部内の彼と桂の緊密はいささかもゆるぎがなかった。  部内における反山県系の動向は、桂が詳細にその推移を報告するところがあった。  部内に月曜会というのがある。これは、明治十三年の頃、陸軍士官学校第一期、第二期卒業生の有志たちがときどき集っては兵学を研究し、実験を話し合っていたが、去年の春に陸軍大尉|長岡外史《ながおかがいし》宅に集会を催して研究会を組織した。これが月曜会である。  陸軍部内には、新教育を受けた者と、旧兵制時代の経験者と二つの流れがあった。新旧の分水嶺を明治十年の西南戦争に置くことができる。十年以後、正則の教育を受けた将校が輩出して、部内における学術研究の思想がようやく発達してきた。彼らはときとして旧分子を排撃する傾向にあった。砲工共同会、騎兵会、経理学会、軍医獣医に関する諸学会のようなものも、新分子の軍事的知識を涵養《かんよう》する研究団体であった。これらの学会の研究方法はそれぞれ違っていたが、旧思想に拮抗する新思想の代表ということでは一致していた。  これらの若手将校たちのもう一つの目的は、部内における藩閥勢力への反抗であった。殊に長州閥の頂上にある山県に対する反感は、これら若い者の胸にかなり激しく燃えていた。  彼はその気配を察していたが、今のままでは別段さしたることはないと思っていた。桂を初め部内の重要な局長級には、彼の腹心が配置されている。しかし、谷干城、蘇我祐準などの抵抗がこれら若手将校たちの不平に結びつくのを極度に彼は警戒した。  長岡外史宅に集った将校たちの顔ぶれは尉官十一人であったが、いずれも当時の俊秀と言われた者ばかりであった。 「若い者は、新しい技術を会得《えとく》するためには集って勉強するのもよかろう」  と彼は桂に言った。 「だが、誰か野心家がいて若い者を煽動し、妙な方向に導かないとも限らぬ。おぬしが十分に気をつけて見ていてくれ」  部内には相変らずドイツ派とフランス派との相剋が熄《や》まない。  彼は、この際、ドイツから教官を招聘することを考えていた。いや、その交渉もすでに下準備の段階に入っている。谷や蘇我などはフランス派だが、彼がドイツ派であることで、意地になって余計にフランス派の立場を固執しているところがみえる。彼は、そのためにもなるべく早急にドイツ人を顧問に呼ばなければならないと考えていた。  その年の暮の十二月二日に、馬車鉄道会社の新橋停車場から上野公園までの馬車開通式があった。大へんな評判なので、妻の友子は松子を伴れて見物に行った。彼はその話を夜帰宅して聞いている。鉄道馬車が途中で人力車を何台追い越した、というような他愛のない話を友子は話している。上野公園では茶菓《さか》が出て、乗って来た馬車で再び新橋に引き返す。両方には立ち食いの店が出来て、どこのすしが旨かったなどと語っている。  客が来た。取次の話では、内務省の者で、急な報告を持って上がったということだった。  こういうときも彼は袴を着けて叮嚀に客を通した。 「ただいま、福島県庁から至急電報が入って、河野広中《こうのひろなか》などを逮捕したという報らせがありました。しかし、大へんな騒動のようです」  福島県では県令|三島通庸《みしまみちつね》が道路工事を強行して県民の大反対を買っているということは、彼も前々からの報告で聞いていた。つい二、三日前も、県民三千名が大挙県庁に押しかけた報らせがあった。  福島県では東北自由党の河野広中の勢力が強く、政府では河野の勢力を殺《そ》ぐために薩人三島通庸を県令に転じて、もっぱらその駆逐に当らせていた。  その後の三島のやり方は、彼にも少々ひどすぎるように思われる。三島は、火つけ、泥棒と自由党員は一匹も自分の管内には置かぬ、と放言し、県の役人はもとより、郡長、町村長、巡査、看守の末に至るまで、前県令時代に民間のうけのよかった者は自由党かぶれの不逞《ふてい》の輩《やから》と言って、片っぱしから免職し、鹿児島県人や、他県から縁故の者を呼び寄せて採用した。県の役員だけでも百人に達したといわれる。同時に三島は県会議員たちに山林払下げの利権を喰わせて、彼らを帝政党に入党させ、自由党撲滅の勢力の結集に努めた。  問題の新道路開設は、会津若松から米沢、新潟、栃木に達する三つの線の新道路開設で、全経費予算五十七万円。うち二十万円は国庫補助から出させ、残り三十七万円を関係地方、即ち南北会津、耶麻、河沼、大沼、東蒲原(当時東蒲原郡は福島県領)の六郡の負担として、その財源の一部は有志の寄付というよりも強制割当にし、他は六郡の住民中十五歳以上六十歳以下のすべての男女が二年間一カ月一日の労役に服するという建前で、もし労役に出られない者には強制的に代夫賃として、男は一日十五銭、女は一日十銭の割で労役税を課する計画を立てた。  これによって彼は県会を圧迫しようと企てたが、県会はこれに反抗して議論が沸騰した。三島は一回も県会に出席せず、ために県会無視を怒った県会では県令不信用の意味で予算全部を否決した。三島は内務卿の許可を得て道路工事の着手を強行した。六郡の住民は連判して工事中止の訴訟を若松裁判所に提起したが、受理されず、労役に出ないで金納を命じられても、応じない者は、家財を差押えられて競売された。  十一月二十八日、遂に県民数千名は耶麻郡弾正ヶ原に集合し、隊伍を組んで警察に押し寄せた。こうして警官との間に乱闘となり、県民側は抜剣の警官に追いまくられて四十余人が逮捕された。  ここまでは、つい昨日までの報告で、有朋も承知したことである。  三島のやり方は少しく乱暴に過ぎるように思われたが、自由党員の勦滅《そうめつ》を遠慮会釈なく強行したことは彼にも気に入っていた。首魁の河野広中を逮捕させることは彼としても望むところだった。そのために探偵政策も十分に行なわせている。探偵は一同の会議の中に潜入し、わざと激論を唱えて周囲の議論を挑発し、その中でこれはと思う者を、その発言から捉える方策であった。 「河野を拘引したときの模様はどうじゃ?」  と彼は訊いた。 「はい、一日の夜十二時ごろに、福島自由党員の集会所へ、警部巡査およそ二十名と福島監獄の看守都合四、五十名が、表門を蹴破って闖入《ちんにゆう》したそうです」  と報告者は語った。 「河野をはじめ自由党員数人を拘引し、箪笥や、目ぼしい物品を全部封印して、河野を警察へ拘引したそうです。河野は巡査三名の護衛で直ぐに若松へ送られ、翌朝、福島監獄所へぶち込んだそうです」 「県民が騒動しておらぬか?」 「今のところ、警察の手が十分に警戒陣を布いているので、騒動の兆しは見えないそうです」 「河野を罪にする罪名があるか?」 「いま、ちょっとそれが見当りませぬが、さし当り騒擾罪《そうじようざい》ぐらいでありましょう」  報告者を帰してのち、彼はしばらく考えていた。  福島騒動が他の自由党員にどのような反響を起すかは、彼に気がかりなことであった。  ──霙《みぞれ》のまじっている晩だった。  彼は、柳橋の旗亭で開かれた、近くハワイに特命全権公使として出張する杉《すぎ》宮内大輔の送別会に出席していた。話は去年来朝したハワイ国王の印象に集っていた。  去年の三月に国王カラカウワは日本に来て、横浜より入京し、参内して天皇の手厚い歓待を受けている。  有朋も新橋まで出迎えに行ったが、ハワイ国王は、日本の漁師のように真黒に焼けた顔をしていた。大そう肥えた男で、皓《しろ》い歯が印象的だった。  このとき、日本人の移民を送るように下話が進められていたが、杉公使のハワイ出張は表面国王の戴冠式に参列ということになっているが、主たる目的は移民条約の締結であった。  ハワイと日本との間にはすでに条約が締結されていたが、今度はハワイからの意向として、ポルトガル人と共に日本人の移住奨励費として五十万円を供与することを申し入れてきた。ハワイ公使カベナは、そのために先日来日している。  ハワイは、アメリカの侵略の前に怯えていた。永くつづいたカメハメハ王朝も、リリウオカラニ女王を最後の主権者としていた。アメリカ人は、まず宣教師を潜入させ、これに製糖業者、捕鯨業者や、さらに多くの流れ者をハワイに送って、年と共にハワイ土着民の勢力を駆逐しつつあった。ハワイが日本に移民の要請をしたのも、このアメリカ人による内部侵略に対抗しようとする気運が十分に読み取れた。  杉公使の送別の宴が酣《たけなわ》になった頃、有朋のもとにそっと属僚が来て耳打ちをした。  彼は階下に降りた。玄関の横の一間には、三人の内務属がしょんぼりとして坐っている。女中たちが部屋を変えようとするのを彼は断った。 「いま、河野広中の罪状を決める有力な証拠が入ったと、福島県庁から報らせて参りました」  福島騒動は彼が一ばん懸念しているところで、新しい情勢があったら、いつ、どんな場合でもいいから、すぐに報らせるように言いつけておいたものだった。 「どういうものが出てきた?」 「こういうことです」  と、属官は紙片を取り出した。 「河野広中が書いたものですが、党員の家の中に匿されていたものです」  彼は受け取った紙片を読んだ。  それには「誓約」と書かれてある。五項目から成り、第一、わが党は自由の公敵たる専制政府を転覆し、公議政体を建立するを以て任となす。第二、わが党はわが党の目的を達するため生命財産を擲《なげう》ち、恩愛の繋縄《けいじよう》を断ち、事に臨みて一切顧慮するところなかるべし、などとある。第五には、わが党員の密事を洩らし及び誓約に背戻《はいれい》する者あるときは直ちに自刃せしむべし。右五条の誓約はわが党の死を以て決行すべきものなり、などとあった。  たしかに激烈な文章だった。署名者は河野広中、田母野秀顕、花香恭次郎、沢田清之助など六人で、各自の血判がある。 「こういうものが出てきました以上、河野を内乱陰謀の嫌疑で監獄に入れることができます」  その報告者が帰ったあと、彼は、恰度、その席にいた桂を陰に呼んだ。 「いま、こういうことを報らせてきた。どうも県民の動向が気にかかる。おぬしは明日にでもすぐ仙台鎮台に命令して、一個大隊ばかり福島地方で演習するようにしてくれ。但し、この演習は福島騒動には関係のないようにするのだ」  桂は大きな才槌頭《さいづちあたま》をうなずかせた。宴会場からはしきりと絃歌が聞えていた。      36  河野広中は兇徒|嘯聚罪《しようしゆうざい》で福島警察署から東京に護送されたが、たまたま河野の護送途中に往き遇ったという客が有朋のところに来て、その模様を話した。 「二月四日でしたが、白河まで用達に出かけましたとき、恰度、河野一行に出遇ったのです。五十何名が馬に乗って東京に向うというのだから、大そうなものでした。その先頭には河野が手を縛られたまま乗っていました。今年はあの辺も三十何年来という大雪で、大へんな積雪でした。膝の上まで雪にはまりこむという有様で、なおも降雪が止まないでいました。その中に、巡査が沿道にずっと立って警固していました。いつ福島から残党が河野たちを取返しに来るか分らないという噂が立っていたのです。わたしは河野を見ましたが、可哀想にシャツもズボン下もつけていませんから皮膚がまる出しです。そこに雪がくっ付いて厚く積っているのです。あれでは血も凍って感覚も無かったでしょう。馬に乗っていたのは雪が深かったためもあるが、河野は前に撃剣の試合中に脚を折って以来、ずっと跛《びつこ》だそうです。白河の町は真中に濠があって、その両側に三尺ばかり積った雪が片付けてあり、巡査の小屋が一町おきぐらいに出来ていました。四つ辻にももちろん巡査が立っている。なんでも、河野を知らない騎馬巡査がいて、こいつは誰かと訊いたところ、河野が怒って声高らかに、白河の関守る人よ心せよ、われは三春の河野広中、と朗々と吟じたそうです。この文句はあとで聞いたのですが、そのときは何やら喚いているようにしか思えなかったそうです。河野は途中の宿に着いても縛られたままだそうですね。縄もずいぶんきつく身体を緊めつけていました」  有朋は端然と坐って、膝に長い指を揃えて聞いたが、客の前では別に感想は言わなかった。  河野広中が鍛冶橋《かじばし》監獄に入った二月十日に、福島県令三島通庸から三条太政大臣に宛てた報告書が回覧として彼のもとに届けられた。 「人民暴挙の議につき上申。  管下は元来自由党の根拠にして、専ら政府の転覆、政事の改良を図る目的で、あるいは行政上に抗し、あるいは県会に妨をなし、党派を拡張するの景況も相見え、赴任以来、県下新聞紙及び雑誌等種々会説を流伝記載するにつき、民間最も疑惑を生ぜんことを憂い、行政上注意取締方を施行せり。就中《なかんずく》、福島及び三春自由党員河野広中、田母野秀顕、安積三郎、岡野知荘等なる者各所に会合し、政談及び自由演説を催し、粗暴過激の議論にわたり、ややもすれば社会の秩序を紊乱せんとするの語気意外に溢れ、下等人民の喝采を博せんとするの動作少なからず、臨監官吏の中止解散を命ぜざることいたって稀なり。(中略)十一月二十八日、喜多方弾正ヶ原において人民多数集合せし趣につき、巡査出張、説諭の上一旦解散せしも、同日午後八時ごろ、俄然、喜多方警察署に到りて鯨波《とき》の声を発し、警吏を殺せ殺せと云いて署内に踏込み、石を擲ち、乱暴至らざるなきも、四名を捕縛せしところ、一同散乱逃走せり。しかれども、巨魁の如き未だ縛に就かざるを以て、六郡総理本部新合村に追跡せるところ、四十四名を捕縛拘引せり。家宅捜索の上、槍一筋、刀大小十本のほか、別紙第一号特別内規則並びに電報暗号記載せり。六郡総理本部より発令書、太鼓五つ打鳴らすときは、兵糧の用意をなすべし、約束に背く上は、首を斬って云云と第二号証有之。嗚呼、県人にしてかくの如し、豈《あに》わが県下有志の者この間にあって袖手《しゆうしゆ》傍観すべきときならんや。彼等は政府を転覆するの目的を陰謀するも、確証得難きにつき取押えかねおり候ところ、果してこの度、平島松尾調書の内に、自由党は実に革命をなすの目的にして、予《かね》て今日に至るの手筈は河野等を初め熟計せしなるべし。第十四号証其他赤城平六、中島友八口供抜書第十五号の通り、以上数件を以て兇徒嘯聚のみならず内乱の陰謀を以て自由党全部の関係する犯罪者と認定し、蔽うべからざるものと存じ候につき、該犯は刑法第百二十五条第二項及び第百三十七条に適用し相当と確認候条此段上申に及び候。 [#地付き]三島通庸」  有朋は、三島県令が暴動の証拠蒐集に周到な用意をしていることに感服した。ただ、読んで感じるのは、三島は密偵を自由党の中に入れていたらしい。  その後現地へ調査に赴いた権大書記官の報告を読むと果して、県令が暴徒の中に入れていた密偵は安積戦《あさかせん》という者であった。安積戦は宮城県の人で、福島県に来て警部岩下敬蔵の知遇を受け、土地の小学校の教員となったが、間もなく自由党に入った男である。  道路|開鑿《かいさく》問題が起って会津の物情が騒しくなったころ、彼は教員を辞して自由党の壮士となり、有志としばしば往来するようになった。常に過激の言論を弄して直接行動を主張し、党員たちを煽動していたが、その間に当局が検挙すべき人物を物色し、岩下警部の許に情報を送っていたのであった。  弾正ヶ原の事件が起ると、彼は、壮士は結束して武器を整えて暴吏を駆逐せよ、と主張した。同志の間で彼の行動が過激だと非難する者があると、彼はそれらをかえって因循姑息であるときめつけ、実行派の急先鋒を装っていた。このような行動をとりながら、一方では同志たちの動静や計画を岩下に一々密報し、それを脚色し、自由党は銃砲弾薬その他の武器を準備し、まさに暴動の計画があること、その首謀者は河野広中であることなどを告げていた。これは三島の計画通りの検挙に材料を作製していたのである。  その事情は、福島県警部岩下敬蔵から三島通庸の許に齎された報告書に明瞭に出ている。  有朋は、それらの極秘の写しを権大書記官から渡されて読んでみた。このような時は大てい夜が多かった。役所ではあまり披見しない。家に帰って、妻と談笑し、湯呑みをかかえて熱い茶を一ぱいゆっくりと干すと、池に面した机の前に坐るのであった。  ランプの炎が長い硝子筒の中に伸びている。 「十一月廿一日安印報告の一(安印とは安積のこと) 一 目今、彼の地の景況を聞くに、議論種々に別れ、県令、郡長、其他斬殺の論、又頑民を煽動して庁下に迫る論、及び自若として官吏派出の上、公売処分の時、官吏を縛して警官に送る等の論、紛々として決せず。然し不日|蓆旗《むしろばた》竹槍は、何れも同論にして、必ず起るべし。(中略)議論一決せざるに付き、昼夜急行して河野に逢ひ、何分の指揮を受け決する積り、是非河野の該地出張を請ふ積りなり。 一 河野、昨日来、外出の儘、行衛不明。然し本日中には必ず帰るべし。多分当地に潜伏して居るならん。 一 安印は明朝未明彼の地へ行く積り。然し河野に逢ふた上ならでは帰られず。 一 高知県人荒尾覚造、川口清忠、小川又雄、岡本正宗、今般耶麻郡の挙に付き、本部より派出して無名館にありしが、一昨十九日朝、当地河野広中と同行耶麻郡に行き、目下頻りに評議中なり。 一 特別委員十五名を組立、北内六里に分け、頻りに人民を煽動する由なり。此頭分は、門奈某、頭取は植田勇知なる由。特別委員の規則、及盟約は、不日岩下の手に届くる積りなり。 一 暗号電信あり。其略に云く。県令はヲリカヘシ。属官はサゲイト。警部はフシイト。判事はマイ。自由党は白米。同盟者は玄米。此の他、多く暗号あれども、記憶せず。此も不日岩下の手に入るべし。 一 河野は、容易に書面を送らず。唯口上を以て命ずるのみ。且つ書面を送るも、他人の筆跡及他名を用ゆ。 一 安積戦より河野に出張を乞ひしに、曰く既に新合六ヶ村の公売処分に関し、第二策の外れし以上は……、此席に於て山口千代作もあり。同人は直ちに帰郡せんと云ひしに、之れも河野押へて、今一報次第起るべし云云。 一 此に第一策の行はれざる上は、三十名計りは死なねばいけん。二三十名の死を以て当れば、必ず帝政党大挙防禦するならん。然らば、政府に抗せずして政党の争となり、反対党撲滅の上策なるべし。 一 今般喜多方の一件は、書旨二途に分れ、根は土木事業件よりして、一途は反対党を攻撃する目的なり。 一 六郡本部は、耶麻郡新合村赤城平六宅なり。他より応援を求め、現今、投宿し居るもの、凡そ三十余名。各員大刀処持之事。 一 総理は、赤城平六なりと雖も、彼は先日警察署拘引の達有之に付、当時同人宅中坐敷に潜伏致し居り、現今後任は佐藤清なり。書記を担当するものは安積戦なり。 一 本部には金銭なし。 一 本月廿六日壮士輩より総理に建議したり。其旨趣は今日に至り、悠々不断に時日を経過するは甚だ快からず。依て兼ての協議の如く、各手分をなし、片端より斬殺致度云云。総理入れず。 一 東京又は群馬より、不日応援として多数来着する筈なり。尤も当方より電報次第。群馬より応援として来処する手筈もあり。 一 安達郡小浜村自由党も、当方に於て、干戈《かんか》を弄するを合図にして同処に蜂起し、郡衙《ぐんが》等を襲ふ筈なり。 一 我が党の者逮捕されし節は、死を以て逮捕官吏に抵抗し奪ひ返す筈なり」  有朋は、密偵の有用な効果をこれらの報告書から納得するのであった。      37  有朋は、ヨーロッパをまわっている伊藤博文に書面を書く。 「当春は止むを得ざる事件のほか総て改正の発令を見合せ、天下の形勢如何と静視熟慮致可申含みに有之候。時に去冬福島県において河野広中その他数十名、開鑿の一事より無智の人民数千を鼓動し、上訴嘆願を名とし、遂に暴行を働き候につき、止むを得ずいずれも捕縛審判に及び候ところ、その実政府を転覆せんと企画するの叛計判然相顕れ、予審の末、巨魁並びに教唆者は遂に国事犯を以て罰すべしと一決致候。目下の情勢にては、政党処分は一刀両断の措置無之ては我々帝国の独立を永遠に維持する目的は覚束なしと痛心此事に候」  有朋は、ここに書いた文書通りに政党を弾圧し消滅させなければ「帝国の独立」は出来ない、と心から考える。 「帝国の独立」は軍隊が支柱である。軍隊が強くなくては国家の独立は出来ない。そのことはすでにこの度の朝鮮事変で証明済みだ、と思っている。  軍隊の団結にヒビを入れるのは、外からの声や働きかけである。自由民権運動の浸透を防遏するには、政党の撲滅に先制攻撃をかけなければならぬ。攻撃は防禦の最良の戦術だ。彼がずっと持ちつづけて来た信念である。  実に「政党処分」は「一刀両断の措置」が必要であり、そのためには教唆者即ち政党運動者を国事犯に仕立てて勦滅《そうめつ》すべきと考える。  有朋は、この手紙に付けて、目下の政党の事情を別紙にして伊藤に書き送った。  目下の政党の事情とは、自由党と改進党の衝突だった。自由党は板垣と後藤の外遊によって統制が緩み、内部はがたがたに分裂していた。この自由党を改進党がしきりと機関紙を通じて誹謗する。自由党も改進党の金が岩崎弥太郎の三菱商会の手から出ていることを暴露して、大隈と岩崎とを攻撃しはじめた。岩崎弥太郎に対しては「海坊主」の渾名《あだな》を付け、「海坊主退治」と言って連日攻撃した。  大隈の改進党では自由党を「偽党」であるとして「偽党撲滅」を旗印にしている。  両党の争いは結構なことであるが、しかし、これで直ちに自由党そのものの勢力が低下するとは思われない。いや、かえって危険な方向に進んでいるともいえる。自由党党員の中には、党中央部のなまぬるい指導方針に慊《あきた》らず、直接行動に出ようとする動きも徴候にないではない。  なるほど、福島事件は失敗に終った。しかし、各地の自由党はこの事件に大きな衝撃と刺戟とをうけた。次には必ずその模倣が出て来る。この事件は、かえって各地の自由党の過激化を誘発するものではないかと彼は考える。  有朋は、三島県令の密偵政策に感心し、これを全国の警察署にすすめることにした。事件が起って鎮圧するよりも、内部で事件を起させるように密偵によって働きかける。かねがね着目していた過激分子をその挑発に乗せ、根こそぎに検挙することだ。  ──三月二十二日のことだった。  彼は、ドイツ公使館で開かれる夜会に出席するつもりでいた。  妻の友子にいっしょに行くように誘うと、 「なんだか晴れがましゅうございますわ。井上さんもいらっしゃるんでしょうか?」 「井上も、西郷も、松方も行く。大臣、参議は全部招待をうけている。ああいうところはたいてい夫婦同伴だ」 「そうですか」  妻はためらっているようだった。 「やっぱり止《よ》しますわ。あんまり晴れがましくて、わたくしには性が合いそうにありません」  有朋は礼装で二頭立馬車に乗り、ドイツ公使館に赴く。  公使館は造花の桜の花で飾られていた。実際の花が咲くのはあと半月であった。  在京の外国公使が夫人同伴で来ている。書記官も大勢で、狭い館内はごった返していた。ドイツ公使が入口に夫人とならんで客の接待を引受けていた。  有朋は、ドイツ公使には特に親近感を持っていた。  彼は公使と、近く日本に招聘するドイツ人の陸軍顧問について短い話を交した。候補に上がっているのはメッケルと言ってドイツ陸軍参謀次長だという。公使は、この男ならお国の近代的な軍制確立に間違いなく役立つだろう、と言った。  会場には公使や夫人たちが群れている。日本の高官も夫婦連れで来ているのが多かった。三条公は先ほど姿を見せたが、すぐに帰られたということだった。  有朋は、日本人の中でも一きわ目立つ巨漢の西郷従道と話を交していた。  向うに、イギリス公使と話をしている松方大蔵卿の背の低い姿があった。相手が大男だけに、一段と大蔵卿はみすぼらしく見える。  有朋は西郷と話しながら、たのもしそうに松方のほうを見やり、英公使との挨拶が済めば、彼の傍に行って少しばかり話しこむつもりにしていた。  音楽は絶えず鳴っている。  葡萄酒のグラスを指先につまんでいた英公使が、松方を遥かに見下ろしながら二、三度うなずき、そのうしろに順番を待って控えているどこかの国の公使夫人に立ち向う姿勢になった。  有朋は大男から解放された松方を見て彼に近づこうとしたとき、肘をつつかれた。  振返ると、品川農商務大輔が立っていた。  品川は彼の耳に囁いた。 「いま、新潟県庁から電報が入りまして、高田に自由党の暴動が起りつつあると報らせて来ました」 「高田?」  有朋は、やっと鎮圧されたばかりの福島暴動がすぐ頭に泛んだ。やっぱり起ったなと思った。しかし、どういうものか、この時は、彼が若いころ見た越後路の風景が蜃気楼《しんきろう》のように泛んだのである。越後では官軍の参謀として長岡勢と戦い、ひどく苦労したところだ。 「相当な人数か?」  有朋は、周りを一瞥《いちべつ》して小声で訊いた。すぐ前をアメリカ公使夫婦が手を組んで通り過ぎた。 「今のところ、はっきりした数字が報告されていません。だが、福島よりは小規模のようです」 「福島とは連絡があるのか?」 「それもはっきりと分りませんが、なんでも、捕縛された福島自由党員に金を集めて送るというような相談はやっていたそうです」 「あすこは誰がいるのか?」 「さして目ぼしい者はいないでしょう」 「手当のほうはどうしている?」 「巡査が五十名ばかりピストルと帯剣で、高田へ向って出張したそうです。このほか、三条警察署、長岡警察署、新発田《しばた》警察署からも巡査が行っています。これは視察に赴いた木梨《きなし》大書記官からの報告によって、永山《ながやま》県令が打電したようです。なお、高田方面では自由党員に士族が多いと聞いています」  有朋はうなずいた。品川も黙って彼の傍を去る。  自由党員に越後の士族が多いというのはうなずけないことではなかった。彼らは維新の時に最後まで官軍に抵抗した。殊に長岡攻防戦では、敵地でその悲惨な状態をつぶさに見て来ている。薩長政府に反抗するため、残された士族が自由党に投じていることは理由の無いことではない。  しかし、有朋は、もはや、没落士族のことなどは問題にしていなかった。彼らは金禄公債も手放し、商法に失敗し、没落の中をまっしぐらに進んでいる。打ちつづくインフレのために旧士族のほとんどは貧民化していた。それに較べると手強《てごわ》いのは農民だった。  旧幕以来、圧迫されてきた百姓は自由民権運動によって藩閥政府の権力に反抗している。自由民権運動の資金は、米価の高騰によって潤った農村の好景気である。自由党の資金はこれらから賄われていた。一方では武力で弾圧し、一方では資金源を断つため、農村の金を収奪しなければならなかった。それで初めて民権運動は枯渇するに違いない。  それが松方大蔵卿による財政政策である。  ──高田事件の詳しい報告は、それから四日後に到着した。  高田では北陸七州自由党懇親会が開かれたが、来会者は四百人以上に上った。その座で、自由は鮮血を以て買うほかはない、と激語した者があった。このことを聞いた高田警察は、直ちに会合場所を包囲して、有力な党員と見られた者数十人を拘引し、家宅捜索をした。その中で当時二十五歳の青年|赤井景韶《あかいかげあき》の家から同人の手記した文書を発見した。  それには、彼らは「天誅党《てんちゆうとう》」なるものを組織し、「天に代り奸人佞物《かんじんねいぶつ》を払い、世運を回復し、盤血を啜《すす》り盟約を結ぶものである」としてあった。また、別の一党員の家からはピストル二梃が出た。要するにこれだけのことで、具体的に騒動を起すという事態は窺えない。  有朋がそのことを報告に来た者に糺《ただ》すと、 「実は密偵を入れておりましたので」  と、報告者は具合の悪そうな顔つきをした。  検挙の端緒となったのは、その自由党懇親会にまぎれこんでいた密偵が率先して激しい言葉で演説をはじめたので、それに誘われた者が思わず激語を口走った。密偵はその者を高田警察署に通報したというのだった。つまり、官憲が自由党員の検挙と家宅捜索の口実を得るために密偵を入れていたのである。 「なるほどのう」  有朋は眼をつぶる。  これくらいの権謀術策は、相手が相手だけに止むを得ないと思う。暴動を未然に防いだ点で、むしろこの処置を賞めてやるべきではなかろうか。ここでも彼は密偵の効用を考えさせられたのであった。      38  明治十四年十月に大蔵卿に任ぜられた松方正義は、洪水のように流れ出ている不換紙幣の整理にかかった。彼は、紙幣の兌換《だかん》制度を設けなければとうてい整理の実績を上げることが出来ないと思い、まず、新紙幣の回収と準備金の運用とを並行し、一方では出来るだけ紙幣の流通額を減縮し、他方では準備金中の正貨を増殖するようにした。  これまで政府の紙幣銷却方法は、発行紙幣を減縮し、その価格を回復して紙幣の膨脹の弊害を除こうとするにあったが、松方は不換紙幣の害悪を察して、兌換制度の切替えに全力を尽していた。  当時、銷却を目的とした政府紙幣と銀行紙幣の流通総額は一億五千四百万円であった。ところが、この総額は悉く不換紙幣であったから、兌換制度の樹立を計画する以上、まず、この巨額の紙幣を銷却しなければならない。政府の財政は、経常歳入中より紙幣の整理に当て得べきものは、毎年度平均およそ七百万円内外と五千五百八十万円の準備金があった。つまり、松方の考えは、この歳入残余七百万円を以て紙幣を銷却し、五千五百余万円の準備金を運用利殖して正貨の充実を図り、これで紙幣兌換制度を樹立しようとしたのであった。  このようにして正貨を吸収するために輸出を奨励し、輸入を防遏し、貿易差額を貯蓄しようというのだが、このためには正貨の回収機関として日本銀行を去年(十五年)設立した。  大体、このような方針で松方はとりかかっているのだが、最近の商業の不振が原因して租税の収入が著しく減少したため、計画通りうまく行かない。そこで松方は、最近、これまで伝統的に租税を負担させていた農民の地租のほかに、売薬印紙税、酒税、煙草税等の間接税を起して歳入の増加を図った。  こうして得た歳入残余をおよそ二つに分けて、半分は紙幣の銷却に当て、半分は紙幣交換の準備に繰入れて正貨を買入れる用に当てた。  明治初年以来、公債の発行、不換紙幣の濫発、大衆課税の強行等は藩閥政府の強力統制を通じてなされたが、このデフレ政策もまたようやく基礎の固まった政府の自信において図られたのである。  このデフレ政策が市場に現われたのは、すでに去年の春ごろからで、市場では商品の販路が渋滞し、物価が下落し、商人が仕入れを差控えるようになり、製造家は損失に苦しみはじめた。景況は今年に入ってさらに激しくなり、商業会社で倒産や閉店するものが目立つようになってきている。  しかし、このような予算の収縮状態がとられているなかに、ひとり急激にふえつつあったのは陸海軍費であった。すでに陸軍では去年編成替えを行ない、その後三年計画で鎮台の歩兵連隊を漸次旅団に編制し、次第に師団編制の基礎を作るようにしている。  海軍でも京城事変以来急速に軍備の拡充をもくろみ、十九年度には海軍で全国の海岸面を五海軍区に分ち、各区に鎮守府、軍港を設置するように計画している。  明治十四年の陸海軍費は計千百三十五万円であったが、十六年度の予算請求は千六百三十二万円となっている。なお、これは漸次増額の傾向があった。  松方は有朋に話したことがある。地租の収入が固定化しているので、これによる歳入見込みはもはや時代遅れである。時運の進歩はますます経費の増加を要求するので、将来は地租以外に、人民歳入の割合に応じて税金を納めさせる税制の根本的改革が必要である。そのために三年後を目標に「所得税」といったものの創設を考え、目下、その草案を作成中だ、と松方は言っていた。  有朋は、それは結構なことだ、と賛成して、 「軍備もこれからますます拡充しなければいけんから、おぬし、しっかりと頼む」  と激励した。財政手腕においては、大隈重信のルーズさを見せつけられている彼は、松方に心からの信頼をおいていた。  現に明治十三年末には米一石当り十円四十八銭の値が、今では八円台に下がっている。しかも、日に日に米相場は下落をつづけるばかりであった。  この傾向は有朋には思う壺といえた。すでに米価の高騰によって好景気に酔い痴《し》れていた農民も、今では地租の金納が渋滞し、都市より借りた金も払えない状態となっている。その結果が零細自作農の崩壊となり、田畑や土地を売払う者が続出し、小作農が激増していた。  有朋から見ると、百姓もようやく目が醒めたというところだった。いい気になって一つ覚えの「自由民権」を振りかざし、自由党にせっせと貢いでいたのが、米価下落の現実に周章狼狽し、蒼くなっている。ひいては自由党の資金源も枯渇してくるわけである。  自由党自身は、板垣という党首を政府側に誘拐され、馬場、大石などといった自由党生え抜きの理論指導者は脱落し、その指導中枢部を失いかけている。あとには舵を失った大勢の党員が右往左往しているばかりであった。目下のところは、大隈の改進党と泥仕合をしているのがせいぜいの気勢であった。  だが、有朋は、農村の不況によって再び貧乏化した農民は、一たび自由民権の思想を会得したのであるから、指導者を失った場合、無分別な方向にゆくのを惧れる。板垣が全国を遊説している頃には、ともかく自由党中央からの統制があった。しかし、今後中央の指導機能が失われた場合、残された農民たちは自分たちの自由民権運動をどこに持って行くであろうか。怕《こわ》いのはこれだった。彼らが行くところといえば一つしかない。それは直接手段による政府転覆という暴動化であった。  この意味から、福島事件は大きな意義を持っていたといわなければならない。今後の暴動は、福島事件を教訓にし手本にするであろうと思われる。  それにしても、不甲斐ないのは帝政党だった。政府がこの党にかける期待と援助は、当初、どれだけ大きかったか分らない。福地源一郎という当代切っての論者を抱えこんだのだから、自由党や改進党を抑えるに十分だという気持があった。  しかるに帝政党は日々衰弱に向うばかりである。政府の御用党と呼ばれて不人気がつのるばかりで、相当な資金を政府は出したが、何の役にも立っていない。  或る晩、有朋は客を伴れて柳橋に行ったが、同じ旗亭で大いに騒いでいる者がある。その喧噪が普通の遊びにしては少し度外れた感じがするので、訊いてみると、池ノ端の御前だという答えであった。  有朋は、このとき、何となく福地の絶望を見るような思いがした。福地はもともと酒は呑まないが、粋な遊びをするほうだった。賑やかなことも嫌いではないが、今のように度外れた騒ぎ方は決してしない男だった。  有朋は、福地の荒《すさ》みを目のあたりに見るような気がし、同時に、政府の手で作った言論機関に対して、社会がどのように反抗心を持っているかを知るのだった。  有朋は、大川を望む座敷に坐りながら、見えない敵を前にしている思いで黙然と盃を運ぶのであった。      39 [#ここから1字下げ]  自由党総理板垣、後藤両君の一行は、海路|無恙《つつがなく》去歳十二月二十七日仏国巴里へ到着せられたる趣にて、随行員栗原氏よりの書翰を自由新聞に載せたり。其の略に、生等一行無恙廿七日巴里へ到着仕候間此段御安意被下度候、着後倉卒の際なれば未だ交際等の手順も不相立候得共、追々には諸名家にも交際の路相付候様周旋相定り、先づ大統領に謁見の積りなれども時|方《まさ》に歳除《さいじよ》に際し候へば、いづれ年初の事に可相成と奉存候云々とあり。又欧州大陸の周遊を終られし上は英国へ渡り、来五月中旬頃迄同国に滞留の後、大西洋を横截《おうせつ》して米国へ赴き、八月頃に帰国せらるゝ見込なりと。 [#ここで字下げ終わり]      (明治一六・二・一八 朝野新聞)  この日の朝、福地源一郎が有朋のところに訪ねて来た。 「昨夜は柳橋においでになっていたそうで」  と福地はむくんだような顔を見せて言った。 「おぬしも向うのほうでやっちょることは知っとったが……」  と有朋は笑った。 「昨夜はお茶をひいてる妓《おんな》どもを総上げにしましてね、幇間《たいこもち》も三、四人来ました」 「誰か客があったのか?」 「はあ。芝居の役者がわたくしのところに来たので、そのままあすこに伴れて行きました」  福地が演劇のほうに並々ならぬ興味を持っていることは有朋も知っていたが、昨夜の騒ぎは、ただそれだけではなさそうであった。 「おぬし、顔色が少し悪いようだが?」 「はあ、さすがのわたくしも、政党と新聞のほうがうまくいかないので弱っているところです」  福地は鈍い眼をきらりと光らせてこちらを見たが、有朋は黙っていた。  福地は、帝政党が政府の御用党だと騒がれてから、どうも評判がよくないというような話をはじめた。また、この機関紙として抱えこんだ東京日日も、やはり御用新聞として日に日に人気を落している、むずかしいものだと首を傾げていた。  福地は、前に政府から政党の話を持ちかけられたとき、自分から進んで、世論の一方を引き受け、政府と共に行動しよう、と昂然と言い切ったくらいであった。彼は己れの筆に自負を持っている。彼が書けば天下の読者が彼の主張通りに流れてくるものと思いこんでいた。  現在、東京日日新聞は読者が減る一方であった。  福地は、もともと、東京日日を官報の役目にしたい気持があった。在野の諸新聞が政府部内の機微に通ぜず、臆測だけで記事を作っていることに不満を持っていたのだ。福地は自らの意気をこんな文章で書いたことがある。 「事已に此に至るからは更に一歩を進み、前途政府と同一の主義を執る以上は、内閣の為に其機関となり公然たる官報たらんに若かずと考へて、余は実に此事を在廷諸公に望みたり。諸公は余が日日新聞を以て内閣と同一の方針に就かんことは固より其望なり……」  しかし、福地の東京日日新聞を政府機関の官報とするには、政府部内にもいろいろ異論があった。そこで、福地は有朋などのすすめで帝政党を作った。帝政党を政府の代弁機関とし、東京日日新聞に政府の施策を反映させるのを狙いとした。  ところが、福地の筆でも、御用新聞の印象が妨げて読者がついてこない。  それに、福地には別にこれといった確乎とした信念や主張があるのではなかった。一方に自由民権という巨大な指標が掲げられているのに対し、福地のほうはただ彼の筆を才気に任せるといっただけのことだった。この辺に福地の錯覚があり、自負の罠があった。  しかし、福地は有朋にこんなことを言う。 「政府のほうで方針がふらふらせず、ちゃんと不動のものがあれば、まだやりやすいのですがな」  事実、政府内にもまだ薩長の対立が根強く残っている。殊に伊藤が外遊中なので、何となくまとまりが悪い。そんな不安定さが、帝政党の主張や存在を弱めている。 「一体、政府は政党に対してどんな考えを持っているんですかい?」  と、このときも福地は江戸弁で訊いた。  尤も、この質問は福地自身の焦慮から出た言葉であった。福地はたしかに懊悩《おうのう》している。これまで一流の論客としていつも人気の絶頂を行っていた彼が、はじめてここで躓《つまず》いたのだ。その回復の焦りや、このまま没落するかもしれないという危惧が、その面上の苦悩の色にありありと顕われていた。 「そうじゃのう。この辺で政府もしっかりと考えんといかぬ」  と、有朋はこの前伊藤から送って来たドイツ煙草を指につまんで言った。 「わしだけの考えだが、これからの政府は、どのような政党にもかかわりのない方針に決めようと思っちょる」 「ははあ、超然主義ですな」  福地はそう言って口辺にうす笑いを泛べたが、明らかに有朋に突き放されたような苦い表情になっていた。  いわば、この言葉は、帝政党も、東京日日新聞も、政府から絶縁状を申し渡されたようなものだった。  事実、このときの有朋の言葉はまだ柔らかかったが、彼の信念は、この超然主義にかたまりかけていた。ドイツに行っている伊藤からの通信が彼の決心の一つとなっているともいえる。伊藤はプロシャの政体をこと細かに報じて、わが国もこの制度でなければ現在の苦境は乗り切れないだろう、と書いて寄越していた。  福地は約一時間ばかりして帰ったが、玄関先に見送った有朋には、このときほど福地のうしろ姿が寂しく映ったことはなかった。  福地には言わなかったが、政府の手で近いうち官報の発行が計画されている。これは、自由党や改進党の機関紙など在野の諸新聞が、政府の方針を殊さら歪曲したり、捏造《ねつぞう》したりして民心を惑わせるので、直接に伝達機関を作ろうというのであったが、これによって、福地はますます苦境に陥るに違いなかった。有朋の眼に、肥った福地の影が紙のようにうすく見えたのは、こんな気持が作用したからである。  しかし、官報は政府の施策の伝達機関紙だから、そこには自ら限界がある。一方、東京日日が凋落《ちようらく》の態勢となれば、いきおい他の自由党、改進党系の新聞紙が政府に対する論調を尖鋭にするのは当然だった。なかには明らかに政府を誹謗《ひぼう》する記事が載る。  山県は、そのために品川弥二郎あたりの意見を聴いて、言論弾圧に乗り出さねばならなくなる。政府の代弁紙が弱まれば、他を抑圧するのは当然の成り行きであった。  政府は去年の六月に集会条例を改正し、暮には請願規則を設定して、府県会議員の集会や、その往復通信も禁止するという弾圧態勢に出た。大阪の立憲政党などは、その弾圧に耐えられないで解党したくらいである。  新聞紙条例の改正は、こうしたなかで品川の原案、山県の加筆というかたちで進められた。  その中には「新聞紙は其刷行毎に先づ内務省に二部管轄庁東京府は警視庁及本管始審裁判所検事局に各一部を納む可し」とか「新聞紙に記載したる事項治安を妨害し又は風俗を壊乱する者と認むるときは内務卿は其発行を禁止若くは停止することを得」とか「新聞紙の発行を禁止若くは停止したるときは内務卿は其新聞紙を差押へ又は発売を禁じ其情重き者は印刷器を差押ふることを得」とか「政体を変壊し朝憲を紊乱せんとするの論説を記載したる者は一年以上三年以下の軽禁錮に処し百円以上三百円以下の罰金を附加す其第三十五条(新聞紙を以て人を教唆《きようさ》し重罪軽罪を犯さしめたる者は刑法の例に依る其教唆に止まる者は本刑に二等又は三等を減ず)に触るゝ者は重に従て処断す」とか「陸軍卿海軍卿は特に命令を下して軍隊軍艦の進退及一般の軍事を記載することを禁ずることを得其禁を犯す者は三月以上三年以下の軽禁錮に処し三拾円以上百円以下の罰金を附加す其情重き者は印刷器を没収す」とかいうような事項が見える。  発行保証金または罰金禁獄の刑を重課し、社主、編集人、印刷人及び筆者、訳者までも共犯として論じ、もしくは印刷器械を没収する等は、みな旧法に比べて苛酷を加えたものになった。  それまで、しばしば発行停止や罰金、刑獄の災難に罹っていた全国の新聞の多くは、この新聞紙条例の改正によって更に生存の基礎を危くされ、廃刊の運命に立ち到るものが続出した。  すなわち、この条例が出てからまだ一月と経たないうちに、近事評論、中立政党政談、政海志叢、嚶鳴《おうめい》雑誌、独立新聞、曙新聞等十三種の新聞が閉社した。地方でも山梨日日新聞、埼玉新聞等がまず斃《たお》れ、停刊の数は旧来の倍にも増した。筆禍は頻々と起り、言論は寂《せき》として声を潜める状態となった。  新聞紙面でも伏字が見られるようになり、この頃から削除や削字も目立つようになった。 「これはいかんな」  と山県に言った者がある。 「こういうような新聞にしておくと、かえって人心が猜疑《さいぎ》を起し、不満が陰に籠って、かえって逆の効果になってくる」  有朋はこれを断った。  わしの信念じゃ、と言い、こうしておけば、今に新聞は政府に刃向う気力を失ってくるよ、と答えた。      40  板垣は六月二十二日に洋行から七カ月ぶりで帰った。党員は横浜まで迎えに行き、船から降りた彼を横浜の自由亭に導いて歓迎会を開き、惣代以下の歓迎の辞があった。  板垣のヨーロッパでの動静は、有朋の耳にもたびたび入っていた。主としてそれらの材料はパリに居る西園寺公望から岩倉に宛てた報告だった。板垣はウィーンで理学(科学)ばかりを聴いていて、後藤とは折合いが悪いという。板垣は伊藤とベルギーでも遇ったらしいが、ここでも打ちとけなかったということであった。  板垣を洋行させ、懐柔しようという心組みで彼に金を与えたのは井上馨だが、板垣の偏狭が彼の努力を突き崩したのであった。 「いや、板垣の頑固なのには全く参るよ」  と、井上も有朋と会うたびに、その四角い顔を歪めてこぼしていた。  帰朝した板垣の動静も噂となってちらちらと入って来る。板垣は西洋に行って理学にかぶれ、少し主張が変ってきたというのである。事実、板垣の帰朝を迎えた関西懇親会の席上の演説は、二時間以上にも亘る長講であったが、その中で彼は「生活社会」という言葉を使っていた。これは、国内では人民の生活を第一義としなければならぬ、生活社会とは人民の生活を目的とする経済機構を意味し、現在ではこれが甚だ幼稚である、というのだ。  板垣の言葉によると、日本では行政機構だけが強化されているのに対して人民の生活がひどく貧弱であるといい、およそ人間社会は生活の必要ありて然るのちに政治の用がある。これ自然の定則であらねばならぬ。しかも、行政機構の整備強化のみに努めて生活社会の発展を怠るのは本末顛倒である。人間社会は生活の必要があるから政治の用があるのに、日本の現状は人民の生活は行政機関のために左右され、圧迫され、自由の発展を遂げ得ないのは甚しき誤りである。──  こういったことを板垣は説く。  理屈の通っている内容であった。有朋は、さすがに板垣が洋行して西洋の新しい制度を見て来ただけのことはあったと思った。ここには板垣の口癖となっているルソーも出なければ、「民約論」の生《なま》かじりもない。自由民権の雄叫びは影をひそめている。  これでは今まで彼についてきた自由党員が少々戸惑うのではないか、と考えていたくらいだった。 「板垣も洋行してどねえかして来たな」  と井上馨などは有朋に言うことがある。  まもなく有朋は内務省の筋からこんな話を聞いた。 「板垣総理はヨーロッパから帰って変節した、という噂がございます」 「変節?」 「板垣は政治に対する情熱を失って、社会改良に従事する決心になったと申すのです。だから、これまで板垣の下で血みどろに自由民権の闘いをしてきた連中は、失望落胆の体《てい》でございます」 「なるほどな」  そういうこともあろう、と有朋は考えた。板垣の言う生活第一主義は、社会改良の意味ではない。むしろ政治の貧困を突き、その人民に対する重圧を非難しているのだ。が、景気のいい自由民権の蓆旗《むしろばた》を見てきた者は、この地味な看板に茫然自失するのは尤ものように思われた。 「末端の党員がそれで承知するかな?」 「大分騒いでいるようでございますが」  と教えた人は言った。  有朋は、少し予想とは違った状態になったと思った。井上が後藤象二郎を通じて板垣に洋行費を出し、それで板垣を軟化させて、ゆくゆくは政府の中に抱きこんでしまうというのが井上の意図でもあり、それを推した有朋の考えでもあった。だが、板垣はすぐには入閣を欲せず、かえって党の組織強化に着手して基金の募集などはじめている。板垣の偏屈には有朋も少し呆れていた。  それはともかくとして、板垣の言う「生活社会」が社会改良と取り違えされている今、板垣にどれほどの魅力が党員に残されているだろうか。すでに板垣を見放した連中がかなりふえているという情報もある。  この連中がこれからどう動くかが見ものだった。  有朋の予想と違ったところは、はじめ頭首の板垣を切って党という肢体から所を異《か》えることにあったが、板垣自身まだ党にしがみついて、しかも肝腎の党員から見放されようという情勢だから、世の中の成り行きというものは奇態というほかはない。理屈通りにはいかない不条理がある。  有朋は、そういう自由党の大きな裾野を見つめている。厚い黒い絨毯のような不気味なうねりであった。それがいつどこで盛り上がって来るか分らなかった。  ──岩倉具視が死に、伊藤博文が憲法取調べのためのヨーロッパ出張から帰朝した。まだ半歳経っただけだが、十六年は有朋にとっても事の多い年になりそうである。  有朋は伊藤を交えて、裏霞ヶ関の井上馨邸で会談することがしばしばだった。憲法問題であった。  八月二十九日に英公使パークスが清国に転任となり、有朋は新橋までこれを見送った。大木、山田、大山、井上、佐佐木の各参議はほとんどここに集っていた。そのほか、黒田内閣顧問も、吉田外務大輔も来ている。慶応から明治の初年にかけて、パークスは有朋にもこれらの人々にも忘れることの出来ない人物であった。清国に赴任する公使は二人の令嬢を伴っていたが、傲岸なパークスも、この日だけはやや悄然として見えた。 「奴さん、大分がっかりしちょるようだが、無理もない。日本に来て以来、この国があの男の働き場じゃったけんのう」  有朋は、それが井上の声だと知った。外務卿を永くしている井上には、パークスとの別れは殊更に感慨無量のようである。  その帰途、有朋は井上を伴って柳橋に行った。近ごろの旗亭は、ほとんど三味線の音も聞えず、静まりかえっている。出てきた女将も、この不景気では商売にもならず、店をたたまなければなりませんよ、とひどく政府を恨んでいた。 「さすがに松方じゃのう。これだけ緊《し》めあげちょるとは思わなんだ」  井上はうすい眉をあげて、嗄《しやが》れ声《ごえ》で笑った。大隈のじだらくな放漫財政が、しばらく酒席の悪口となって賑わった。  ここでも有朋は、農村の不況が民権運動に大きな打撃を与えていることを愉快に思った。板垣は全国各地の自由党に檄を飛ばして十円、二十円の寄付を頼んでいるが、米価の下落で首吊りまで出している農村に、その成果がどれだけ上がるだろうか。自由党の兵糧を枯らす策略は成就しつつある。  そのせいか、今朝の新聞にもこういうことが出ていた。 「一時世間に囂《かまびすし》かりし政党論も昨今に至りて立消えの姿となり、政社の組織もやや衰運に属せしにや。近来政社の解散せしものを各地方の新聞紙により概算すれば次の如し。漸進党一。改進党一五。自由党一三。自由改進と唱ふる党四。主義詳らかならざる党二」  有朋は、落ち窪んだ眼窩に細まっている眼を安心させるのであった。  新聞と言えば、九月一日の高等法院裁判で福島事件は内乱予備罪と判決し、河野広中は軽禁獄七年となったことが報じられた。つづいて、河野ほか五名が「東京及び宮城集治監へ分送さるゝ由なりしが、俄に都合変り昨日六名共、一旦石川島監獄署へ送致されしと云ふ」という記事にもなった。  有朋は、福島事件につづいて起った高田事件の首謀者の判決に関心を持つ。この二つの事件こそ、有朋が考える自由党の黒い裾野であった。今のところ、それは途中で分断され、消えてしまったものの、今後、そのつながりが日本のどの土地に頭をあげてくるかしれない。高田事件の首魁にも福島事件と同じように厳罰で臨んでもらいたかった。  高田事件の首魁は赤井景韶という男である。高等法院の裁判の結果は、大臣暗殺事件として赤井だけが有罪となり、重禁獄九年を言い渡された。  まず以て適当であろう、と有朋は考える。  すると、その年が昏《く》れて、翌十七年の二月のことであった。  有朋は、突然、内務省警保局からの報告を聞いた。赤井が石川島を脱獄し、海を泳いで明石町《あかしちよう》河岸に這い上がり、俥夫を一人打ち殺したというのだった。 「どうもよく分らぬ。どねえして俥夫を殺したんじゃ? そして破獄したのは赤井一人か?」 「いいえ、脱獄は赤井だけでなく、同房の松田克之という者と二人でございます。この男は、大久保内務卿を暗殺した島田一郎の連累でございますが、なんでも、二人で遁《に》げるために乗った俥《くるま》の俥夫を殺害したらしいのであります。いま、緊急手配を致しております」  有朋は返事をしない。|こめかみ《ヽヽヽヽ》に太い筋が浮いていた。      41  赤井の破獄の事情は、やがて判明した。赤井は高等法院の言い渡しを受けると潔く服罪して、直ちに石川島監獄へ送られた。あとで考えてみて、彼が強《し》いて争わずに服罪したのは、そのときから破獄する下心があったようである。石川島監獄で偶然いっしょになった同房が松田克之であった。  赤井は松田を味方にして計画を考えていたようだが、松田はどことなく軽薄で、さきに島田と一しょに大臣暗殺を試みたのも特別に深い思慮があってのことでなく、何か大きなことをやろうというだけの気分だったらしい。赤井としては、こういう男を道づれにするのは危険だと思ったから、しばらくは本心をうち明けなかったと考えられるふしがある。  彼が入獄してから二日目だった。向い側の房に、頬から真黒い髯を生やしている大きな男がいた。  偶然、朝、顔を洗いに廊下へ出たとき、赤井は看守の隙を窺い、河野先生ではありませんか、と声をかけた。おう、赤井君か、と河野も応える。  それから、赤井はつとめて看守の眼を偸《ぬす》んでは河野に接近しようとしていた。そのうち、河野は軽禁獄七年であるから、とてもおとなしく監獄にいるはずはないと思ったか、赤井は脱獄の決意をうち明けた。  この辺は、河野の供述によることだが、彼はおどろいて赤井の無謀を諭した。赤井はそれでも決心が鈍らない。このまま九年もこういう所に屈《かが》んで青春を無駄に過す気持はないらしい。しかし、脱獄をしようにも同じ房に松田がいるので、彼に事情をうち明けないわけにはいかなかったのだ。  赤井は遂に決心をして松田に本心を明し、おまえも一しょに手伝うか、と訊き、松田は欣然《きんぜん》としてこれを快諾した。赤井としては松田に不安を感じたが、同囚である以上彼を味方につけるほかはなく、遂に二月の下旬石川島監獄から脱け出して、隣りの佃島との間に流れている細い川に浮かんだ舟に乗り、築地明石町河岸に着いた。  いろいろな点を総合して考えると、二人のそれからの行動は次のようなことであったらしい。  明石町河岸に着いた二人は、それから京橋のほうへ出ると、折から空俥《あきぐるま》を引いている一人の俥夫に出遇った。二人は他人に怪しまれないため、一しょにそれに乗った。場所柄でもあり、相乗俥があったのである。  赤井の弟が本郷|竜岡町《たつおかちよう》に下宿住まいをしていた。二人はそこに乗り着けて、弟を呼び出したが、下宿住まいの書生の身ではどうすることも出来ず、弟は一しょに下宿している書生の小遣銭を取り上げ、自分の蓄えたものをこれに加えて兄の赤井に渡した。赤井としてもそれくらいの端銭《はしたぜに》ではどうすることも出来ないから、また前の俥に乗って、今度は京橋|新肴町《しんさかなまち》の熊本県士族林正明という男の所に行った。林の書生をしている井上という者が赤井と入れ違いに監獄の房にいたので、顔見知りだったのである。  赤井が井上を呼び出して金策の相談をしたので、井上もおどろき、恰度、新潟から知人が上京して日本橋の越後屋に宿を取っているので、そこに訪ねて行き、自分の紹介だと言えば旅銭ぐらいは呉れる、と教えた。これは井上の供述による。  二人はまた前の俥に乗って日本橋まで行かせ、越後屋を訪ねると、折よくその男が宿にいたので、三十円ほどの金を貰った。そして元の俥に戻ろうとすると、その俥夫はぐずぐず言い出した。  無理もない。明石町河岸から正体の知れない男二人を乗せて本郷まで行き、それから京橋に行き、今度は日本橋に来て、さらに千住の大橋まで行けと言うのだから、俥夫はくたびれてもいたし、気味悪くも感じたのであろう。  俥夫がこれまでの俥賃を貰って帰りたいと言い出すのを、二人は、それでは困るから、もう一度何とか言うことを聞いてくれ、と宥《なだ》めたり賺《すか》したりした。それが越後屋に泊っている男の耳にも入って、係官にその通り述べている。  赤井が俥夫に千住の大橋に行けと言ったのは便宜上の行先で、実はもっと向うに遁げたいのが本心だったようだ。  これから先は単独で捕縛された松田の供述だが、千住の大橋を渡るころに俥夫も二人の挙動不審に気がついたらしい。この様子が俥に乗っている二人に分って、赤井は、俥夫がわれわれの様子を気取ったようだから、いっそのこと打ち殺してしまおうと、松田の耳にささやいた。  俥夫が殺された現場は小菅《こすげ》集治監へ行く間道で、赤井がもういいから、ここで降ろせ、と言った。そこは田圃の真中であるので、俥夫もおどろいて、この田圃の中に降りてもお互いに迷惑だから、御都合のいい所までお供をいたしてもよろしゅうございます、と言った。  とにかく、まだ夜は明け切っていない。田圃の向うには微かに人家の灯が洩れている。だが、ぐずぐずしていると、やがて夜が白み、人が通りかかるおそれもある。二人の心はかなり焦っていた。  俥夫は客に止められ、梶棒《かじぼう》を下ろして、うしろを振り返ろうとする途端、松田が懐ろに隠していた鉄の棒を持って俥夫の脳天を力まかせに叩いた。声もあげずに俥夫は前にのめる。  これは、警察で検屍の結果、俥夫の脳天が鈍器様のもので殴られていることからも嘘ではない。  死体の俥夫に石川島の獄衣を着せてあるのは、赤井が俥夫の衣類を剥ぎ取って着て、松田を俥に乗せたからで、それからもと来た道へ引き返した。  あとの捜査で、その該当の俥が万世橋の傍に棄てられてあるのを発見した。  この事件は、石川島を破獄した重罪人がさらに俥夫を殺害したというので警視庁でも大騒動となり、八方に刑事が飛び回った。その一人の聞き込みとして、神田の鍛冶町の今金という軍鶏屋《しやもや》の二階に二人づれの男が上がり、酒を相当飲んだ上、腹一ぱい飯を食ったという事実が分った。  そこで、刑事がそれから先の二人の足跡を手繰ってみると、本郷台の聖堂坂の所で客待ちをしている俥夫が、二十四、五の若い男客を拾った。誘うと、すぐに俥に乗ってくれ、親類に急用が起って浦和まで行くのだが、今夜行ける所まで行けと言う。  浦和とは遠いですな、と言うと、賃銀はいくらでも出すからやってくれ、と頼む。俥夫は、よろしゅうございます、と言って駆け出したが、実は、この俥夫は刑事の下で働く諜者で、俥夫に化けて、この辺に張込みをやっていたのであった。松田は逮捕された。  警察で松田を厳しく訊問すると、松田は赤井とは神田の軍鶏屋を出てからすぐに別れたという。赤井は二人でつながって歩いては目に立つから、この辺で別れよう、と言い出したが、松田が、君はこれからどうするつもりだ、と赤井に訊くと、赤井は、ちょっと考えがあるから甲州街道へ行き、八王子村の知人の家に寄るつもりだ、と洩らしたという。  そこで、警察では八王子一帯を捜索したが、赤井の姿は発見できないばかりか、その足跡すら掴むことができなかった。  ──ここまでの報告は、その都度、有朋の耳に届けられた。彼がこの自由党員の脱獄事件に異常な関心を持っていることを警保局で知っていたからであった。      42  赤井景韶は甲州街道から甲府へ遁げた推定が強いので、警視庁は甲府の警察本部に向って、赤井は甲州街道へ入った形跡がある、大いに警戒せよとの電報を打った。それに対して甲府警察署からは、断じて当管内に侵入の形跡なしと返電して来た。  その頃、山梨県南都留郡宝村の者で、横浜に行って巡査をしていた男があり、勤務先で病気に罹り、その静養のために村へ帰っていたが、村外れの山中の寺に前には見かけなかった下男がいるのを知った。住職にひそかに訊くと、八王子の者だが、家が離散して食うに困るので、と頼まれて当分使っているのだ、とのことであった。  横浜の巡査は、早速、甲府警察署に行き、赤井の手配写真を見ると、寺の下男の人相が酷似していた。巡査は住職に頼んで張り番をそれとなくさせ、自分はなおも真偽を確かめるつもりにしていると、或る夜、寺からその男の姿が突然消えてしまった。──  甲府警察署では、赤井に逃げられておどろき、その逃走路は東海道に出るよりほかないと信じ、警視庁はじめ、東海道筋の警察署へそれぞれ電報を打った。  この推定通り、赤井は、甲州の寺を脱け出して山越えで東海道に出て、静岡県の鈴木音高という代言人のところに変名で居候をしていた。  鈴木は地方の自由党員だが、いつも書生や食客を三、四人は置いていたから、赤井がここに潜伏していても、土地の警察でははじめあまり怪しまなかった。  が、警視庁からの手配電報で、偵吏が鈴木の家に近ごろ食客となっている山田という男を怪しむようになった。  このことが鈴木にも分り、鈴木が山田に質すと、まさに赤井景韶であると本人が打ち明けた。鈴木は、危険を告げて、赤井を島田宿の清水綱義という有志家のもとに送りつけた。  ところが、静岡警察署には安部という国事探偵がいて、この者が、鈴木の家を出た書生が赤井であると気がついて、その後を尾《つ》け、清水の家に逃げこんだことを知った。網を張って、彼の外出を待ちうけていると、清水も赤井を留めておくのが危いと知って、浜松方面に脱《のが》れさせようとした。  やっと脱出した赤井が大井川にかかったとき、橋の番人は高須という警部の変装で、赤井が何も気がつかないで通りすぎようとすると、高須がうしろから、赤井、と呼んだ。  赤井が思わずふりむくと、近くをうろついていた乞食やくず拾い姿の捕吏が、赤井にとびついて重なり合って押えた。  赤井は、清水港から汽船に乗せられて東京に送致され、鍛冶橋の未決監につながれたが、その罪名は、破獄・殺人・窃盗であった。前に縛に就いた松田と赤井の公判がはじまった。  赤井に対する裁判言渡しの宣告書は、弁護士の弁論が済んで三十分ほどの休憩の間に作成されたが、それはかなりな長文で、普通に書けば二時間も要する長い宣告であった。これが休憩時間の三十分間に出来たことで、裁判が開かれる以前に、この宣告書が出来ていたことが分る。弁護士の勧めで赤井は上告したが、これは却下されて、松田と彼は死刑の処刑を受けた。  赤井事件は高田事件の余波のようなものだが、こういうこともいちいち有朋の耳に報告されてくる。  有朋は、福島事件のあとから起るものに注意していた。すでに赤井も獄中で河野広中の感化を受けている。あれほどの大騒動をした福島事件が、そのままに収まるとは考えていなかった。  思った通り、明治十七年九月に加波山《かばさん》事件が起った。これは、河野広中の甥|広躰《ひろみ》や、三浦文治、五百川元吉などといった河野配下の連中と栃木県の自由党グループが合流し、三島通庸の暗殺を企て、栃木県庁舎落成式に出席する政府首脳とともに爆殺しようとした事件である。  三島は福島事件が落着しないうちに栃木県に転任して県令となった。彼は根からの土木事業好きで、従来の日光街道に沿うて新街道を造ろうとして土木工事を起したが、このため栃木県税が多くなった。県民の負担が重くなっただけでなく、福島県でやったように農民の壮丁を駆り出して、しきりと工事に使役した。そのため県会と激しい争いを起したが、前の福島事件で苦しい経験をなめている三島がここでも同じようなことをやったのは、土木工事にこと寄せて県会議員中の自由党員を掃蕩しようとするのが狙いであった。事実、栃木県の相当な党員が入獄した。  この方面の自由党員は鯉沼九八郎《こいぬまくはちろう》という男で、彼は日ごろから多くの党員や壮士を集めていた。  九八郎が、或る日、栃木の師範学校の化学の教師をしている福田某という友人を訪ねたとき、福田は『自由の燈』という新聞に出ている「地底の秘密」という小説を見せた。土佐人|宮崎夢柳《みやざきぼうりゆう》の翻訳であるが、原書は、ロシア虚無党のアレキサンドル二世に爆裂弾を投じて暗殺したソセヤペロスカヤという女虚無党員の伝記のようなものであった。  九八郎の頭に泛んだのは、ロシア皇帝を仆した爆裂弾の仕掛けであった。彼は福田に向って、爆裂弾というものは全体どういうものであるか、と訊いた。福田は何気なく、日本ではまだ多く用いられていないが、つまり、ダイナマイトのようなもので、それと違うのは、口火をつけないで、ただ投げさえすればすぐに破裂するという性質の、極めておそろしい力を持っているものであると説明した。九八郎は、あまり詳しく訊くと怪しまれるので、福田から聞いた製法をうろ憶えに、それとなく栃木町に出るたびに薬を買って、秘かに爆裂弾を造りはじめた。一発か二発出来ると、真名子村の山中に入って、人知れず谷間に投げ込んでは爆発力の試験をしていた。  しかし、元来、基礎知識がないので、何度やっても失敗した。一向に爆発しないで、缶だけが谷間に転がるだけである。しかし、彼はなおも家の者には知られぬように自分で研究しては試験をつづけていた。そのうち十発のうち一発ぐらいは、微かな力ではあるが破裂するようになった。  九八郎はようやく自信を得て、爆裂弾の爆発力が順当にゆくところまで研究したが、その製造中に爆裂弾の一つが思いがけなく破裂した。この破裂音で近所が騒いだが、九八郎は、花火の製造中に火が入ってこの不始末になったのだ、と言い訳をして集った人を帰した。この地方は花火の盛んな所で、どこの農家でも暮しの豊かでない者は、平生から花火の製造にかかるという慣習があったので、人々もさしてこれを疑わなかった。  この爆発騒ぎで、九八郎は左の手首を切断され、左の眼が潰れて、全身に火傷《やけど》を負った。が、近所の人に秘密を知られてはならない一心から、人々が駆けつけて来たときも泰然として坐っていた。  九八郎の家には三島暗殺の同志が集っていたが、この爆発騒ぎが警察に知られると容易ならぬ事態になると考えて、九八郎は彼らに金を与えていち早く逃がしてしまった。連中は茨城県の下館《しもだて》という所に集った。  しかるに、偶然、同じ日に東京に一事件が持ち上がった。  河野広躰、小林篤太郎、門奈繁次郎とほか一名は、栃木県庁のある宇都宮に乗り込む日も近づいて来たので、その費用集めに東京に出動していたが、普通の手段ではとても金が集らぬ。神田の裏|神保町《じんぼうちよう》に「山岸」という質屋があり、河野も門奈もよくそこに質を入れにゆく関係で家の様子が分っているので、まず、ここから先にまとまった金を得よう、ということに一決した。  九月十日の夜九時ごろ、めいめいが仕込杖や短刀を携えて「山岸」の店先に来ると、顔を覆面し、栃木から持って来た爆裂弾を一発ずつ懐ろにして、質物を入れる風をして格子戸を開き、中に侵入した。仕込杖を抜いて脅迫、表の戸締りをして、店の者を縛った。  四人は、二十円未満の金を受け取って質屋の裏口から表神保町に出たが、そのうしろから質屋の亭主が尾行して来て、警察署の前まで来ると、泥棒泥棒、と叫んだ。このとき、通行人に追っかけられた門奈が振り返りざまに一発の爆裂弾を投げつけ、四、五人の巡査と、追いかけて来た野次馬二、三人を負傷させて倒した。つづいて河野も小林も持っていた爆裂弾を投げたので、その響きにおどろいた追手がひるんだすきに四人は懸命に遁げ去ったが、門奈だけは多くの者に包囲されて捕縛された。      43  残った連中は、もう逃れる途がないとして相談の結果、加波山に拠って事をなすということに決した。一行が下館を立ち退いて加波山に赴くときは、二カ所も爆裂弾を投げて巡査を竦《すく》みあがらせている。首領は下館の剣客|富松正安《とまつまさやす》であった。  彼らが加波山に立て籠って村民に配布した檄文は、 「方今、わが邦の形勢を観察するに、外に条約未だ改めず、内は国会未だ開けず、ために姦臣|政柄《せいへい》を弄し……故に我輩同志ここに革命の軍を茨城県真壁郡加波山上に挙げ、以て自由の公敵たる専制政府を転覆し、完全なる自由立憲の政体を造出せんと欲す」  という趣旨であった。  彼らは、夜は篝火《かがりび》を揚げ、爆裂弾を放って虚勢を示した。そこで、十人から成る一隊は山を下って町屋分署に爆裂弾を投じ、官金十六円余とサーベル、刀六本を略奪、さらに豪農の家に押し入って二十円を奪い、証文を残して引き揚げた。  ──有朋のもとに内務省から人が来て、茨城県令の電報を見せた。 「自由党の壮士三千加波山に籠る。応援頼む」  有朋は細い眼で電文を凝視していた。 「この電報を打った県令は、どねえな男だ?」  と内務省の役人に訊いた。 「人見寧《ひとみやすし》という者で、元旗本でございます。曾ては西郷隆盛を斬るために鹿児島県に出かけて行ったような、屈指の撃剣家でございます」  役人は県令のことをそう紹介した。 「そうか。西郷を斬るほどの撃剣家も胆は細いようじゃのう」 「は?」 「三千とあるが、三十の間違いじゃないか。あの山に三千とは、ちいと眼が霞んだとみえる」  有朋は、河野広躰などが爆裂弾を使用したということに異常な関心を持っていた。この爆裂弾の暗示をロシア皇帝暗殺の翻訳小説から得たということは、このときはまだ分っていない。それは公判にかかってから分明したことだが、しかし、兇徒が爆裂弾を使ったのはこれまでにない事件である。  福島事件が何かのかたちであとを引くとは有朋も考えていたが、これほど兇悪な性格を帯びてくるとは想像していなかった。彼らが東京で質屋を襲ったことといい、群衆に爆裂弾を投じたことといい、自由党員もすでに秩序を失った暴徒団と化している。  板垣と大隈への政府側による懐柔が自由民権運動の分裂を来したが、取り残された末端がこのような性格になることはかねてから有朋の予想にある。しかし、その後も下館の町で爆裂弾を投じ、真壁町の警察分署に爆裂弾を投げ込んだりするような状態にまでなるとは思わなかった。竹槍や日本刀、鉄砲などなら今までと変りはない。しかし、爆裂弾使用となると重大である。  有朋は、全力を挙げて加波山の一党を勦滅《そうめつ》せよと内務省に厳命した。  巡査、人夫百余名に加波山の麓を取り巻かれた党員たちは、脱出して東北の同志を糾合することにし、いっせいに山を下った。ここで包囲の官側と戦い、平尾八十吉は戦死を遂げ、包囲勢のほうでも巡査一人が即死、数人の負傷者を出した。  九月二十八日に河野広躰とほか一名が栃木県の民家で捕われたのをはじめとして、党員たちは悉く縛に就いた。彼らは国事犯として高等法院の裁判に付せられんことを望んだが、裁判所側では強盗または殺人等の重罪犯人として富松正安、三浦文治以下を死刑とした。  加波山事件が落着して間もなく秩父《ちちぶ》事件が勃発する。  上州自由党の幹部に新井愧三郎《あらいきさぶろう》、宮部襄《みやべゆずる》という者がいた。明治十七年四月、その影響下にあった秩父生れの村上泰治は、国事探偵を殺して下獄したが、獄中で死亡した。新井、宮部も謀殺教唆罪として有期徒刑十二年に処せられた。村上亡きあと、同郷の友人である井上伝蔵《いのうえでんぞう》が、秩父自由党の中心人物だった。  秩父地方では十六年秋から、農民の窮乏化がめだち、くりかえし農民の請願運動が行なわれていた。秩父の各地で、困民党の組織がのびていた。秩父の自由党員はまた困民党の組織者でもあった。井上伝蔵、田代栄助、加藤織平、落合寅市、高岸善吉、坂本宗作、柳原政雄、新井周三郎、村上の妻ハンなどの人たちである。  田代や落合などは、農民が重税に苦しんで貧窮しているのに、ひとり政府要路者だけが権勢を貪り、ぬくぬくとした生活をしているのを憤って事を起そうとした。彼らは秩父の山嶮に立て籠って旗を挙げる計画であった。  一同は、群馬、長野、山梨諸県の同志の蹶起を期待し、十七年十一月一日、秩父郡下吉田村椋神社の境内に参集した。その数三千名余り。彼らは貧農と博徒と猟師であった。  これより先、村上の妻は東京に出て、大井憲太郎を銀座の事務所に訪ねた。大井は大分県馬城山の麓、高並村の生れで、号を馬城と称し、しきりと党員を指揮して活動していた。村上の妻は大井に会って、秩父方面で挙兵をする計画を打ち明け、援助を頼んだ。  大井は仰天してその無謀を諭すため、部下の氏家直国《うじいえなおくに》という男を秩父にやることにした。氏家は仙台の旧藩士で、身長六尺以上、容貌魁偉の男であった。  氏家は秩父で田代をはじめ一同に会い、説得につとめると、すでに大勢が集っている。彼らは怒って、かえって氏家を叱責した。のみならず、われわれの秘密を探りに来ただけでなく、さらにそういう弱い議論を唱えて同志の決心を妨げる者は殺してしまえ、と騒ぎ出した。  氏家がなおもその無謀を諭すと、一同もやや彼を信じるようになったが、氏家も行きがかり上、真剣に彼らの相談を受けるような羽目になった。彼はかえって彼らの指揮者になっていた。  それで、氏家の説にもとづいて、このとき農民が押し立てた旗印は、第一が地租軽減、第二が徴兵令改正であった。氏家は曾て陸軍軍曹であった知識をもって、三日間、三千の集団に軍事教練を行なって帰京した。  農民の集団は、十月下旬から動きはじめ、秩父山中の大宮郷(現秩父市)から川越に抜ける山間の嶮を擁して事を挙げたのである。  この報告が内務省に届いたのは十一月二日夜であった。埼玉発の電報は、本県下秩父郡の暴徒すでに九千人に及ぶ、と書いている。彼らは銃器、刀剣などを携えて、同郡|小鹿野町《おがのまち》に火を放ち、大宮郷に抜け、押し出す模様だとある。その勢い猖獗《しようけつ》のためにすでに巡査七名は死傷し、警部巡査ではこれを鎮圧することができない情勢にある。最後に、もし、この暴動が長引けば、他の地方に波及する惧れがあるのみならず、帝都に接近の地であるから、速かに鎮定したし。至急憲兵の出張ありて取鎮められんことを企望する、と電文にあった。  これが山県のもとに届けられたのは十一月二日の午後十一時すぎであった。  表の戸を叩く音がするので、有朋は眼を醒まして聞いていたが、やがて家の中から下婢が門まで出て行った様子である。有朋は寝巻を普通の着物に着更えて待った。妻子はそのまま寝かせてある。  婢は内務省の役人が来たことを告げた。 「また愚民が暴動を起しました」  と、男はランプの下で電報を有朋に見せた。ランプは、机を蔽ってひろがった羅紗《ラシヤ》の青い布の上に置かれてある。 「報告によると」  と彼は付け加えた。 「暴徒の旗印は、地租の軽減と徴兵令の忌避にあるそうです。そして、この暴動に加われば、百姓は裕福になり、楽な暮しが出来ると吹聴しているそうです」  有朋は、険しい表情で一語も発しなかった。しかし、気持の上では動顛している。もはや、民権思想などといった生優しい主義上の問題でなく、秩父の暴動民は貧窮に迫られての一揆だ。有朋は、その手強さを十分に知っている。農民が民権思想にかぶれたとしても、さしたる素養も理論もないので、死まで賭して戦うということはない。だが、生活を賭けての一揆は団結力が強く、意志が鞏固だ。  秩父だけでなく近郷の百姓も呼びかけに参加するに違いない。暴動がすでに大宮郷まで来ているなら、早急に鎮圧しないと、取り返しのつかないことになる。  有朋が東京鎮台に出動命令を出す決心をしたのは瞬時の間だった。  東京鎮台からは隈本少尉が憲兵一小隊を率いて、三日の午前一時三十分、上野特別仕立の汽車で秩父方面に向った。有朋が鎮台司令官に命じて僅か一時間後の出動であった。春田少佐は隊外視察として同行し、別に小笠原中尉、蔭山少尉が憲兵二小隊を率いて同日午後、上野発の列車で出発した。  暴徒の情勢は、内務省から刻々と現地発の電報を届けてくる。すでに暴徒は三十一日朝には、秩父郡|風布村《ふつぷむら》の農民を中心に各地から合流し、夜、金崎村《かなさきむら》戸長役場と民家に乱入して証書、地券などを焼き、人を傷つけている。群馬県|南甘楽郡《みなみかんらぐん》(現多野郡)では山村の部落民三十名が乱暴を働いている。  群馬発の電報によると、右の兇徒は秩父郡の暴徒に加わっているという。岩鼻監獄署では徹夜で警備している、とあった。暴徒の一手は寄居町《よりいまち》に出たので、巡査隊が鎮圧しようとすると、暴徒からは大砲を撃ちかけて抵抗してくる。尤も、大砲は鉄製か木製か判然としない。  四日の埼玉県庁発の電報では、暴徒はうしろ鉢巻、襷をしているが、号令者は自由党員、博徒、モグリ代言人などで、地租減額、徴兵令改正を口実とし、負債の義務を免れんがために商家に乱入して書類を焼き、金穀《きんこく》を奪うを目的とし、南甘楽郡の人民を煽動して岩鼻の監獄署を襲い、そこに拘留されている自由党員を奪うのが目的らしく、暴徒は決死隊百名ばかり、とある。  次の報道では、秩父郡の大宮郷の郡役所、裁判所、警察署を焼き、それから諸手に分れて沿道ところどころの村民を脅迫して従わせ、なおも県庁を襲撃すべき形勢にある。その人数は、大宮郷、小鹿野町、皆野村の三カ所に目下屯集するものの如く、千人とも、あるいは五千人ともいう風説があるが、たしかでない。  三日出発した鎮台憲兵隊一小隊は、後続二小隊と共に暴徒の鎮圧に当っているが、暴徒側は思いのほか多人数で、大砲、小銃を携帯し、とうてい二、三小隊では捕縛は困難である、と報じてきた。  そこで、鎮台は四日午前十一時に歩兵第三連隊第一大隊を山本少佐引率で現地に急行させた。  五日の夜、鎮台兵の鎮圧状況が熊谷発の電報で有朋のところに届く。有朋は、役所から帰っても夜遅くまで床に就かず、机の前に坐っていた。  電報では、山本少佐が引率した歩兵一大隊は、深谷駅《ふかやえき》に下車し、寄居町に到着。五日朝五時、歩兵二中隊、憲兵若干名は本野上口に、歩兵一中隊、憲兵若干名は鉢伏峠に進撃の手配をし、別の歩兵一中隊は小川口から進撃の手配をして、すでに児玉郡金屋村に到着して野営を張っている。  一方、暴徒側は金崎村の宝登山《ほどさん》に籠っている様子で、暴徒七、八十名ばかりは山を下り、太駄《おおだ》村に放火し、元田村を経て、十二時ごろ、児玉町を去る僅か八町余りの金屋村に襲来した。鎮台兵はこれと応戦し、一時二十分ごろまで激戦したが、暴徒は敗走し、死傷者多数を残している。鎮台側では兵一名、巡査一名が負傷しただけで、暴徒二人を生け捕りにしている。  十二時三十分寄居発の電報は、二時間後に届けられた。  暴徒は児玉郡大田村に侵入して放火し、源太村まで来襲したが、金屋村で鎮台兵と交戦し、賊は潰走した。暴徒は四、五千人ぐらいで、銃器は二千梃余りと見込まれる。  こうした電報が三時間ごとに有朋の眼にふれるのだった。  暴民団は、埼玉、群馬、長野、山梨諸県にわたって各|官公衙《かんこうが》を破壊したが、軍隊、警察隊と戦うこと、三昼夜余に及んだ。  しかし、彼らは次第に敗走し、首謀者の井上伝蔵は逃亡した。ほかの首脳部は漸次捕縛され、事件が終ったのは十一月九日であった。のちのことになるが、田代、新井、加藤ら七人は死刑判決、その他処罰された者三千六百余人に及んだ。  首謀者の井上伝蔵の行方は分らなかった。井上は女のような美男子だったので、旅役者の群に紛れて潜伏しているとか、どこかのお妾さんの所に隠れているとかいう噂が高かった。潜行三十五年、北海道北見国野付牛村(現北見市)で大正七年息を引きとったという事実が判ったのは最近のことである。  秩父事件は、政府の要路者の気持を動揺させた。秩父事件は、自由民権という旗印よりも、地租の軽減要求という、真に農民生活の窮乏から起っている。つまり、今までの自由民権という概念的なものより、一歩より具体的なものになっているのだ。加波山では、兵器としては爆裂弾を使用している。秩父では、中央政府を倒すことによって農民が豊かな生活が出来るという呼びかけに、各地の百姓が応じた。そして、他の事件に見られない多数の農民の参加者を得たのである。  有朋は、早速、陸軍省に命じて、各師団の管下にある連隊についての壮丁の思想調査を行なわせた。殊に農民出身の兵に対しては、その環境、貧困の程度、隊内における言動などを詳細に調べさせている。  秩父事件の余波はまだ収まらず、新聞も人心が神経衰弱になっていることを伝えた。 「秩父郡に暴徒の一挙ありてより一揆沙汰は世の流行の如くになりて、何県に不穏の色あり何郡に暴動の屯《たむろ》ありなど都鄙《とひ》の諸新聞に事々しく書立たるを見て、其の実地を探問すれば、或は無根の虚説あり、或は絹針ほどの事を六尺棒ほどに伝聞せるもあり、是も亦例の流行の伝説にてもやあらむ」      (明治一七・一一・二一 東京日日)  十月二十九日、自由党は大阪で大会を開いて解党を決議した。片岡健吉《かたおかけんきち》が議長となり、解党大意を朗読したのち、板垣がそれを説明し、満場一致で解党に同意した。  自由党の解党は、その前から、党の行詰りと、党財政の貧困とでちらほらと有朋の耳には入っていた。彼は伊藤などと相談して福地源一郎に命じ、自由党の幹部攻撃をしきりとやらせていた。改進党の機関紙も前から引きつづいて自由党を攻撃している。  板垣はあとを星亨に渡したが、星は舌禍事件で入獄したため、さらに自由党は打撃を受けていた。星は獄内から解党反対の電報を打って来たほどで、もし、星が無事でいれば、自由党の解党はもっと遅れたかもしれない。  自由党の解党は財政の行詰りにもあったが、各地の暴動がいずれも地方自由党員によって起されたので、世間もようやく自由党の過激であることに嫌悪を示すようになったことも一つの背景である。  板垣は、解党後、土佐に帰った。      44  明治十八年の十一月二十三日、有朋は、役所の窓をぼんやりと見ていた。寒い日で、雨まじりに霰《あられ》が音を立てている。属官が慌しく入って来て、有朋の傍近くに進んだ。 「大阪府警察からの電報でございます」  属官は、そう言って退った。  有朋は電文を読んだ。自由党の大井憲太郎という者が、爆裂弾を製造して朝鮮に押し渡る目的で、大阪附近で軍資金の調達をなすため強盗を働いたというのである。  詳細なことはあとになるが、とりあえず報告するとあった。有朋は、電報を四つにたたみ、黙ってポケットの中に収めた。 「詳しい報告を、なるべく早くするように」  と、大阪府警察本署宛に後報の電報の催促を下僚にさせた。  関東自由党の大井憲太郎が朝鮮に渡る計画だったと聞いて、これには金玉均が一枚入っているな、と思った。金玉均のことは、とかく、近ごろの話題になっているが、評判はあまりよくなかった。彼は朝鮮の事大党に圧迫されて日本に亡命して来た政客だが、日本に渡ってからは、さまざまな政府の要路者と会っている。  有朋のところにもその話が持ち込まれてきたが、彼は断った。話に聞くと、金玉均という男の行動には、どうも腑に落ちないところがある。はじめは福沢諭吉《ふくざわゆきち》のところに匿《かく》まわれていたが、福沢が彼をよそに移したという情報も入っていた。その金玉均が大阪に行ったことも分っていたが、まさか、そこで大井憲太郎と結びつきが出来ようとは思わなかった。  大井は渡鮮を考えて爆裂弾を造っていたというから、金玉均を盟主にして朝鮮の内廷を一挙に覆し、そこに革命を立てようという計画であろうか。これには、当然、金玉均が主体となっているように考えられる。  有朋が次の報らせを待ちかねていると、それはやや詳しいかたちで報告されてきた。逮捕されたのは、大井憲太郎のほか、小林樟雄《こばやしくすお》以下十一人で、そのほか長崎からも同事件に関連して旧自由党員十五名が拘引されているとあった。  大井憲太郎といえば、自由党では錚々《そうそう》たる人士だ。それが強盗を働くくらいだから、よほど軍資金に困っているようである。自由党も永年農村の地主から運動資金を徴収していたが、この様子では、すでにどこからも金が出なくなったものとみえる。実際、地主の中には、このような政党寄付が出せなくなったくらい財産を蕩尽《とうじん》している者もいる。  しかし、これは有朋が松方にすすめて行なわせたデフレ政策の滲透が、ようやく農村の疲弊を来したということである。つまり、自由党の台所を賄っていた全国の農民が、ようやく米価の転落によって窮乏に陥りつつある証拠でもある。  事件の続報は、その夜、山県が家に戻ってから届けられた。  それによると、関連者は、大井、小林のほか、茨城の自由党で磯山清兵衛という者がいる。群馬自由党では久野初太郎、橋本政次郎、福島自由党では田代季吉、北陸自由党では鳥住、川村、井山、窪田、稲垣などという者がいる。  また、神奈川県の自由党からは村野常右衛門、長崎喜作、山本与七その他六名が加わっている。問題の土佐自由党は、僅かに山本憲一名であった。そのような名前を見ているうちに、景山英という文字が有朋の眼に止まった。 「なんだ、これは女子《おなご》か?」  属僚に訊くと、 「はあ、そのようでございます」  と、属僚も首をかしげて答えた。 「女子が爆裂弾を造っていたのか?」 「まだ詳しい報告は参っておりません」 「そうか。この女子は幾歳《いくつ》になるか?」 「さあ、その点も……」  有朋は切長な鈍い眼を逸らして煙草に手をつける。彼は属官を退らせたあとでも、無性に煙を吹いていた。煙草は好きなほうだ。  これまでの自由党の暴動に直接婦人が加わったことはない。前の秩父事件で、党員の夫人が使いに当ったことはあるが、直接、爆裂弾を造ったり、強盗を働いたりするようなことはなかった。これは由々しいことだと思う。  あとの詳しい報告がこないと分らないが、これだけの人数が金も無しに金玉均を応援して朝鮮に押し渡ろうとする企図には、二つの見方が考えられる。  一つは、自由党の資金がいよいよ枯渇したことだ。板垣退助が土佐に隠棲してからあとは、星亨が自由党の台所を賄っていたが、その星も舌禍事件を起して現在入獄中だ。この資金難が彼らの強盗を働く原因になっているようである。  もう一つは、彼ら自由党員が、今度は直接日本政府を脅すということではなく、隣国の朝鮮に押し渡って、清国に親しい勢力を覆そうと企図していることだ。つまり、それだけ政府の基礎が出来て、すでに転覆運動が不可能だと分ったからではあるまいか。そのことは、福島事件、高田事件、加波山事件、秩父事件というように、相次ぐ政府転覆企図が悉く露顕していることでも分る。この事件の連累者は、大阪、東京、長崎でそれぞれ逮捕されている。これを見ても、相当大掛りなことを計画していたらしいことは想像できる。  翌日、黒田内閣顧問の三田邸に天皇の相撲見物の行幸があった。このときは、伊藤も、山県も、特に参列した。黒田は無類の相撲好きである。相撲は長い時間かかった。山県は天皇の前で私語することを遠慮していたが、ようやく最後の西ノ海と梅ヶ谷の勝負が終って、天皇は還御《かんぎよ》になった。伊藤と山県とは玄関まで見送ったが、伊藤がつづいて自分の馬車に歩もうとすると、山県は、その肱《ひじ》をつついた。  別室で黒田を交えて三人で坐ったが、このとき初めて山県は、事件の輪郭を話した。 「まだ詳しいことは報らして来んが、今までの報告はこんなところじゃ」  伊藤は、それを聞いても案外のんびりとした顔をしていた。 「女子《おなご》がそういう仲間に入っているのは珍しいのう。それは別嬪《べつぴん》か?」  彼は髭の下に歯を見せて笑った。  黒田は|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に筋を浮かして、関係者には徹底的な厳罰で臨むことを主張した。 「だが、まあ、早く未然に分ってよかった。それにしても、わが警察も相当な実力を持ってきたものだな」  と伊藤は感心した。彼は欧米から帰ってきたばかりであった。あとで詳しく判った大阪事件は、大体次のような内容であった。  有朋が想像したように、この事件にはやはり金玉均が関係していた。金玉均は清国に依存している事大党との抗争に敗れて、日本に亡命してきたが、彼が福沢諭吉の家を出て阪神地方を転々としているうちに、岡山自由党の小林樟雄と関係が出来たのである。  金玉均は再起を計画し、その援助を小林に頼んだ。彼は四、五十人くらいの日本人壮士があれば、それを率いて朝鮮に潜行し、事大党の要人を悉く暗殺し、政権を奪取することができると言った。小林はその言葉に乗って援助を約束し、すぐに土佐に行って板垣に相談したが、板垣はその軽挙を戒めた。そこで彼は上京して、関東自由党の領袖である大井憲太郎にはかった。大井は、これを自由党の監事である磯山清兵衛に相談した。磯山は当時優れた剣客だといわれた。  そこで、大井、小林、磯山の三人は、協議の結果、連れて行く壮士は手もとにごろごろしているので、あとは軍資金の調達ということとなり、朝鮮に上陸するまでの旅費と、刀剣、爆裂弾などの武器を仕入れるための費用を目算したが、それはまず三千円ぐらいあったらよかろうということになった。  こうして大井を総大将とし、小林を副大将とし、阪神地方と東京の間を往復して、金玉均との連絡に当った。しかし、三千円の資金調達は、大井が二百円出しただけであとの見込みがつかなかった。      45  それでも彼らは僅かな募金をつづけていたが、そのうちの大半は金玉均の生活費に注ぎ込んだ。神戸に滞在していた金玉均は遊興に耽って、小林らが持って来る金のほとんどをそれに使っていた。磯山のほうは二十数人の隊員を得て、その中の一人が鍛冶職の鑑札を受けて、爆裂弾の製造に当ることにした。新井章吾は、その前から隊員数名を率いて大阪に行っていたが、磯山が刀剣、爆裂弾を携えてあとから来て、この新井隊と大阪で合体して待機した。  しかるに、金玉均のほうは一向に腰を上げない。遂に痺《しびれ》を切らして詰問すると、金玉均は平然として、これくらいの軍資金や準備では朝鮮に渡ることはできない、と突っ撥ねた。  そこで、大井や小林はさらに資金調達に狂奔したが、高松の富豪から千円の出資を得たのみで、ほかからはさして金が集らなかった。そこで、彼らは各所で集団強盗をやった。しかし、これも或る村役場で千円を奪っただけで、大した収穫はなかった。  このまま大阪にいつまでもいてはどうにもならぬので、少しでも朝鮮に近い所に進出しようということになり、新井が十人ばかりの壮士を連れて長崎まで先に進んだ。彼は、あとから磯山が本隊を率いて来るものと思っていたのである。  ところが、その磯山は、金玉均が腰を上げないと知ると、前途に見切りをつけて大阪から逃亡してしまった。これが十月の下旬である。  磯山が逃亡したので、大井と小林、新井は大阪で出遇い、新井を渡鮮隊長にし、新たに千円の資金を作り、新井は再び長崎に行った。新井が長崎で待機しているうちに、大阪に残っていた大井や小林などは大阪府警察の手によって発覚し逮捕されたのである。一味の供述によって新井も長崎で捕えられた。また、東京に残っている者も各所で逮捕されたが、その数はすべてで百三十余人であった。  こうしてみると、大阪府警察の功労は大そうなものである。  有朋は、その警部長の名を属官に訊くと、 「大浦兼武《おおうらかねたけ》という者です」  と答えた。 「そうか」  属官は彼の素姓を調べてきた。それによると、彼は鹿児島県人で、いわゆる郷士の伜である。彼は明治四年に東京に出て邏卒小頭《らそつこがしら》となり、次いで司法省少警部に任じられた。明治六年、征韓論で依願免官となって鹿児島に帰ったが、西郷従道の台湾征伐の際には義勇兵を志願し、明治八年に警視庁警部補になっている。その後累進して大阪府警部長となったということだった。  その警部長としての手腕は、属僚の報告を聞くと、なかなか見どころがある。大阪の道路は狭くて、交通警察上一日も放任すべきでないとして、まず、荷車、馬車に厳重な制限を加えた。また、警察事務の敏活を期するため、率先して各警察署に電話を架設し、相互の連絡をはからしている。その成績の上がるのをみて、それ以後、東京警視庁をはじめ、全国的に警察電話の架設が行なわれている。  事件の裁判が大阪重罪裁判所で開かれることに決定したのも、この大浦が内務卿と司法卿に稟議《りんぎ》した結果で、有朋が大浦をはじめて見たのも、その事件落着の直後であった。有朋は、彼を目白台の邸に招いて、大阪事件の探索の顛末《てんまつ》を聞いた。この事件は、これまでの福島事件や加波山事件、秩父事件などと違って、暴徒が騒動を起したから発覚したというのではない。ただ、強盗事件はあったが、それが大井らがやったということもまだ分っていなかった。だから、どうしてそれを大阪府警察で探知し得たか、ということに有朋の興味がかかっていた。  大浦は、それにこう答えた。 「それは或る優秀な部下が探知をしたので、わたしはすぐに高等警察係長稲田警部を長崎に派遣し、暗号電報を往復して調査を続行したのです。これは機密を要するので、わたしが直接に電文を処置し、少しも他の者にはふれさせませんでした。ですから、長崎で彼らの証跡が全く判明したときは、部下もかなりおどろいたようですが、幸い十一月二十三日の夜中に、一挙に大阪と長崎の両地で犯人たちを逮捕することができました」  しかし、まだそれだけでは有朋の疑問に答えたとはいえない。なるほど、警部長としての彼の処置は満足すべきものがあるが、では、どのようなことから大浦が事件を感知したか、その点の説明がなされていなかった。 「それは、わたしの部下に絶えず市内の密行を奨励していました。問題の大井と小林とは、宿屋に大勢の若い者を連れてごろごろしているところから、不審がかかったのです」 「そうか」  有朋はうなずいた。ここでも彼は、密偵政策の実績を大いに認めることになる。 「それにつきましては、神奈川県に杉本孝吉《すぎもとこうきち》という警部がおります。身体は小さいですが、なかなかのやり手で、今度の事件の検挙も、この男が巧く連絡してくれたので成功することができたのです」  有朋は、神奈川県なら東京に近いから、一度、その男をおまえが連れて遊びに来るがいい、と言っておいた。  有朋は、それをその場の挨拶程度に考えていたが、ひと月ばかりして大浦が大阪から上京したとき、その杉本孝吉という警部を連れて来たのには少しおどろいた。しかし、この出遇いが、有朋に高等警察政治の必要を痛く感じさせたのだった。  杉本孝吉は風采のあがらぬ小男だった。大浦の堂々たる髭面からみると、しなびたような顔をしている。有朋が、君はどこの生れか、と言うと、孝吉は案外に大きな声で、自分は丹波の柏原藩の士族だと答えた。話してみると、なかなか面白い。有朋は思わず長時間を過して耳を傾けてしまった。  よくあるように、杉本孝吉は自分の生い立ちから東京に出ての苦労話をざっとしたが、それがいかにも明るく、相手を退屈させなかった。彼は有朋の質問にはこんなふうに答えた。 「神奈川県高座郡|座間入谷村《ざまいりやむら》の役場に、ある晩強盗が入って、小使を縛り、公金を盗んで逃げた事件がありました。このときは犯人が挙がらず、見当もつかないまま未解決でおりました。ところが、そのうち、大浦大阪府警部長から、誰か高等警察の分る警部を大阪に出張させてくれないかという照会が神奈川県警察本署に来ました。そこで、自分は横浜の署長と一緒に大阪に行き、大浦警部長に会ったのですが、そのとき、警部長は、大阪で自由党員が爆裂弾を持って朝鮮に渡る計画をなしているが、神奈川県の自由党員の中にも、その共犯者があると初めて打ち明けられました。そこで一挙に犯人を検挙したいから、早急に調べてもらいたいということでした。  そのときは、神奈川県の自由党員の何人《なんぴと》がその連累者であるか少しも分らずにいたのですが、大浦警部長は非常に事件が面倒であるが、何日ぐらいでこれを探知できるかと申されたので、自分は帰県後二週間以内にこれを捕縛し、引き渡すことができると答えました。それを聞いた横浜の署長は、うっかりしたことを言うといって、自分の答を咎めましたが、実は、自分としては座間入谷村役場の強盗事件当時から常に注意を怠らず、その犯人を物色中であったため、十分に成算があると答えたのです。大浦警部長は、ではどうしてそれを探すことができるかと聞かれるので、自分はいずれそれはあとでお答えするといって、大阪から引き返しました。横浜に帰ってから、自分は県知事と警部長とに会い、こういうことを申し入れたのです。目下、賭博行政処分で十年の懲役になっている高橋平助という者の罪を許してくれたら、必ず、この大阪事件の連累者を明らかにすることができます。……  知事も、警部長もしばらく考えていました。というのは、高橋平助は懲役十年に処せられた男で、それを許すということは普通なら思いもよらぬことだからです。けれども、この高橋は博奕《ばくち》打ちの親分で、元は警察の探偵の下使いをしていたものですから、相当顔の利く男でありました。この男が懲役十年の罪になったのは、土地の小田原警察署長に睨まれたからで、探偵の下使いも辞めさせられた上、懲役十年の処刑を受けたのです。そんなことをいろいろと申しますと、知事も警部長もお前に任せるといわれたので、探索に取りかかることになりました。というのは、私にも目算があったからです。それは、この高橋という男は、日ごろ自由党員と親しく交際をしていて、座間入谷の村役場に入った強盗犯人について、少しは知っているらしいことを最近他からも聞き込んでいたからです。私が大浦警部長に自信をもって約束をしたのも、こういう知識があったためです」      46  杉本孝吉は、知事と警部長の同意を得たため、早速、高橋平助と親しかった探偵巡査の宮沢という男を使うことにした。  ──こういう次第で、おれは請け合ってきたのだ。だから何とかして放免になった高橋をここに連れて来てくれないか。  こういって宮沢巡査に頼むと、宮沢は、主任が請け合ってくれるならば、必ず高橋を連れて帰る、と答えた。  それから、高橋がどこの監獄にいるかと訊くと、たしか仙台にいるはずです、と宮沢は答えた。  ──君、それでは、すぐに仙台に行ってくれんか。  ──承知しました。  宮沢巡査は請け合ってすぐに仙台へ出発したが、それからの二日間、杉本孝吉は仙台の成果如何を待っていた。賭博犯人にしても懲役十年の獄囚を、自分の頼みで釈放してもらったのだし、もし、高橋が一件を明かしてくれないことには、知事や警部長はもとより、大阪の大浦警部長にも申訳がないことになる。杉本がいらいらした気持で待っていると、ほどなく仙台から「高橋同行ス」という電報を宮沢巡査が打って来た。なお、それに付け加えての電文には、高橋は自分に欺かれて横浜の牢に入れられるという惧《おそ》れを抱いているので、横浜に行くことを承知しないから、主任が横浜から東京まで出て来て高橋に会い、このことを言い渡してくれ、とあった。杉本は、その旨を承知の返電をした。  翌日、高橋は宮沢巡査に連れられて東京に着いた。杉本は芝の烏森の待合の隣りに小さな宿屋を知っていたので、そこに出張して高橋と面会し、  ──君が小田原署長の私怨を買って懲役十年という羽目になったのは気の毒であった。それで、自分は県知事や警部長に言って、君を放免してもらうように運動したのだが、それについては一つの条件がある。ほかでもない。自分はいま国事犯人の捜査に当っている。このことについて君が多少でも知っておれば、洩らしてくれぬか。他言は絶対にしないし、君の身柄の安全は絶対に保障する。  杉本がそう言うと、高橋は、  ──十年の懲役を赦《ゆる》されたということは、生涯忘れられません。これはお誓いします。  と言って、懐ろから短刀を取り出し、杉本の前に置いて、手をついたが、物凄い眼つきであった。  ──おまえが自分にそれほど誓った上は、わたしはおまえが横浜に入って来ても決して捕縛はしないし、今日からは自由行動をとってよろしい。しかし、いま言ったように、国事犯の名前を明らかに言ってくれぬか。これは些少だが、牢から出たばかりのおまえは小遣いも無いだろうから、取っておいてくれ。  と、杉本は百円を渡した。この金は杉本が自分から出したのではなく、実は、知事と警部長とが相談の上で機密費として呉れたのである。時の神奈川県警部長は田健治郎《でんけんじろう》であった。  すると高橋は、その百円の金を押し返した。  ──どうしても、このお金だけは戴けません。その代り、あなた様の誠意に打たれましたから、いかようにしても全力を尽して、この事件を調べてみましょう。幸い、わたしは賭博仲間や、|やくざ《ヽヽヽ》の連中とは連絡がありますから、強盗に入ったような犯人なら、誰かが知っているかも分りません。一両日中に、その返事を持って参ります。  こうして杉本は高橋と別れて横浜に帰ったところ、二日目の夜、高橋は官舎に忍んで来た。彼は、高座郡座間入谷村の役場に入った強盗は同村の自由党員で、山本与七、菊田粂次郎、大谷正夫、それに甲州の長崎喜作という者で、その情を知っている者は村野常右衛門、森久保作蔵、難波惣平などで、爆裂弾を製造した者は霧島幸次郎という者です、と報告してきた。いかに博徒や|ならず《ヽヽヽ》者の間に連絡があるといっても、こうまで正確に犯人たちの名前が分るとは杉本も思わなかった。彼はおどろくと同時に大いに喜んで、高橋の労を謝した。  杉本はすぐに部下を連れて座間入谷に出張し、山本与七と菊田粂次郎を逮捕した。つづいて家宅捜索ののちに村野常右衛門、森久保作蔵、難波惣平ほか六名を逮捕した。  しかし、村野常右衛門といえば、この地方で聞えた自由党員なので、わざと強盗殺人教唆犯ということにはせず、身柄を拘束せずに巡査二名ずつをひとりに付け、横浜から船に乗って神戸に行き、大阪まで護送して、彼らを大浦警部長に引き渡したのであった。そのとき、大浦は杉本の功を賞して金百円を与えたので、杉本は随行の巡査一同にこれを分配した。  以上が杉本孝吉の語った話の内容である。 「なるほどのう。博奕打ちも使いようによってはものの役に立つものだな。いや、大そう面白かった」  と、有朋は机の上に長い指を揃え、その一本で机を微かに叩いた。彼が最も愉快なときのしぐさであった。  その晩、有朋は庭に出て考える。大浦兼武という大阪府の警部長は、なかなか出来る男だ。この名前は憶えておこう。  それから、杉本孝吉の話したことも大そう有益であった。彼の話からでも、いかに密偵政策が有効であるかが分る。警察は事が起ってから逮捕に向うのでは手遅れだ。最上の策は、その計画が行なわれているうちに探知し、事件の突発を未然に防ぐことにあらねばならない。そのためには現在の警察制度を改めて、特に、強窃盗、詐欺横領といった一般犯罪より区別する政治犯捜査を独立させなければならない。  しかし彼らは隠微な裡に計画を行なうのであるから、一般の犯罪捜査の方法をもってしては予知することがむずかしい。これは特殊な捜査部を設けて、その技術を養成する必要がある。たとえば、高等警察といった専門部を充実する必要がある。そうして、そこではただ単に警察官ばかりでなく、一般人民の警察の下働きを使用すれば、国事犯の探知を容易ならしめることができるであろう。──  陸軍においては陸軍士官学校というものがある。下士官の養成には教導団がある。しかるに、警察では警官の養成機関がない。警察にも警視、警部、警部補を養成するために練習所を設け、また、巡査部長や巡査を養成するために巡査教習所を設ける必要がある。その目的で、有朋は、去年、三条太政大臣に「警察官訓練の儀上申」をしていた。  しかし、これは主として一般犯罪を対象とする捜査技術の養成に重点があった。有朋は、これに加えて新しく国事犯、思想犯の特別警察の制度を設ける必要を感じた。  彼は、下町の灯が一つ一つ消えてゆく深更まで庭を見つめて、その具体的な方法を考えるのであった。      47  条約改正問題がこじれて、再び民論の沸騰するところとなった。この問題は、井上外務大臣が各国大使と折衝中であったが、政府の中でも、その草案の内容についてこれを不備とする者があり、法律顧問ボアソナードは、裁判権条約草案に関し、日本の独立、名誉、安全のために草案全部を廃棄すべきことを主張した。これが契機となって板垣退助や後藤象二郎の上書となって現われ、条約改正反対論は、国会開設要望以来の政府攻撃の火の手として揚がった。  山県は、この間の情勢を、当時京都にいる品川弥二郎に書簡をもって伝えた。 「今朝伊藤之|面晤《めんご》。委曲御病気之事情、披陳可《ひちんいたす》[#レ]致《べく》相含居申候。井上も頻《しきり》に退職之事申立事情頗困難に立到申候。此辺之事に付ても、御談合可[#レ]致含にて申参候事と察申候。谷、板垣之意見書世間に伝播せしより、物議|囂々《ごうごう》、騒然たる情勢に有[#レ]之候処、此際内閣大臣之更迭有[#レ]之候ては、渠等《かれら》之術中に陥入候様相成、実に遺憾千万。乍《しかし》[#レ]併《ながら》、騎虎之勢たるにては兎角挽回|難《いたし》[#レ]致《がたく》候。事|爰《ここ》に立到候ては、一到|戮力《りくりよく》は勿論所[#レ]望に候得共、仮令《たとい》孤剣単身にても、万軍に当る之覚悟|無《これ》[#レ]之而《なくて》は、維持之目的無[#二]覚束[#一]事に候。其他二三困難之事情有[#レ]之、痛心之至に候。大概事情を申候へば、御承知|相成候半《あいなりそうらわん》と察申候。概略前陳之次第故、御快方相趣候頃、暫時御帰京有[#レ]之候様、於[#二]小生[#一]も企望罷在申候。先《まず》は貴答旁《きとうかたがた》情況併而致[#二]披陳[#一]候。其中御加養|万祷《ばんとう》之至に候。草々頓首」  有朋には、谷干城などが条約改正に反対して内閣を窮地に陥れようとしているのが、彼らの陰謀としか考えられなかった。前に山県に反対した谷は、三浦梧楼、鳥尾小弥太などと連合して上奏文を提出したが、それ以来、陸軍部内の若い者を煽動して反山県の隠然たる勢力を結集したことがある。これは有朋の弾圧で解散させたが、爾来、谷などはそれを深く根に持って、何か事あればつけ入ろうとしている。  また、板垣もいつまでも大人にならないな、と思う。有朋の眼から見ると、板垣にはさしたる信念もないように考えられるのだ。要するに、彼らは周囲の若い者に煽動されて自由民権運動の看板にされているにすぎない。  だが、怕《こわ》いのは、そういう連中の下についている不平組の若者だった。自由民権運動は、国会開設の決定によって一時下火になったが、条約改正問題で、絶好の口実を得たといえる。  国会開設要望運動とそっくり同じことが再び現われた。全国から有志が続々東京に集り、元老院の門前に建白書を提出して坐り込んだり、宮内省に上書する者があとを絶たなかった。のみならず、今度は伊藤や井上の門前に来て面会を強要したりする。彼らの標榜《ひようぼう》するところは、第一が地租の軽減、第二が言論集会の自由、第三が外交の刷新であった。彼らの言う三大題目である。  有朋のところにもそういう連中が押しかけてくる。門を閉ざして絶対に中に入れなかったが、女中などは顔色を変えて怯えていた。  すると、板垣退助が後藤象二郎と謀《はか》って一篇の封事《ほうじ》を天皇に奉ろうとしたが、これは事実に相違のある旨をもって、土方《ひじかた》宮内大臣の手を経て却下されたことが伝わってきた。  だが、この封事の内容は、勝海舟の建白書や、ボアソナードの意見書や、谷、板垣その他の文書といっしょに秘密出版となって諸所ほうぼうに配布された。このような怪文書をめぐって全国有志大会が浅草の井生村楼で開かれ、つづいて愛国有志同盟会が上野の摺鉢山《すりばちやま》に開かれた。井生村楼は以前から自由党有志の集会場であった。  有朋は、情勢が緊迫したのを見て内務省令を出した。伊藤もまた、当時各地方官が上京しているので、これらに政府の方針を訓示したが、有朋は別に各鎮台司令官を召集して、帝都に騒擾がひろがった場合、これの鎮圧に対する方針を訓示するところがあった。  しかし、これでも足りず、彼は警視総監三島通庸を招いて、警察令第二十号をもって布達を発した。 「屋外において公衆の集会を催し、又は多衆列伍運動をなす者は、何等の名義を以てするに拘らず、会主又は幹事等を定め、会同の場所、通行する線路並びに年月日を詳記し、会同三日前に管轄警察署に届出認可を得べし。この規定に違《たが》ふ者は、会主又は幹事を定めざる時は、会員を三日以上十日以内の拘置に処し、又は五十銭以上一円九十五銭以下の科料に処す」  有朋は、これでも安心がならなかった。部下からの報告には、彼らが政談演説会などを開いて当局をしきりと攻撃し、官吏侮辱罪に問われて拘束される者が引きも切らないという。あるいは政治的示威運動を起し、解散を命じても聞かず、首謀者を拉致《らち》しようとすると、群衆が警官に向って投石する始末であるという。また、旅館や旗亭において、その名を懇親会、相談会などと称して、実は政治上の運動を計画し、各地有志との連絡、結合を計り、隠然秘密結社の勢いをかりて不穏の運動を企図する者があるという。  さらに、星亨や片岡健吉などが全国有志の代表として建白書を携《たずさ》え、政府に直接迫るという事態にまでなった。  有朋は、ここで彼らを解散させるばかりでなく、東京からその全員を放逐することを考えた。その条文が保安条例である。  有朋は、その起草を時の警保局長|清浦奎吾《きようらけいご》に命じた。清浦は、早速、神奈川、千葉、埼玉三県の警部長を呼んで、この規定に該当する過激な政客の一覧表を参照し、条文をさらに練ったらしい。彼は昏《く》れてから有朋のところにやって来て、その一覧表を見せた。 「こんなものでどうです?」  清浦奎吾の見せた草案は全体で六条から成っているが、大体、有朋の満足するところだった。核心となるのは第四条であった。 「皇居又は行在所《あんざいしよ》を距《へだた》る三里以内の地に住居、又は寄宿する者にして、内乱を陰謀し、又は教唆し、又は治安を妨害するの虞《おそれ》ありと認むるときは、警視総監又は地方長官は内務大臣の認可を経、期日又は時間を限り退去を命じ、三年以内同一の距離内に出入寄宿、又は住居を禁ずることを得。(中略)禁を犯す者は、一年以上三年以下の軽禁錮に処し、仍《なお》五年以下の監視に付す。監視は本籍の地に於て之を執行す」  危険分子を東京から追放する着想は、徳川時代の江戸構えから得たもので、有朋が考え、これを清浦奎吾に立法化させたものだ。彼は、もとより、これに対して政府部内からも反対のあることを予期した。そこで、清浦が草案の作成に暇取っているときも、しきりとその出来上がりを催促した。  保安条例がいよいよ明日発布されるという前夜、有朋は秘書官を従えて市内を微行した。秘書官は拳銃を懐ろにして有朋に同行した。  内山下町《うちやましたちよう》の官邸を出て、山下門から山下町の河岸を右に土橋《どばし》のほうへ徒歩で行った。桜田本郷町の交叉点の所まで来ると左に折れ、愛宕町《あたごまち》の付近に来ると、この辺から警戒の巡査の提灯が点在して見えてくる。殊に一覧表に載っている人物が宿泊している方面では、この丸提灯が星のように連なっていた。  有朋は、それを見てうなずき、今度は虎ノ門に出て、外務省とロシア公使館との間の狭い通りを歩き、裏霞ヶ関の坂を上って永田町の伊藤の官邸に着いたのが夜中の二時ごろであった。  警戒の巡査は有朋の顔を見て敬礼し、すぐに邸の中に連絡した。伊藤は玄関まで迎えに出て来た。  有朋と伊藤とは洋風の応接間に入って、三十分ばかり話をした。 「いま見て来たが、大体、警戒の点は大丈夫のようじゃ」  伊藤は欧州から土産に持ち帰ったガウンを着て、葉巻をくゆらしていた。 「夜中におぬしもご苦労じゃのう。それで明日は連中も肝をひっくり返すじゃろう」 「まだ、このことは誰も知っちょらんから、うまい具合にいくじゃろう。三島もはじめは渋ったが、おぬしがやらんならおれがやる、と言うたら、あいつは、それじゃわたしがやります、と言いよった」 「寒かったろう。まあ、葡萄酒でも飲んでゆけ」  有朋は、この条例を出せば、まずおさまると思うが、それで足りなければ、いつでも軍隊を引っぱり出す、と言った。  これは彼がいつも抱いている持論であった。 「それはよいが、警察官を召集したりしたら、連中に気づかれはせんかのう?」  伊藤は細かいことに気を配った。 「その点は大丈夫じゃ。三島に言うてある。警察官を召集するときは、恰度、暮が近いから、忘年会ということにして、その席で初めてうち明けるように。そうすりゃ都合よくいくじゃろう」  翌日、警察官は非番といわず全部召集した。有朋は大山陸軍卿に連絡して、陸軍省は宿直を増加し、陸軍病院は医員を召集し、憲兵本部は諸隊を各要所に配置させ、軍用電線を枢要の地に架設した。これは「万一壮士にして腕力を以て命に抗する者があったならば、これを殺傷するもやむを得ぬ」と警察官に内訓を下していたからである。さらに大蔵省には憲兵、巡査のほか二個小隊の兵を派して非常を戒め、小石川砲兵工廠には一個小隊を配備した。また、陸海軍の火薬庫、兵器貯蔵庫に至るまで平日の警戒の十倍にして配置した。この辺の警備態勢は有朋の最も得意とするところであった。      48  このことは成功し、三島警視総監からの報告以外にも、当時の滋賀県知事|中井弘《なかいひろし》からも書面が来た。 「昨夜は霹靂《へきれき》一声頭上に落ち来り、爽快の念を禁ずることが出来ませんでした。かくの如くにしなければ、彼ら教唆陰謀者の肝を寒からしむることは出来ません。何となれば、彼らはひとり将来国家の安寧を維持するを励むものではなく、ただ自己の不平と嫉妬との念に駆られ、名は皇室の尊栄を保持し、国家の幸福を増進すると言っていますが、その言行上に隠されているものは共和主義と革命主義にほかなりません。故に彼らの主義あまねく青年社会に蔓延《まんえん》するに先立ち、この霹靂を頭上に蒙らしむるは、第一、軽挙浮動の子弟をして労力と教育とに誘導するの道だと思われます。小官などは過日来より、この果断の御処置があるように毎日希望いたしておりました折なので、ようやくこの御断行に及んで、実に国家の幸福と存じました」  有朋はまた事の終って後の新聞に眼をさらした。 「保安条例発布につき、其筋にては同条例第四条に拠り、治安を妨害するの虞《おそれ》ある者と認められし人々を、皇居を距る三里以外の地に退去せしむる為め、一昨廿六日午後五時頃より、夫れ/″\手分して拘立に着手せられたり(此日は前号にも記せし如く、府下各警察署半数の巡査は芝公園弥生社の忘年会に参集せしが、午後三時頃俄に総員引揚となり、帰署するが否、同日の非番巡査をも呼上に成り、此事に着手せられしなりと云ふ)。其中首立たる人々は、星亨(三年)、林有造(三年)、中島信行(三年)、島本仲道(三年)、尾崎行雄(三年)、片岡健吉(二年半を申渡されしが、不服にて、目下警視庁へ拘置)、山本与彦(高知二年半同上)、宮地茂春(高知二年半同上なりしが承服に付送出さる)、竹内綱(二年半)、中江篤介(二年半)、吉田正春(二年半)、板崎斌(二年半)、広瀬正猷(二年半)、安芸清秀(高知二年半)、横山又吉(高知二年半)、山田泰造(二年)、和田稲積(高知二年)、川島烈之助(茨城一年半)の諸氏にて、又南波登発、樽井藤吉、長田房太郎、庄司徳三郎の人々は拘立になり(或は云ふ何れも一年半なるべしと)、楠目馬太郎氏は引致拘留中との事なり。其余退去を命ぜられしは、一昨夕より昨日午後迄にて惣員三百人余と聞えしが此人々の住宅は皆警官(被処分者一人に付巡査二名宛)が出張して、右退去の旨を申渡され(居宅ある者は一週間内、寄寓者は即刻)、其場にて承服の向は直ぐ様附添て(或は云ふ派出所送り)新橋上野両停車場、若くは品川新宿千住等へ送り附け見届の上にて帰署せられ或は其言立の筋に依ては警察署へ引連らるゝ向もあり(又此中には放免となりし者もあり)、中にて尤も不服を言ひ或は理由を聞ん抔《など》云ふ者をば皆警視庁へ差廻されたるなりと云ふ。而して府下中京橋、本郷、小川町、愛宕町の四署管内には下宿屋最も多きに付、他の警察署より応援の巡査を差廻はされたる程なりとか(又吉原に追跡したる警官も数十名あり、同所にて処分を受けたる人々は稲弁楼にて五名、其外併て数十名の多きに及びたり)。扨《さて》又た退去者の中、過半は横浜へ引取りたるが(新橋停車場は終日非常に混雑せり)、予《かね》て東京、神奈川間に打合せの有りしと見え、午前十一時三十分、横浜着の汽車に乗りたる被処分者三十余名が、列車の口を出るが否や、停車場に待設けたる巡査は押取巻て横浜警察署に連れ往たり(午後二時十五分着の汽車にても同様なりしと云ふ)。其中には山内一正(板垣伯の執事)、中西辰猪、片岡恒二郎等の人々あり、現に午後二時二十分迄、同署内に百名程の引致者あり。又警官の護衛に依て旅籠屋に休息する者もあり、其雑沓は中々容易の事に非ず。又同港には足を溜させざる都合にや、昨日出帆すべき郵船の時刻を延引し、此の被処分者を乗組する様、其筋より命令ありしと聞く。又右に付、波戸場辺の警衛もいと厳重なりとの報あり。  右につき警視庁は一昨日より庁員を折半して、半数宿直との事になり(同夜より徹夜)、又外勤詰所へは各警察署より最も壮健なる警部巡査を勝り立て詰合せらる(或は云ふ、此等の事件に付、本年は同庁の休暇なしと、又曰く昨日に限り同庁留置場の差入物を禁ぜられたりしとか)。又陸軍省も同夜俄に宿直を増され、憲兵隊にても、十分に非常を警《いまし》められ、東京始審裁判所の検事局予備局にても、一昨夜来徹夜にて同条例に関する手続を取調らる、況や警保局に於てをや、終夜絶えず警視庁と往復して、其執行を打合せらる。斯く官衙は非常の混雑を極めたれども、市中は至て平穏にて、人々は皆歳暮の営みに暇なく、斯る非常の騒動の有るや無しや一向聞知らざる者の如くにて、掛取り其他に市街を奔走するのみなりき。又神奈川県警察本部に於ては、電報を以て各郡の警察署長同分署長を会し、昨日午後一時より臨時大会議を開かれたりとか」  有朋は大安心した。  その後の報告も東京に騒擾が起る気配を思わせなかった。やはり軍隊を動員させてよかったと思う。警察力ではとても収拾のつかないことになる。殊に暴徒に対してはそれを斬るのもやむを得ぬと指示したから、うしろに軍隊がなかった場合、警察隊との衝突は未曾有の騒動にまで発展するかもしれなかった。  有朋は、絶えず軍隊の内部に眼を向けている。兵士の中に、このような「外」の空気に感染している者はいないか、思想上に不穏なものを持っている者はいないか、絶えず兵士の素行調査をやらせていた。兵士の多くは地方農村出身の壮丁だった。したがって、軍隊はあくまでも特殊社会に仕立てなければならない。ここにいる限り、あらゆる俗世間とは没交渉の、隔絶した世界にしなければ秩序が不可能となる。そのため軍隊内務令には、特に疎外感を盛り上げる規定をこと細かに織り込ませた。  有朋には別に道楽はなかった。ただ、それらしいものといえば、刀剣をいくらか所蔵していることだった。その中でも浅井一文字の一振は、長さ二尺一寸六分、一文字吉房の作といわれる。往昔《おうせき》、浅井長政の差料であったものが柳沢吉保に伝わり、彼の所蔵となったものである。そのほか囲碁もやったが、大して上手にはならなかった。和歌は彼の最も好むところであったが、これも要するに武人の筆すさびにすぎない。そのほか謡《うたい》、仕舞《しまい》などはわりと好きだったが、これとても特に衆人の前に披露するようなものでもなかった。だが、機嫌のいいときは袴をつけて座敷で舞ったりした。      49  明治十八年十月十九日のことであった。有朋の邸に天皇の行幸があった。  この話はずっと前からあったので、有朋は邸内の準備を整えておいた。邸の二階には天皇の座所を設けた。このため役人側との打ち合わせが頻繁に行なわれた。  当日は秋晴れの天気だった。天皇の行列は午後二時二十分に出門。四谷門から麹町を抜けて有朋邸に来たのが三時だった。  その前、二時ごろには、すでに閑院宮《かんいんのみや》(載仁《ことひと》)、有栖川宮《ありすがわのみや》(熾仁《たるひと》)、北白川宮(能久《よしひさ》)の顔が揃った。ほかには、大木、西郷(従道)、川村、井上、山田、松方、福岡、佐佐木の八参議が集い、山尾参事院副議長、林元老院議官、鳥尾統計院長などが参集していた。  天皇が「功臣」の邸に来たのは、岩倉邸と伊藤邸などの例がある。集った参議たちは有朋に、おめでとう、を繰り返していた。図体の大きい西郷と、蟹のような顔の井上とが話している。風采の上がらない松方はお供のようにみえた。背の高い有朋は紋付羽織袴の正装で、絶えず神経質な眼つきをして控えていた。この年、有朋は三女|信子《のぶこ》を喪っている。  先駆車が邸内に来ると、有朋は車寄せにほかの者と一しょに出て馬車を迎えた。天皇はやや猫背の姿で、明るい陽の射している玄関に降りた。壮年の天皇は赭《あか》ら顔をしていた。有朋が敬礼をして、今日の行幸の礼を言った。このとき、陸軍の奏楽隊の音楽が鳴りはじめた。  有朋は先に立って天皇を二階に先導した。楽隊はつづけられている。  ここで改めて有朋から礼が申し述べられた。天皇は濃い眉の下にある切れ長な眼を窓から庭のほうに向け、景色をほめた。  次に先着の三宮との対面があった。つづいて各参議や、参事院副議長、統計院長などが前に進んで挨拶を申し上げた。  ここでお茶を差し上げたり、菓子を供したりした。  有朋は次いで天皇を庭前に導いた。折から鉢植の菊が盛りだった。  広縁に座敷を設けて、天皇を中心に左右に居並んだ。予定のように、ここで銃と槍術の試合があるからだ。  その順序は、第一が槍術、第二が銃・槍術の試合だったが、次には林議官の槍術と、戸山学校歩兵曹長の市村という男の銃術があった。これは標的を設けて射撃する演技だった。  有朋は、この日、襷がけで槍をふるった。槍は彼が奇兵隊の頃から得意中のものである。未だに、この練習を怠ったことがない。痩せてはいるが背が高いので、槍をふるう姿はすでに古武士のような風格だった。  有朋は槍を納めて汗を拭いた。天皇から、見事であった、という言葉がある。  この日の予定はたっぷり時間が取ってあって、夜の八時に天皇は還御《かんぎよ》ということになっていた。暗くなると、有朋は邸内に提灯を張りめぐらし、花火を打ち揚げさせた。この花火は、両国の川開きのときに使っている職人をここに呼んだのである。  天皇が帰ったのは八時を二十分も過ぎていた。よほどここが気に入ったらしい。  他の来会者も潮が引くように去ってしまうと、有朋はまだ袴を脱がないままで座敷に坐った。傭人《やといにん》たちがあと片付けをしたり、提灯の始末をしたりしているのを、彼は疲労した気持で眺めていた。  妻の友子が来て、 「本日はまことにおめでとうございました」  と、手をついて挨拶した。 「さぞお疲れになったでございましょう」 「うむ。おまえも何かと気を遣って骨折りであった」  夫婦は冷めやらない興奮のなかで話し合った。 「いいえ、わたくしなどはただおろおろするばかりでございました。はじめて天子様を拝して、こんなに嬉しいことはございません。一生の光栄でございます。わたくしが生れた甲斐は、今日一日で十分でございました」 「おまえはそう思うか」 「思わないでどういたしましょう。わたくしほど仕合せな者はございません。それというのも、あなたが立派にやってこられたからでございます。天子様も、懼《おそ》れ多いことながら、あなたには始終お言葉をかけておられました。ほかの方をご覧になるのとお眼が違っておられました」 「そうであったかな。わしは気がつかなんだが」  有朋は静かな幸福感に浸った。  しかし、その友子が去ってから一人になると、一種の虚無感みたいなものが心の中から這い上がってきた。  それは、ここまでよく越えて来たものだという感慨だったが、その充実感とも少し違っている。まだまだこれからが難儀だという屈託のほうに近い。すべて客が帰ってしまうと誰しも寂寥感を味わうものだが、天皇をはじめ三人の宮やほかの参議たちが去ったあとは、格別に大きなものが自分から失われたような気がする。その実体は、いうなれば、組織そのものといってもよかった。  維新以来、この国は危ないところばかりを踏み越えてきている。「一介の武弁」と人には称しているが、もともと彼は長州の軽輩の小伜だった。それが今日の地位に就いている。しかし、その彼をここまで押し上げてきた組織は、指一本でつつけば崩れ落ちそうな空洞を絶えずどこかに包んできていた。  有朋の最も信頼していた岩倉具視は一昨年死んでしまったが、その岩倉がよく話していた。天皇が幼少の頃、言うことを聞かないときなど、そんなにわが儘をなされるとまた元の生活に戻しますぞ、と言うと、これがかなり効いたという。京都で苦しい生活をしてきた天皇には、やはり稚い頃の心細い生活が記憶に残っていたのであろう。  しかし、その岩倉はどうであるか。彼もその頃はただの貧乏公卿にすぎなかったのではないか。しかも、公卿の中では下級のほうである。一条、鷹司《たかつかさ》、徳大寺といった伝統のある公卿に、いつも身体を縮めていた男だったのだ。彼が今日あるのは天皇があるためではないか。どうして彼が天皇に向って、元の生活に戻しますぞ、などと大きなことが言えようか。その言葉は岩倉自身に向って放つべきものである。  有朋はいまそれを考えている──自分も一個の足軽であった。伊藤も、西郷も、みな同じだ。彼らは天皇を自分たちの力でここまで押し上げたと思っている。口には出さないが、それが彼らの自負にあることは確かだ。有朋は自分の気持から考えて、そう忖度《そんたく》する。しかし、その幼冲《ようちゆう》の天皇を押し上げた先輩はもとより、それを引き継いだ彼自身をはじめ、すべての人間が天皇を持つことによって今日に及んでいる。  在来の「忠義思想」は別として、誰もが天皇に感謝しなければならないのだ。頼りなかったこの天皇に象徴されるように、政府自体が薄氷を踏んで成長したようなものだった。  伊藤も、井上も、もう大丈夫だという気になっている。有朋は、伊藤のその楽天的な性格が羨ましかった。自分は苦労性なのかもしれない。  その点、岩倉具視は最も自分の気持に近い心を持っていたと思える。彼くらい天皇と政府の実体を知っている者はいなかった。公卿の家に育っただけに感覚が違っているとみえる。彼は朝廷の弱点を全部心得ていた。  有朋自身が人民の反抗を怖れている以上に岩倉具視はそれを恐怖していた。彼は国会開設など無用だと絶対反対していた。地方長官会議も不賛成だった。彼くらい人民を怖れた人間もいない。それは骨の髄から公卿である彼の、朝廷の本体に向っての本能に近い嗅ぎ方だった。  これまでの天皇についての歴史を振り返ってみると、いわば、儀式的な首長として存続が保障されていた。たとえば、歴史上で政権を奪《と》ろうとする者はすべて天皇を自分の側に付けることによって成功を得ている。しかし、一旦政権の座に就くと、これをありがた迷惑な存在として棚に上げている。それは天皇が宗教的な支配に役立つからである。だから、ひとたび天皇が実力を持とうとすると、必ずこれに叛乱している。  岩倉具視はその辺のところをよく心得ていた。彼は天皇を神の座に据えることによって明治政体の基礎を下から固めようとした。祭政一致の宣伝は、こうして岩倉の手で行なわれている。それで封建幕府から近代的な政府にならざるを得なかったのに、政府の名は太政官であり、首相は太政大臣であり、審議局が設けられて審議官が重用せられたのは、時代錯誤である。こうしなければ、人民に影のうすかった天皇が新しい国主としての認識を彼らに与えることができない。天皇を神の座に据えることによって、人民はその神前に頭《こうべ》を垂れることになる。  岩倉の設計は、こうして天皇を現人神《あらひとがみ》に仕上げることにあった。有朋は直話として岩倉からよく聞かされている。      50  岩倉の設計は進んだ。  天皇を宮中にのみ押し込めていては、一般国民に対してその印象がうすくなる。新聞などで天皇の尊厳をいくら書いても、それはまだ微々たるものであった。殊に教育を受けない国民が多数を占めている。その中の半数以上は眼に一丁字《いつていじ》もなかった。天皇がいかに尊厳であるかは、彼らの前にそれを直接見せなければならない。  天皇の巡幸がまず東北地方からはじめられたのは、そのことで意義があった。この年はのちの改進党主大隈重信を廟堂から引きずり下ろした記念すべき年に当る。徳川幕府が瓦解して維新政府が成ろうとするとき、反逆を起した土地に天皇が旅行を試みたことは、岩倉具視の絶妙な戦略であった。曾て朝敵であった東北各地の人民に天皇の威厳を直接見せつけることは、爾後、各地の天皇の旅行に対してどれだけの効果を上げたか分らない。だから、伊藤が「必要の場合は地方行幸あらせられたきこと」という奏議を天皇にすることになる。そう奏議しなければならないほど、天皇はこれに気のりがしていなかったことは有朋もよく知っている。  有朋は岩倉の設計を悉く踏襲し、その上に天皇の権威を構築しつつある。  政府は、その施策に当り、すべてそれが天皇の意志から出たように見せかけた。たとえば、十五年に軍備拡張のため増税をはかったとき、政府の見解を表に出さず、「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ、国家ノ長計ヲ慮リ、宇内ノ大勢ヲ通観シテ戎備ノ益々皇張スヘキコトヲ惟フ」とある。人民が納得できそうにない困難な布達には、必ず天皇の意志であることを強調した。そして、政府筋の見解は、この詔勅を奉戴して一種の談話形式となって発表されている。  たとえば、右の詔勅に対しては太政大臣の「奨諭」として「本日出され候勅諭の御趣意は、専ら国家将来の大計を深く思召し、且つ方今の形勢を御洞察、陸海軍備の一日も忽《ゆるが》せにすべからざるを以て、今般一層武備皇張の御趣意に候ところ、右は巨額の入費を要せざるべからざる儀につき、今や国費不足の時たれば、歳入を増し、収税を課するの外なかるべし。然るに収税の儀は最も民心に関する儀につき、宜しく今般仰出されし聖諭を奉体されたし」とある。  政府は増税が民心に関することを最もよく知っていたのだ。だから、人民の不満が直接政府に来ることを躱《かわ》すため天皇の意志とした。天皇の意志であれば、たとえ不満があっても、それを納得させるだけの教育がかねてから行なわれていたのである。  有朋は、軍備拡張のために絶えず増税を主張してきた。しかし、そのことがいかに「民心に関する儀」であるかは、有朋や、政府要路者の最も知るところである。旧幕時代、各地で起った百姓騒動を見るがよい。その悉くが貢租の増徴にあったではないか。  しかし、天皇の尊厳をただ精神的にのみ伝達するだけでは、人民を徹底的に感化することはできない。  人民はその本能において、皇室の経済が微弱であれば、つい、軽視を起しがちである。この頃は、人民は金持に対して反感を持つ一方、また一種の威圧を感じていた。そのことは三井・三菱などが絶えず世間の攻撃を受けながらも着々と人心を屈服していた過程を思えばよい。神である天皇が三井や三菱より経済的に弱まっていては人心を征服することはできない。  ここにおいて岩倉具視の皇室財産づくりが必要となってくる。もとより、それはパリ・コンミューンやプロシャに敗戦したフランス王室の悲劇が心理的に影響したとはいえ、多分に政策的な意味があった。  その山林にしても、木曾(信濃、美濃、飛騨)、丹沢(駿河、相模、甲斐)、天城(伊豆)、萩原・相川(甲斐)、段戸(三河)、富士(駿河、甲斐)などを御料林として皇室財産に編入したが、これらの旧地主が悉く「朝敵」の藩主であったことも、懲罰的な意味を一般人民に示すことによって、天皇の勢威をおのずから誇示する一石二鳥となった。  そのほか地金銀、公社債、銀行株券、秩禄公債、鉄道公債など、三井・三菱を合しても優にこれを圧倒するだけの財産となった。  天皇が神格化されれば、これを冒涜《ぼうとく》する者に対して刑罰がなければならない。不敬罪はこうして必要となってくる。  しかし、これは最も露骨な不敬行為に課せられたので、一般には道徳的に崇敬の念を教育する必要があった。有朋は、元田永孚《もとだながざね》起草の教育勅語についてしばしば相談をうけ、たびたび、これに示唆を与えている。「君ニ忠ニ父母ニ孝ニ兄弟《けいてい》ニ友《ゆう》ニ」はあくまでも縦の秩序の完成であり、その秩序が縦の頂点において直接に天皇につながるものであることはもちろんだ。「教育勅語」と「軍人勅諭」との相似性が到る所に見られるのは不思議でない。  したがって、政治的には終生一切関与をしなかった侍従長|徳大寺実則《とくだいじさねのり》は、その日記に次のように書くことになる。 「三日 月曜 後七時三十分、皇族、各大臣、各国公使、次官、御陪食被仰付、今般条約改正会議開会ニ付キテハ 上御正服、仏墺伊白勲章|御佩用《ごはいよう》、臣下各公使大礼服也。君主正式ノ晩餐被召ハ必ス大礼服ヲ着用スル例ナリト伊藤宮内大臣ノ説ナリ。去十五年七月十七日晩餐被為召節、内外臣燕尾服ヲ着シハ疎略ナリ不敬ナリ」(十九年五月)  ここでは各国元首を代表する公使が「御陪食被仰付」と臣下扱いである。しかも、それは内|外臣《ヽヽ》の服装が疎略だと不敬《ヽヽ》なりと断じている。  天皇は、日本人民のみか外国に対しても超人格的存在になっている。このような思想は、もとより、外国に向けられたものではなく、国内人民に一つの示威として行なわれたものだ。しかも、徳大寺の書いたのは条約改正に絡んだ晩餐会での礼装に関してである。  条約が安政以来の屈辱的なものを平等に改正しようという政府の動きは、この頃しきりと強くなっている。これは外務卿井上馨がその折衝に当っているが、伊藤博文が鹿鳴館で仮装舞踏会を行なうのも、日本の文化が英米並みであることを外国人に認識させ、条約の平等締結に近づけようとする姑息な手段である。しかも、十九年五月は未だに屈辱的条約が行なわれているときであり、日本は諸外国から全くの後進国扱いなのである。その最中《さなか》に大上段に先進国使臣を天皇の臣下扱いにしている。  有朋は、伊藤や井上が行なう仮装舞踏会を苦々しく思っていた。彼は内務大臣の職責上仕方なしに出席したものの、甚だ気乗りがしなかった。  彼は条約改正の必要は認めたが、そのため欧米の風習を俄かに真似する必要はないと思っている。急ごしらえの舞踏会を催しても、外国人には街頭の日本人社会の旧弊さがよく分っている。  有朋の眼は、つねに国内の内部組織に向けられていた。自由民権運動の残党はまだ、そのあとを絶ったとは思えない。しかも、彼らは次第に兇悪的な暴動に出ている。静岡事件では、これらの一味が静岡連隊の軍人と呼応して事を挙げようとしたくらいだ。これは未然に防げたが、事態は有朋が最も怖れた内容をもっている。  軍隊の中には絶対に他の世界の思想が混入してはならない。軍隊は隔離された特殊社会である。しかし、彼がこれまでにたびたび考えてきたように、軍隊を構成する兵士の出身はほとんど農民である。どのように城壁を固くしても、どこかの隙間から自由民権思想が入り込んでこないとも限らない。有朋は、それを防遏する手段として自由民権運動の撲滅を志してきた。防備よりも敵を潰滅させることである。そのために手段を択ばなかったのは当然だと思っている。非難されることはない。  しかし、これらの意図が伊藤や井上に正確に分っているかどうか、有朋はいつも危ぶんでいる。すでに松方のデフレ政策によって、各地の農村はひと頃の好景気から一挙に転落している。これらの農村不安が軍隊内の兵士に波及してくるのは必至だ。それを考えると、有朋は夜も寝られない。  どこの国の革命も、民衆が軍隊を味方に引き入れることによって成功している。フランスもそうであった。ドイツでは不逞な暴徒を防ぐため「社会党鎮圧法」をつくっている。ロシアでも虚無党を弾圧する極端な恐怖政治をとっている。伊藤などは有朋の密偵政策を非難しているようだ。その話がちらちらと訪ねてくる客の口から伝わっていないでもない。伊藤には分っていないのだ。  だが、軍隊社会を防護することは、その首長である天皇を擁護することである。君側《くんそく》の奸《かん》を除くなどと古めかしい合言葉で彼らは反逆するが、君側の奸が除かれると、「君」の意志がどっちに向うか紙一重のところである。      51  夜会がしきりと催された。井上、大山などにつづいて、伊藤の夜会が二十年四月に永田町の邸宅で開かれた。  有朋は、欠席したが、その有様は翌日の新聞で読んだ。 「一昨日の午後九時より永田町なる伊藤総理大臣の官邸にて、予定の如く夜会の催しありたるが、かねて記したる通り仮装会のことなれば、来賓はいずれも異様の装飾にて来会され、まず邸門を入りて見渡せば大なる電気燈高く輝やき、玄関は緑葉をもって陣幕を粧いたるに、椿の花にてところどころへ模様を置かれ、また白桃の花にて揚藤《あがりふじ》の紋を置かれ、ここに現われ出で来賓を待設けたるは黄の筒袖に脛当《すねあて》して、鉄粉塗日の丸の陣笠を戴き雑兵《ぞうひよう》の扮粧《よそおい》、これは某々《それそれ》の秘書官二人なり、かくて第一番に馬車に鞭うって到着されしは、日本武尊の長崎省吾氏。二番の到着は可愛らしい唐子《からこ》にて岩倉具定氏。三番の到着はフランス古代武者の谷森真男氏。四番におやおや喜びあれやと踊り込みしは山内書記官の三番叟《さんばそう》。五番に一輛の箱馬車玄関に着するや否や、ブウと一声馬車の内より法螺《ほら》を響かせながら、しずしずと立出づるは高島嘉右衛門氏の山伏。六番は槙村議官と同令嬢の西京舞子。七番は鍋島君の旧神官。つづいて二疋立の馬車に白鉢巻、緋縅《ひおどし》の鎧に簑笠を背に負い、鎔物作《いものづくり》の大太刀|佩《は》いて、白地の羅紗へ金糸にて二行の文字を繍《ぬいとり》たる指物を挿したる暴雄と、荒き風をも厭うと見ゆる優しき乙女二人と合乗りしたるは、桜の梢に勇める駒を繋ぎしもかくやと見えし、これなん三島警視総監の備後三郎と、二人の令嬢の汐酌《しおくみ》女なり。第八番は毛利公爵、御先祖|元就朝臣《もとなりあそん》に扮粧《よそおわ》れたり。次に入り来りたる翁は誰ぞ、浦島の太郎俗名大倉喜八と名乗って白髪の鬢《びん》、片手に釣竿、片手に玉手箱を抱えて、よたよたと馬車よりよろめき下り玄関の踏台に片足踏掛け、禿げて悔しきとギックリ睨むと、脇の下に仕掛けたる電気がピッカリ、薬鑵《やかん》になったとの地口なるべし、第十番は馬車より下りるとそのまま玄関にピタピタと坐って小笠原流を極めたる葵《あおい》の御紋の継上下に、女性は片外しの御殿女中、これは榎本逓信大臣と同令嬢なり。次に馬車にて入り来ると見えしが忽ちドッと玄関へ飛下り、悪魔払いと高く呼びたる赤鬼は、踏舞教師ヤンソン氏なり。つづいて見えたるは大山大臣のチョン髷鬘《まげかつら》の塩谷判官《えんやはんがん》。第十三番の馬車の上に白く輝やきたるは山田大臣の寿老人。第十四番は福地源一郎氏の山伏にて、角頭巾に鈴掛けして苛高《いらだか》の珠数を押揉みつつ、御身生の大法螺を背負われたり」  有朋は眉間に皺を立てた。読むに耐えない面持で、新聞をそこに投げた。大体に几帳面な彼である。読んだ新聞はきちんとたたんでおく性格だった。来信もいちいち封筒の表に用事の概要を書き、返事は秘書官に書かせるものと、自分で書くものとの区別をつけておくくらいである。だから、この記事はよほど腹に据えかねたといっていい。  これはまるきり道化であった。このようなことで条約の改正が急速に出来ると伊藤は考えているのだろうか。有朋には伊藤たちがただ外国人のご機嫌を取り結んでいるとしか思えない。それならわが高官は外国人の幇間である。陛下の威厳はどこにあると言いたい。  いくら陛下の陪食に燕尾服では不敬に当ると叱咤しても、これでは自らその馬脚を顕わしたと言うほかはない。伊藤は現在の韓国情勢、ひいては日清の関係を甘く見ているのではなかろうか。清国の新聞にはしきりと侮日記事が載せられている。現に三、四日前に到着した新聞では、近く天皇が京都御所に行幸することについて、皇室の府庫が底をついていると宣伝しているほどだ。  伊藤や井上たちと違い、一般の者はもっと対外的に切実感を持っている。外国使臣が仮装舞踏会で演芸を演じるほど泰平であるのに、新聞は帝都が東京から京都に遷《うつ》されることになるかもしれないという「巷説」を掲げている。 「東京湾は海防に不安心にて、一旦外国と戦闘を開くの日に当り、万一敵艦二十余隻も一時に突進し来らば、富津、観音崎の燈台がわが艦隊の防戦を助けてこれを湾口に食止むることを得べきか。いかに軍略に富む人と雖も、この返答には当惑するならむ。この際、たとえわが軍艦と砲台とが非常の働きを顕し、敵艦の過半をこの所に撃ち沈むるも、なお残りの敵艦は砲煙を潜り湾内に突進し来り、品海近く荒れ廻り、東京市街の真中に聳立《しようりつ》したる国会議事堂や太政官府の建築を一発の破裂弾丸のもとに微塵に破壊するが如き大変事無しと云うべからず。実に不安全千万の至りなれば、未だ諸官衙の建築、市区改正、東京湾築港に着手せざるに当り、その工事を西京に移し、同地在来の市街によりて完全なる帝都たらしむるにしかず、との議が現に要路に立てる顕官の間に行わるるとの説あり」  これが諸外国との条約改正を泰平の雰囲気の中に進めている日本の背景であるのだ。おそらく、この新聞記事の筆者は、顕官の間にその議が行なわれているという巷説に仮託して意見を述べたのではなかろうか。  近日、有朋は兵力の大増強を考えている。これはすでに予算も取ってある。  その構想は、東京鎮台|輜重兵《しちようへい》第一大隊に幹部を置き、同大隊に第二中隊を設置する。大阪鎮台輜重兵第四大隊に同じく幹部を置き、同大隊に第二中隊を設置する。近衛歩兵第四連隊には第二大隊を、歩兵連隊第二大隊には第三小隊をそれぞれ設置する。東京鎮台歩兵第十五連隊、仙台鎮台歩兵第十七連隊、砲兵第二連隊、名古屋鎮台歩兵第十九連隊にはそれぞれ第三大隊を設置する。大阪鎮台歩兵第二十連隊、広島鎮台歩兵第二十一連隊並びに第二十二連隊には第三、第四中隊を増設する。熊本鎮台歩兵第二十三連隊及び第二十四連隊には第三、第四中隊を設置する。  有朋は内務卿に転じてからは大山巌を陸軍卿にしているが、桂太郎を通じてほとんどの陸軍部内の情勢は彼のもとに運ばれて来たし、また彼の意向は桂に託して内部の政策に反映させている。大山陸軍卿はツンボ桟敷に置かれることがしばしばである。  しかし、茫洋とした大山は、さしてそれを苦にしていない。先輩後輩の序列はあっても、薩長という派閥対抗的な意識も大山にはなかった。陸軍卿としては彼は有朋にとってまことに好都合な人間である。  有朋は周囲の情勢から一時的なつもりで陸軍卿から内務卿に転じたが、ここでは彼の作った陸軍部内へ不逞の思想が侵入しないように本腰に自由民権運動を撲滅してきた。また今後もその覚悟である。地方制度改正といい、警察制度改正といい、すべて彼にはその意図から起っている。      52  有朋は、来る二十三年に国会が開設された場合、代議士が過激な議決を行なって政府の政策を左右するのを惧れた。彼は、国会に先んじて地方自治制度を国家の直接統治機関に置き、国会といえどもこれを自由にすることはできないようにしようと考えた。これには主として品川弥二郎を呼んで相談した。  また、ドイツからアルベルト・モッセを顧問として招聘していたから、彼からも意見を聞いた。モッセは、議会は元来重大な立法に適さないから、裁判法規、租税、兵役法規、地方法規は、議会の成立以前にあらかじめ設けて置かなければならないと進言した。  これは有朋の考えていることとまさに一致した。本来なら、このような立法は議会が決めるべき性質のものである。しかし、有朋は、過激な言論が国会に行なわれた末に国体の変革まで起りかねない場合を惧れる。  だから、国会議員選挙そのものに厳重な規制を設ける必要を感じた。とんでもない者が国会議員になっては、さなきだに自由民権運動に手を焼いている今、国家の安危に関わると思っていた。  地方自治制度としては、明治十一年公布の府県会規則、そして、明治十三年に公布した区町村会法というものがある。有朋は、明治十七年、これを根底から改正し、府知事・県令・各戸長の権限を強化することにした。そして、平均五町村一役場に整理し、区町村会の権限を縮小した。この改正によって、直接政府の命令が行き亘るようにすると同時に、区町村会の権限を殺《そ》ぐことによって勝手気儘な議決ができないように封じようとしたのである。  そのために二十年の一月地方制度編纂委員を設け、有朋自らが委員長となった。委員には品川をはじめ、同郷の青木周蔵《あおきしゆうぞう》、野村靖《のむらやすし》、その下の書記官には白根専一《しらねせんいち》、大森鐘一《おおもりしよういち》を任命した。いずれも彼の「子分」であった。これらは内務省に彼の勢力を植えつけてゆく尖兵となっていた。  こうして有朋は国会開設前に大急ぎで地方自治制度を制定したが、これをもって地方制度を「自治権」として認めず、むしろ自治に対する政府の制限を加え、これを中央統制化する方向に導くことにした。  その上、この制度によって国家観念を植えつけ、徴兵制度強化の一手段に考えた。  また、選挙権については町村制では二級選挙法を、市制では三級選挙法を施《し》いて、納税額により選挙権を国民に与える仕組にした。つまり、金持だけに選挙について大きな権限を与える狙いだ。郡会は地価一万円以上の大地主の町村会から互選された議員で構成し、特に一万円以上の大地主が全議員の三分の一を占めるように計らった。  つまり、地方議会を大地主的な層で固め、民権運動にいささかも惑わされない地方支配階級を構成し、天皇制絶対主義の基礎にした。これはたとえ中央政局が変動しても、その余波を地方行政に波及させない防波堤としたのである。  こうして彼は国会が将来権力を脅すような挙に出ても地方自治体だけはこれから全く切り離す戦略に構築していたのであった。  このことは、伊藤が目下作成している憲法に対する有朋の危惧と不安との現われでもある。伊藤はいま湘南金沢の夏島で草案の構想を練っているが、それがどのようなものであるかは有朋には分っていた。いうなれば、伊藤の議会主義に対して、有朋が先回りしてこれを防禦したのが地方制度改正の着眼であり、また、国会に対する防禦的意味を含める先制攻撃でもあった。  有朋は伊藤に対してあまりいい感情は持っていなかった。伊藤は彼より三歳年下である。しかし、有朋が軍政に没頭している間、伊藤は大久保利通のあとをうけて俄かに政界の表舞台に躍り出で、華やかな存在となっていた。いつの間にか伊藤は有朋の前を五歩も十歩も進んでいる。  それに両人は性格も違っていた。伊藤は私生活の面で乱れが甚しい。多くの女を近づけ、遊蕩をなし、万事派手好みである。有朋がことさらに人に向って、自分は一介の武人である、と言ったのは、多分に伊藤に対する劣等感の反撥でもあった。彼は、伊藤への対比としていよいよ謹厳に身を置くことになった。  それだけではなく、天皇の伊藤に対する信頼は、有朋のそれよりもかなり厚いと感じられた。これにも有朋は平静でないものがあった。  有朋は当時陸軍顧問として呼んでいたメッケルなどの意見を聞いて監軍部を新設し、彼自ら初代の監軍となった。これには桂太郎、児玉源太郎《こだまげんたろう》、川上操六《かわかみそうろく》を自己の手下とした。  監軍部は、一時廃止された第一次監軍部が軍令執行機関であったのに対して、今度の内容は陸軍軍隊の錬成を統一企画する教育機関とした。そして、これを陸軍大臣、参謀本部長と同格の地位として天皇に直属するようにした。  有朋は政府部内では内務大臣として伊藤首相の指揮下にあるが、この「監軍」によって伊藤と同格となり、或る意味で彼と対決する地位を確保した。  それと、しばらく軍部の現職を離れていた有朋としては、やはり軍部内にも現職を持つ必要を感じたのである。どのように桂太郎を信頼して任せていたとしても、代人はやはり代人である。有朋は自己の勢力が、いつの間にか薩派の大山陸相に影をうすめられてゆきそうな不安も感じている。神経質な有朋は、あらゆる細部に亘って用意周到に手を打っておかなければ気が済まないのであった。  有朋は、今日も朝から馬に跨《またが》って街へ下りてゆく。  彼は馬丁を従えて馬をゆっくりと歩ませていた。しばらく着けなかった軍服も、監軍となってからは再び着るようになった。胸には略章をつけている。通る人が山県とは知らないで、その馬上姿を見上げていた。  街はまだそれほど人が出ていなかった。朝が早いのだ。納豆売りが一軒の家に呼び込まれている。有朋は、いつぞや、この街で脱走軍人の小さな騒動を目撃したことがある。あれから八、九年経っていた。年月を隔ててみると、それほど変ったこともなかったようだが、時の動きはおそろしいもので、かなり忙しく日本も変貌してきていた。  街はまだ活溌な動きをみせていない。向うに見える町の屋根も、十年以来、少しもかたちを変えていない。相変らず火見櫓はあるし、崩れかかった土蔵はそのままになっている。川も以前のまま濁っている。しかし、この建物の下には静かな社会の変革が行なわれている。町の表情はそれを見せない。いま眼の前に歩いているのは大工の職人であったり、荷車を曳いた日傭《ひやとい》であったり、立ち話をしているおかみさんたちであったりする。  或る家では、朝の食事の最中だった。家族が五、六人集って食卓を囲んでいる。その裏では赤ん坊の泣き声が聞えていた。  大きな厨子《ずし》を背負った白衣の男が鉦《かね》を鳴らしながら歩いていた。厨子には女の髪の毛が長く下がり、供物がかたちばかり載っていた。これも江戸時代のままだ。老人は、まだ頭に小さな髷《まげ》をのせている。  しかし、社会は眼に見えないところで流れている。一人一人の顔は無気力な庶民のそれだったが、これが集ると、どのような大きな暴民の集団となるかもしれないのだ。それがないとはどうして保証できよう。秩父の騒動も、加波山事件も、ふだんは山村の畑で鍬《くわ》をふるっている無気力な顔の男だったのだ。  有朋は、今日大阪から来るはずの大浦兼武警部長を呼んでいる。それには杉本孝吉という警部が随伴している。この男は、いま見えている無気力で無知そうな庶民の間から、大阪事件を嗅ぎ出した男だ。大浦の手紙では、将来使える男だと推薦してあった。もう一度会った上で、隠密に役立つ男かどうかを見ることにしている。  朝日がかなり高く昇って、胸の略章を眩しく輝かしはじめた。  来年はヨーロッパに視察に行く予定にしている。フランスからドイツに入るつもりだが、主としてこれは品川弥二郎にすすめられて外国の地方制度を視てくるつもりなのだ。  有朋は、曾て遊んだドイツの或る田舎の風景をふと眼に泛べている。あの村も多分あのままであろう。しかし、ドイツの国も変っている。フランスはもっと変ったはずだ。だが、彼が曾て通って見た一村落のかたちは、おそらく、昨日通過したように、そのまま彼の前に戻るにちがいなかった。社会の変化とはそういうものだと思っている。懶《ものう》い、無気力な屋根の下に、国王をも断頭台《ギロチン》にかけるような民衆のエネルギーがいつも隠されている。──  子供が一人、馬上の将軍を見つけて、持っていた棒を前に立てて捧げ銃《つつ》の真似をした。  顔の長い有朋は、落ち窪んだ眼窩に嵌った細い眼をそれに向けたが、にこりともしないで子供の前を通過した。──  初出誌 『文藝』一九六二年三月号〜六三年六月号  単行本 一九七六年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年八月十日刊  本作品には、今日からすると差別的表現ないしは差別的表現と、とられかねない箇所がありますが、それは本作品が描いた時代が抱えた社会的・文化的慣習の差別性が反映された表現であり、その時代を描く表現としてある程度許容せざるをえないものと考えます。作者には差別を助長する意図はありませんし、また作者は故人であります。読者諸賢が本作品を注意深い態度でお読み下さるよう、お願いする次第です。 [#地付き]編集部